十二 深川で
「親が決めた許嫁では、ありません。僕が望んで、日向子さんの許嫁にしてもらったのです。だから、僕のすべては日向子さんのものです」
恋に恋するような乙女ならば、失神しそうなぐらいものすごい愛の言葉をかけられたのだが。日向子はきょとんと、秋貴の顔を見返した。
「はっ? 秋貴さんって、わたしのこと知ってたの? なんでわたしと許嫁になりたいなんて……」
日向子はここで区切り、緊張感のなかった顔がきゅっと引き締まる。
「というよりも、そんなこと言ったらダメよ」
秋貴の一世一代の愛の告白が、肩透かしをくらう。
「今の言葉の何がダメなんですか? 僕は前から日向子さんのことを、存じ上げていたのですが」
「そうじゃなくて、秋貴さんはものじゃないでしょ。だから、わたしがもらえるようなものでもないし、自分のことは自分で大事にしないと」
日向子があっけらかんと放った言葉は秋貴の心を撃ち抜いたようで、手を握る力が増した。
「およそ常識が通用しないあなたの思考に、僕は昔から魅了されてやみません。普通からずれているとも言えますが、そのずれに僕はいつも救われる」
「ちょっとあなたの言ってること、意味わからないんだけど……。ねえ、わたしたちどこかで会ってたの? 子供の頃?」
「そうですね。でも、思い出さなくていいです。忘れたままでいてください」
普通、相手に忘れられていたら思い出してもらいたいものなのに、秋貴は反対のことを言う。
「あなたも、普通からずれてるわよ」
日向子に呆れられても、秋貴は愉快な顔を浮かべている。肌寒い秋の夜風が吹き抜けたが、ふたりの繋がった手は温かい。
「あの、ところでこの中身はなんですか?」
秋貴は右手に抱えた風呂敷に視線を落とした。
「それね、わたしがつくったクッキーなの。あなた甘いもの好き?」
「好きですけど、日向子さんがお菓子を作るとは意外です」
「わたしだって、運動ばっかりしてるわけじゃないから。こういう女の子らしいこともするの」
「ありがとうございます。部屋に帰ってよばれます。風呂敷と箱は後日御殿の方に、お返しに伺います」
「あっ、わたしがもらいに行くわ。なんか夜の散歩って楽しいし。また、長屋を訊ねてもいい?」
華族令嬢が夜に書生の長屋を訪問するなぞ、常識はずれである。お須江が生きていたらとても許してもらえない。両親がこの家に住んでいても無理なことだったろう。
しかし、今は子育てに忙しい兄夫婦しかいない。
「はい、僕に会いに来てください」
日向子は秋貴に会いに行くのではなく、散歩が楽しいのだと強調したいところだったが黙ってうなずいた。
「幽霊の正体も早く知りたいしね。でも、もう遅くならないで。あんまり待たされると帰るから」
「それは困ります。なるべく早く証拠をつかみます」
秋貴は自信たっぷりに言い切ったところで、日向子は小さくくしゃみをした。冷たい玄関に座っていたので、体の芯から冷えていた。
「あの、僕のコートでよければどうぞ」
秋貴はインバネスコートを脱ぎ、日向子の肩にかけてくれた。コートは秋貴の温みを残していて、温かい。
「ありがとう」と、一言礼を言った後の面はゆい沈黙に耐えられず、日向子は頭の中で整理しきれない感情を口に出してみた。
「あなたって、本当は優しい人よね。最初はなんて人だと思ったんだけど」
ふふっと笑う日向子に、秋貴はすまなさそうな声を出す。
「あの件は、今は謝ります。たしかにいきなり抱きつかれたらびっくりしますよね。でも、その……なぜそのようなことをしたかは、訊かないでください」
相変わらず日向子の理解できない思考で話す秋貴が、今は嫌ではなかった。
「正直に言うと、わたし好きな人がいたの。前に言ったでしょ、死んでしまった正太郎」
日向子は秋貴の反応が気になり、横を歩く整った顔を横目で盗み見る。しかし、感情を押し殺したように無表情だった。
「今でも、お好きなのですか?」
「完全には忘れられないかも。だって、初めて失いたくない、ずっといっしょにいたいって思えた人だから。まだほんの子供だったんだけどね」
こんなことを許嫁である秋貴に言うことは酷なのかもしれないが、日向子の性分として誠実に向き合おうとした今、言わずにはおられなかった。
御殿へ向かう道のりは、あとわずか。もうすぐ夜の散歩も終わってしまう。日向子は秋貴に何か言ってほしいと思ったが、どう言えばいいかわからない。
その乙女の揺らぐ気持ちに気づいたのか、秋貴は行く先が闇に沈む前方を真っすぐ見て口を開いた。
「正太郎への思いを消す必要はないです。秋貴のことを、それ以上の存在にしてみせます」
秋貴の誠実な言葉に、日向子は火照る頬に手をあてかすれる声で一言、「ありがとう」と返したのだった。
隅田川に注ぐ
もう以前のように夜遅くまで出歩くことはできない。いつ何時、日向子が長屋を訪れるかわからないからだ。
数か月前まで住んでいた深川は、秋貴にとって勝手知ったら場所である。質屋の場所もだいたいわかっていた。しらみつぶしに質屋を回っているが、秋貴が探している質草をなかなか探し出せずにいた。
今日訪れた質屋も空振りに終わり、一の橋を渡っていたところで後ろから道具箱を肩にかついだ大工に追いぬかれた。その時、秋貴は石を踏んでしまいよろめき、大工の肩にぶつかった。
「おい、学生さんよ。ちんたら歩いてんじゃねえぞ!」
外仕事で日に焼けたいかつい顔が、秋貴を睨みつけている。下町に長く住んでいた秋貴は、こういう場合は素直に謝るに限ると「すいません」と一言そつなく謝った。
普通なら悪態をついて去っていくのが、せっかちな江戸っ子というものなのだが、大工はその場にとどまり秋貴の顔をしげしげとのぞき込んできた。
「ひょっとして、正太郎か? おまえ、正太郎だろ。その女みてえな顔、間違いねえ」
正太郎と呼ばれ、秋貴は大工が昔両親と暮らしていた長屋の隣に住んでいた安太郎だと気づく。
「安さん。ご無沙汰しています」
「ご無沙汰なんてもんじゃねえよ。長屋のみんな心配してたんだぜ。お袋さんが亡くなってから、ふいに父子で姿くらますからよお」
「その節は、お世話になりました」
流行り病で亡くなった母の葬式を長屋の住人が手伝ってくれたのだった。それなのに、父は世話になった長屋の住人に挨拶もせず秋貴を連れて、母の実家である香月家に行ったのである。
「親父さんは、元気にしてんのか? あの人の憑き物落としはよく訊くって評判だったからな」
「いえ、父は行方知れずで……」
秋貴――その時はまだ正太郎と呼ばれていた――を香月家に押し付けると、父はどこかへ行ってしまったのだ。香月家の当主である日向子の父が、父の実家である白河宮家に問い合わせてもそちらに行ってもいない。
それ以来、秋貴は父と会っていない。
「じゃあ、おまえ今どうしてんだ?」
人の好い安太郎は心配顔で訊いてきた。
「一時、深川に住んでいたのですが、今は香月家で書生をしています」
「おおそうか。香月っていやあ、華族さまだろ。おまえチビの頃から、頭よかったからな。がんばれよ」
口は悪いが悪気のない安太郎の言葉に、秋貴は苦笑いをもらす。
「ありがとうございます。安さんもお元気で」
そう言って昔馴染みと別れようとしたが、安太郎はまだ立ち去ろうとはしない。
「おまえ変わったな。冷たくなったっていうか、大人になったっていうか……。昔は変なことたまに言う変わったガキだったけど、無邪気でかわいい奴だったのに」
中年の昔語りに、秋貴はふっと息をもらす。
「そりゃ変わりますよ。あれから何年たったと思ってるんですか」
秋貴に言われ、安太郎は指を折って数えだしたが、
「何年前だっけ? 年取ると、数えるの苦手になるってもんよ」
途中であきらめて、指を折っていた手で額をぺちんと叩く。
「ははっ。安さんは昔から、数が苦手だったでしょ」
安太郎のおとぼけに、秋貴の内に秘めていた正太郎の部分が少しだけ顔を出した。その屈託のない笑顔を見て、安太郎は幾分安心したようににやりと笑った。
「それよりよ。優秀な書生さんが、なんでこんな下町ぶらついてんだ。夜遊びとかすんなよ」
「夜遊びじゃなくて、質屋を回ってたんです。ちょっと質草を探していて」
「へえ、何探してんだ。下町のもんは漏れなく質屋の世話になってっからよ。言ってみな」
安太郎は大工という職につき、その日暮らしではないが、庶民にとってそれだけ質屋は身近な存在だった。
「盗品なのですが、西洋で使うものなのです。普通の日本人が見ても何に使うかわからないような品物です」
「ああそりゃあ、普通の質屋に行ってもねえな。異人が使うようなもん、下町の質屋の親父が値踏みできねえって。おまけに、盗品だろ」
言われてみれば、そうである。
「じゃあ、どういうところに行けばありますか?」
「浅草によ、異人相手に怪しい商売してる奴がいるらしいぜ。ほとんどが、盗品って噂だ」
「ありがとうございます。浅草ですね。さっそく明日にでも行ってみます」
「俺みたいなんでも、おまえの役に立ててうれしいぜ。親父さん、みつかるといいな。おまえら家族仲よかったから」
「はい、僕も父を探しているのです。安さんも何か小耳にはさむようなことがあれば、教えてください。香月家の屋敷は紀尾井町です」
父に捨てられてから、恋しいという気持ちは秋貴にみじんもない……。とも言い切れず、父と母を失った寂しさは確実に今でも秋貴の中にわだかまっている。しかし、池のほとりで日向子と出会い、秋貴の人生は変わった。その日向子のために、父を探していた。
「おう! まかしとけ」と手を上げて去ろうとした安太郎に、秋貴は付け足した。
「忘れるところでした。今は、秋貴と名乗っています」
「へえ、おまえ名前変えたのか」
「はい、大切な人と一緒にいるために、正太郎という名は捨てました」
天涯孤独だと思った秋貴に大切な人ができていた事実は、安太郎の厳めしい顔を穏やかな好々爺に変えた。
「はっ、いっぱしの男の顔しやがって。あばよ」
安太郎は道具箱を肩に担ぎなおし、颯爽と本所の方角に走り去っていった。その後ろ姿を見送って、秋貴は日向子とはじめて出会った頃のことを思い出していた。
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