十五 騒乱
荒川は、一目散に館へ向かう。秋貴も遅れて後を追うと、荒川は玄関から入り込みちょうど階段を降りて一階にいた井沢の奥方竹子に向かっていった。
荒川の手には抜身の刀が握られており、悲鳴がそこかしこから聞こえてくる。
今日の竹子は、天平美人そのままに広袖に
刀を振り回す荒川から、誰も竹子を救い出してくれない。
人々の怒号と悲鳴が錯綜する中、荒川は竹子を背後から羽交い絞めにして階段下の壁を背にして竹子の首元に刀をあてた。
竹子は恐怖からか一滴の涙をこぼし、美しく化粧を施された頬を伝い顎からしたたり落ちると、荒川の手を濡らした。
その二人が立つ場所は、玉突き場へ行く通路と直角に交わる壁だった。
「動くな! 井沢はどこにいる。出てこい!」
井沢も騒ぎを聞きつけ一階に降りてきていた。荒川の要求どおり、荒川と竹子から離れて見守る群集の中から一歩前に進み出た。井沢も竹子と同じく奈良時代の衣装で、武官の朝服姿だった。
「おまえ、何が目的じゃ。竹子に危害を加えんな」
じりじりと歩を進め、二人に近づこうとする井沢を荒川は一喝する。
「近づいたら、夫人の首が飛ぶぞ!」
この一言で、騒然としていた場はぴたりと静まり返った。
「わかった。わかったから。何か要求があるんか?」
井沢の必死の台詞を荒川は鼻で笑う。
「要求なんかない。この宴があほらしいだけさ。欧米列強にしっぽをふって、何が楽しい。慣れない西洋の真似事をして、異人どもがなんて言ってるか知ってるよな、井沢さん」
荒川に問われても、井沢は押し黙っている。
「似合わない洋装を着て、おかしなダンスを踊ってもしょせん猿真似なのさ。俺たちはあいつらの目からしたら、黄色い猿でしかない。あんたも、わかってんだろ」
「西郷の亡霊を仕組んだのも、おまえか?」
「ああそうだ。亡霊騒ぎで、西洋かぶれの張りぼて、鹿鳴館の評判を落としてやりたかった」
静かにことの成り行きを見守っていた秋貴は、人でごった返す玄関ホールの中に日向子を探したがその姿はない。この騒ぎに巻き込まれていないのは幸いだが、早く無事を確認しようと動き出したところで、だんだら模様の羽織とぶつかった。
「おい、動くな。下手な動きをしたら、荒川が何をするかわからんぞ」
鋭い大きな目を見開き、凶行に及ぶ荒川を藤木は忌々し気に見据えていた。
「荒川さんは、国粋主義者だったんですね」
「そんなもん、初めて知った。あいつにそんな政治思想があったなんてな」
「まあ、本人がああやって公衆の面前で言ってるんだから、そうなんでしょう」
秋貴の冷めたものいいに、藤木は腹を立てる余裕もないようだ。
「この事態、どう収めるんですか」
「背後から回り込むしかないだろ」
藤木がそう言った瞬間、荒川と竹子が背にしている壁に向かって左側の廊下の奥から、ゴロゴロゴロと雷鳴に似た音が聞こえてきた。二人に集中していた視線が音のする廊下へ移る。
そこから色とりどりの小さな球が、いくつもいくつも転がり出てきた。
玉突き場の外で怒号や悲鳴が入り乱れた時、室内にいたのはヘンリーと日向子二人だけだった。日向子はそおっと扉を開けて伺うと、薄暗い廊下の向こう、明るい玄関ホールで人々が「やめろ」「夫人を開放しろ」「警察官がなんてことするんだ」と口々に騒いでいる混乱する状況だった。
「これは、どうも大変なことが起こったみたいだな」
武士姿のヘンリーの顔にさっと、緊張が走る。
「亡霊じゃなく、暴漢が現れたみたいだ」
「亡霊より暴漢の方が、質が悪いわね」
ヘンリーは腰に下げた刀を抜き、外へ出て行くタイミングを見計らっている。
「どうするの?」
「廊下の壁伝いに近づいて、後から襲い掛かるしかないだろ」
少しだけ開けた扉の隙間から見ると、暴漢の右肘が張り出している。壁ギリギリに立ち、右手で刀を握り人質の首元に当てているようだ。
漏れ聞こえた声から考えて、人質になっているのは外務卿の奥方と推測される。
「でも、気づかれるかもしれないわよ。あなた今日の着物明るい色だし」
ヘンリーはそう言われて、自身の灰白色の羽織を見つめた。
「うーん。これじゃあ廊下の暗がりでも浮いて見えるかな」
「それに、体も大きいし。暴漢がちょっと背後に視線を移しただけで見つかる。ねっ、わたしが行くわ。体も小さいし。黒い軍服なんだから」
嬉々とする日向子へ、ヘンリーは落ち着いた低い声音で言い聞かせる。
「あのね。いくらお転婆でも、非力な君にそんなことさせられるわけないだろ」
「あらっ、非力じゃないわよ。わたし薙刀、得意なんだから」
「ナギナタ? なんだいそれは」
日向子は玉突き台におきっぱなしにしていた、玉を突くキューを取り上げた。
「大和なでしこ、必須の武道よ。侍の妻は薙刀を構えて、城に攻め込む敵と戦ったんだから」
日向子は体を横にして長い棒を構えた。
「はあ。日本では奥方も侍なのか。恐ろしい……」
今にも扉から出て行こうとする日向子の肩をつかみ、ヘンリーは台の上に視線を投げた。
「まあ、待って。ミッションには作戦が必要だよ。ただ猪みたいに突進しては、勝ち目はない。頭を使わないと」
そう言うと、ヘンリーは番号がふられた色とりどりの球を両手いっぱい持てるだけ持ち、日向子に扉から出るように促した。
「いいね。僕が合図したら、君は暴漢の右肘を思い切り突いて、刀を落とす」
日向子は無言で頷くと、ヘンリーを従えそろりそろりと廊下へ出たのだった。
長い廊下の壁に背中をピタリとくっつけ、ゆっくり暴漢に近づいていく。一歩踏み込めばキューを伸ばし暴漢の右肘を付ける位置まで来ると、ヘンリーは日向子の後ろでしゃがみ込む。
日向子はヘンリーの合図を待って、廊下から飛び出た肘に視線を集中させて棒を構えた。しくじるわけにはいかない。日向子は心の中で、自分に暗示をかけた。
必ず一撃で仕留める。
「今だ」
ヘンリーは持っていた球を思い切り廊下に放り投げた。ゴロゴロと球が玄関ホールへ向かって勢いよく転がり出し、人々がそちらに気を取られるのがわかった。
日向子は視界の中には突き出た右肘しか見えていない。大きく一歩を踏み込み、腰を落とした低い体勢から棒を右肘めがけて突き出した。
「やあ!」という威勢のいい掛け声を発したと同時に手ごたえを感じ、刀が床に落ちた華やかな音が耳に届く。
日向子は素早く玄関ホールへ躍り出ると、暴漢の足を払い倒れ込んだ胴を打ち据えた。間髪入れずその場にいた警察官がわらわらと、暴漢を捕獲するべく群がり始める。
竹子もいっしょに倒れていたが、井沢によって暴漢の腕の中から救い出されていた。
押さえつけられる暴漢の顔をじっくり見ると、それは見知った顔の荒川だった。力士に切り付けられたはずの荒川が、なぜ犯人だったのか。
日向子は混乱したが、ゆっくり考えている余裕もない。たちまち、華奢な少女の武勇を目の前にした紳士淑女から歓声で迎えられたのだ。
日向子を称える声や、荒川をなじる声。はたまた竹子を心配する声が交錯する混乱の場に、パンパンと大きく手が打ち鳴らされた。
「いやあ。みなさん。楽しんでいただけましたかな。今日のファンシー・ボールにうってつけの出し物だったでしょう」
井沢の芝居じみた台詞回しに、その場にした一同はポカンと呆けてしまった。しかし、暴漢騒ぎは今日の演出だったと納得したようだ。
納得したフリをしているだけかもしれないが、井沢を褒めたたえ促されるまま二階へぞろぞろと上がっていった。
一階に取り残されたキューを持ったままの日向子の傍には、いつの間にか秋貴が立っていた。
「あなたの薙刀の腕前は、たしかでしたね。でも、やりすぎですよ。あなたが飛び出てきて、僕は肝が冷えました。何事もなくてよかったですけど」
日向子のことを心配する秋貴に悪いと思うよりも、日向子は事の真相が気になってしょうがない。
「ねえ、これって本当に出し物だったの? 荒川さん、すごい迫真の演技だったんだけど」
「そんなわけないですよ。ああでも言わないと、この場が収まらないと思ったんでしょう。外務卿にとって、人心掌握はお手の物ってことですね」
日向子は警察官に両側を抱えられ立ち上がった荒川へ、視線を走らせる。秋貴の台詞の証拠に、凶悪犯そのものの醜悪な面構えの荒川だった。
「まあ、これ以上新聞ネタをつくるのも、馬鹿らしいからね、さっ、日向子はどうする? 踊るかい」
ヘンリーに誘われ、日向子は握っていたキューの先端で床をとんと突いた。
「そうね、踊って忘れることにするわ。秋貴さんも行きましょう」
日向子にそう言われても、秋貴は従わない。
「僕はまだすることがあるので、どうぞお二人で楽しんできてください」
ヘンリーはにやりと笑う。
「あれっ、いいのかい? 前みたいにやきもち焼かれても、困るんだけど」
「あなたと日向子さんは、お友達でしょ。嫉妬する必要はまったくありません。僕は、許嫁ですので」
秋貴のつっけんどんな言い草にヘンリーは肩をすくませ、日向子をエスコートして、大階段をのぼっていく。
日向子は後ろ髪を引かれる気持ちで振り返ったが、もうそこに袈裟姿の秋貴の姿はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます