十三 亡霊の正体

 母を失い父においていかれた正太郎は未来も見失い、ぼんやりと毎日を香月家の御殿で過ごしていた。そんなある夜のことだった。

 誰かに呼ばれたような気がして庭園に出てみれば、灯篭の影で泣いている日向子をみつけた。人前ではなくこんな夜の物陰でしか泣けない日向子の姿に、少し前の自分と重なった。


 運命というものがあるとすれば、この出会いこそ自分の運命の扉が開いた瞬間だと秋貴は思っている。翌朝、母の兄である香月家当主❘康秋やすあきは、正太郎を呼び出し問うてきた。


 このままこの屋敷で暮らすか、父の実家白河宮家にいくか、どちらにするかと。

 正太郎はゆったりと椅子に座りこちらを伺っている康秋に、おくすることなく答えていた。


「僕は日向子さんと家族になり、ずっと一緒にいたいです」


 その時の康秋は、なぜ正太郎が日向子を知っているのかと不審がらなかった。今思えば、日向子の教育係であったお須江から昨晩日向子と正太郎が会っていたと報告を受けていたのだろう。


 令嬢の教育係ともなれば同じ部屋で寝ているはずで、日向子が抜け出したことをわかっていたのだと思う。


「それは、日向子と結婚したいということか?」


 子供の言うことと一笑に付さず、康秋は真っすぐ正太郎の目を見て訊いてきた。その様子から正太郎は試されていると思った。


「はい、日向子さんと結婚できるなら僕はどんなことでもします」


 康秋は正太郎から視線を外し少し目を閉じると、椅子から立ち上がった。


「では、この屋敷においておくわけにはいかんな。深川の家に移り、そこから学校へ通え。華族の令嬢に見合う立場の人間になるため、学問に励むのだ。そのための援助は惜しまない」


 この屋敷にいられないと、一瞬肝を冷やした正太郎だったが、康秋の意図がわかり「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。


「おまえをおいていった父を忘れるために、父につけてもらった名前を捨てよ。そうだな。おまえの母であり私の妹である貴子たかこの一字をとって、秋貴とする。今日から日向子のために生きるのだ」


 秋貴が承知するとその日の夕方には深川の家へ移り、日向子ともう一度会う約束を破ってしまったのだった。




「西郷さんは、力士だったの?」


 日向子の素っ頓狂な問いに、秋貴は冷静に返す。


「正確には西郷公ではなく、西郷公の真似をしていたのが、力士だったのです」


 青い長屋の食堂で、ランプの灯りを受け日向子と秋貴は並んで座っていた。秋貴の手にした湯呑からは、甘い匂いが漂っている。

 温めた牛乳にシナモンと蜂蜜を入れたものだった。日向子は牛乳が苦手な秋貴のために、むかしイギリス人の婦人に聞いた飲み方を試したのだ。


 甘い蜂蜜が飲みやすくしてくれ、シナモンの香りが匂いを消す。これでだいぶ飲みやすくなる。案の定、秋貴は美味しいと飲んでくれた。

 秋貴は湯呑を机におき、着物の懐から銀色に光る細長い物を取り出した。


「これが、鹿鳴館に現れた幽霊が人間であるという証拠です」


「なにこれ? ナイフみたいだけど、刃がとがれてないわよ」


「ペーパーナイフといって、封筒をあける道具です」


 日向子はペーパーナイフの真鍮の飾りがついた柄を持ち、尖った先に指をあてた。


「へえ、あなたよくこんなもの知ってるわね」


「康正さまの書斎にありますよ。僕は、よく出入りしていますので」


 日向子は康正の書斎に入ったこともなかった。


「でも、なんでこれが証拠なの?」


 日向子の当然の質問に、秋貴はよどみなく答えて行った。

 そもそも西郷公の体型をした人間ならば、力士だろうと目星はついていた。しかし調べてみると、亡霊が現れた日に巡業が地方で行われていて力士たちは東京にいなかった。


 そうすると、元力士だと考え相撲興行が行われる回向院近辺の酒場などを回って常連客の話を聞いていくと、親方を殴って破門された力士の話を聞いた。

 その力士は酒癖が悪く、でっぷりとした体形だという。


「ちょっと、待って。首は? あの幽霊、首がなかったでしょ」


 日向子が口をはさむ。鹿鳴館に現れた幽霊は東屋の中、首がない姿で立っていた。


「単純なことですよ。黒い布を頭からかぶっていただけです。暗い中で、頭を黒い布で隠し、白い着流しを着ると首だけないように見える」


「ええ、そんな簡単なことだったなんて」


「あの東屋はガス灯から離れていましたから」


 秋貴の説明に、日向子は納得するしかなかったが、まだペーパーナイフが話に出てこない。


「ところで、どこでこのペーパーナイフが関係するのよ」


 秋貴は日向子に腰を折られた話を続けた。

 破門された力士は金に困っていたようだが、ある日をさかいに羽振りがよくなった。その時期が、鹿鳴館での亡霊騒ぎと重なる。誰かに金をもらって、亡霊の真似をしたのだろう。


「夜会での騒ぎはわかったけど、荒川さんが襲われた時は? また誰かに頼まれたの? というか、そもそもなんで亡霊騒ぎをおこしたんだろ」


「まあそのあたりは、本人に訊くしかありませんね」


 秋貴は、肝心なところをぼかして話を進める。

 あの日、荒川の背後から書籍室においてあったペーパーナイフで切りつけ逃走した。そしてそれを浅草の店で売って金にかえた。店の主人から荒川が襲われた翌日に、でっぷりと太った男から買い取ったと聞き出した。


 今日、鹿鳴館の職員にペーパーナイフを見せると、たしかに書籍室においてあったもので祈祷が行われた日からなくなったと証言した。


「幽霊は、ペーパーナイフを盗んで売りに行ったりしないでしょ」


「まあそうだけど……。じゃあ、なんで窓が閉まってたの?」


 荒川が襲われた時、部屋は密室だったのだ。


「今日、書籍室に入ってもう一度確認したら、鍵のネジが緩んでいました。勢いよく窓を下げたら、振動で鍵がかかったのです」


「なーんだ。そんなことだったんだ。でも、あなたよく鹿鳴館の中に入れたわね」


 鹿鳴館は外国人の宿泊施設にもなっている。おいそれと、一般人を入れないと日向子は思ったのだ。


「まあ、普段は警察官もいませんし。一中の学生服を着た僕が、後学のために見学させてくれって言ったら断られませんでした」


 一中は、鹿鳴館の真向かいに建っている。職員からしたら、普段よく見かける学生さんという気安さもあったのだろう。


「でも、このペーパーナイフは盗品だから、返した方がいいんじゃない?」


 日向子はもう一度、ペーパーナイフを手に取った。


「あなたに見せたから、返します。職員の人は、僕が買い取ったんだからそのまま持っていたらいいって言ったんですけどね」


 職員も、いい加減なものである。


「この話、警察に言うの? 力士は必ず現れるって荒川さんに言ったんだから。捕まえてもらわないと」


 日向子の台詞に、秋貴は腕組みをして考え込む。


「言わないつもりです。僕は日向子さんに、幽霊は存在しないとわかってもらえたらいいので。これ以上深入りしても、誰も得しませんから」


 秋貴には珍しく根拠のないことを言うが、日向子はそれ以上追及しなかった。


「まあいいか。幽霊が出ようが出まいが、夜会が開催されることが決まったから」


 先日、久しぶりに夜会の招待状が兄あてに送られてきた。秋貴も当然知っていることだった。


「外務卿も、これ以上亡霊騒ぎを大きくしたくないんでしょうね。あの人は絶対、亡霊は信じていないでしょうから。あの祈祷も、人々を安心させる目的だった。人間相手なら警備を強化すればいいだけだし」


「そうなのよ。だから、今回の夜会はファンシー・ボールよ。思いっきり騒いで、亡霊騒ぎを忘れようってことでしょうね」


「ファンシー・ボールなら、日向子さんは参加されないのですか? 仮装舞踏会は興味がないと言ってましたよね」


 たしかに、仮装しての乱痴気騒ぎは好きではないが、今回は別の目的ができた。


「お兄さまは行かないっておっしゃってるけど、わたしは行くわ。だって、あなたの話聞いてたらひょっとしてその力士、また現れるかもしれないじゃない。そうなったら、わたし、捕まえたい!」


「えっ? どうしてそうなるのですか」


 秋貴に呆れた視線を投げられても、日向子の目はランプの橙色の灯りを反射してキラキラと輝いている。


「捕り物みたいで、おもしろそう。わたし、薙刀も得意なのよ。きゃあ、警察を出し抜いて捕まえちゃったりしたら、どうしよう!」


 はしゃぐ日向子に、秋貴は冷たい視線を投げる。


「どうもしませんよ。それに、薙刀なんて夜会に持ち込めるわけないでしょ」


 水を差されても、日向子はめげない。


「得物はどうにでもなるわよ。やっぱり、動きやすい恰好がいいわよね。ああ、何着て行こう。あなたも、仮装は考えておいてね」


「僕も、仮装するんですか? なんか、嫌だな……」


 秋貴が渋ると、日向子はふふんと鼻で笑う。


「あなたが行かないなら、ヘンリーに頼んでエスコートしてもらおうかな」


「……わかりました、行きます」


 二人だけの食堂で、秋貴の観念した声音が日向子の胸に心地よく響いたのだった。

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