十一 長屋で

「ひなちゃん、おつかれさま。それは大変だったわね」


 夕方に屋敷に帰り、自室で初が日向子の着替えを手伝いながら労ってくれた。


「ほんと、疲れた。せっかくの美味しいお茶と高そうなお菓子を楽しめなかったよ」


 日向子は振袖から、普段着の銘仙の着物に着替え深いため息をついた。


「それは、残念。で、クッキーの評判はどうだった?」


「あっ、それは好評だった。みなさん、おいしいって言ってくれたから。やっぱりうちのバターがいいからだね」


「まあね。うちは、各国の領事館に収めるほど、味は確かだから」


 初は、自慢げに顎をあげる。実際松島家の乳製品は品質がよい。今は、上の兄も手伝い手堅く商売を広げていた。


「わたしも将来牧場経営とかしてみたいな。ほらっ、岩手で政府の高官や豪商の方たちが共同出資して牧場を開こうとしてるって。そのうち、華族も経営に乗り出すかもってお兄さまが言ってた」


「女には無理よ。それに、結婚して子育てしてたらそんな暇ないって」


 日向子の思いつきは、すぐさま女の常識に消されてしまった。


「そりゃそうだけど、夢見ることぐらいいいでしょ。東京はもうどんどん狭くなってるから、北海道とか東北にいけば、広大な原野があるらしいし」


「はいはい、わかった、わかった。それより、このクッキーどうするの?」


 日向子がつくったクッキーは今日手土産にした分と、家の分とに分けていた。


「それは、初姉ちゃんとゆっくり味わって食べようと思って。明日食べようよ」


 日向子がそう言うと、初はしばし考え込む。


「ふむ。あたしはいいから、これを秋貴さまに持って行ったら? 最近全然会ってないでしょ」


 たしかにあの日以来秋貴には会っていないし、会う理由もなかった。

 そもそも、同じ敷地内に住んでいるといっても広大な敷地の中に建つ御殿と長屋である。そうそう顔を合わせる機会などなかなかない。


 秋貴が御殿を訪れるのは、兄に呼ばれる時だけ。秋貴は兄の手紙や書類の管理をしているとか。


「いいよ。初姉ちゃんに食べてもらいたいのに」


 日向子もちらりと、クッキーを作りながら秋貴にあげようかと思ったが、すぐさまその考えは打ち消した。まるで、秋貴に会いたがっていると思われると癪に障る。

 秋貴から会いにくるなら、会ってもいいという子供じみた見栄が働いていた。


「うーん、そんな意地を張ってる場合じゃないと思うよ」


 初の思わせぶりな言い方が、日向子の好奇心をくすぐる。


「どういう意味? 何かあるの?」


 初は日向子の脱いだ着物を片付けつつ、ちらりと横目で伺う。


「あのね、ひなちゃん。男の人って放っておいたら、糸の切れた凧みたいにフラフラするのよ。ひなちゃんは、そういう男女の色恋なんてまったくわかってないからのん気にしてるけど。男の人ってずるいんだから」


 初のいきなりの色恋指南に、日向子は的外れなことを訊く。


「はっ? 誰がずるいの?」


「秋貴さまに決まってるでしょ」


 ここで初は日向子の手を取り、両手で包みこむ。


「落ち着いて聞いてね。書生さんの情報によると、秋貴さま最近帰りが遅いんですって。廊下ですれ違ったら、お酒の匂いや白粉の匂いがしたって」


「へえ、あの人お酒飲むんだ」


 日向子のとんちんかんな返答に、初は憤慨する。


「そうじゃなくて、遊郭に行ってるってことでしょ!」


 予想をはるかにこえる初の言葉に、日向子は意外過ぎて笑いが漏れてくる。


「まさか。あの人真面目そうじゃない。それに、あの年齢で遊郭って。初姉ちゃん、考えすぎだよ」


「まあ、ちょっと早いような気もするけど、秋貴さまを育てた方って元芸者さんでしょ。そういう世界に近いといえば近いところで育ったんだから、わかんないわよ」


 初の鬼気迫るいい分に日向子は圧倒され、しぶしぶクッキーを秋貴に渡すことになったのだ。




 夕食の後クッキーをつめた箱を持って書生の青い長屋に向かっても、秋貴の部屋に灯りは灯っていなかった。しばらく待っても秋貴はちっとも帰ってこない。


 晩秋の夜は冷え込み、肩に羽織ったウールのショールで体を包み込んでもまだ寒い。長屋の玄関で上り框に座り込んでいると、秋貴は遊郭に行っているのかもしれないという初の言葉が頭の中をぐるぐるまわり始める。


 あの時は笑い話で終わらせたけれど、本当だったらどうしよう。帝大生の中には遊郭から大学に通うような不届き者もいるという。


 秋貴が真面目でも、周りの悪友にそそのかされるということもあり得る。なんせあの顔である、女性にもてないわけがない。遊郭でなくとも、大人の女性に言い寄られ断れずに通っているとか。


 ……ありえる。断然、遊郭よりもあり得る。


 日向子の思考は、どんどん悪い方向へ疾走していく。


 秋貴に好かれているかもという女の自尊心が揺らぎはじめたところで、日向子は勢いよく立ち上がり長屋の玄関戸を力任せに引いた。音を立てて開いた戸の向こうに、秋貴が袴の上にインバネスコートを羽織った姿で立っていた。さすがに驚いたのか、切れ長の目を大きく見開いている。


「日向子さん、どうしてここにいるのですか?」


 日向子はその問いに答えず、不機嫌な声を出した。


「ふーん。さすがに夜遊びするのに、学生服とはいかないか」


 日向子のケンカ腰の返答に、秋貴は首を少しだけ傾けた。


「あなたは、僕の予想できない怒りをいつもぶつけてきますね。何を怒っているのですか?」


 悪びれず涼しい顔で言われては、怒りは加速するというもの。


「別に。ただ届け物しに来ただけ。はい、これ!」


 風呂敷に包んだクッキーの箱を秋貴の胸に押し付け、日向子は秋貴の横をすり抜けようとしたが、できなかった。秋貴が日向子の腕をつかみ引き止めたのだ。


「待ってください。何か誤解していますね。夜遊びってなんですか」


「あなたが、夜遊びしてるってことでしょ。わかんないの?」


「何で僕が夜遊びしているのですか」


「そりゃそうよね。後ろ暗いことしてる人は、認めないものよ」


 ふたりの言い合う声は長屋中に響いていたようで、気づけは書生たちが自室の扉を開けてこちらを伺っていた。


「ちょっと、外に出ましょう」


 秋貴もさすがにまずいと思ったのか、日向子の腕を引っ張り外へ連れ出す。


「御殿まで送ります。そして、僕の話を聞いてください」


 日向子は勝手な想像だけで秋貴をなじったことに後ろめたく感じ、黙ってうなずいた。


「ここ最近、遅く帰って来たことを誤解しているみたいですけど、僕は幽霊が生きている人間であることを突き止めようとしているだけです」


「でも、お酒や白粉の匂いがしたって……」


 秋貴の横をトボトボ歩く日向子の声は、尻切れトンボだ。


「それは、情報を訊き込むために回向院の周りや柳橋界隈の酒場や質屋に行っていたんです。芸者さんに話を聞いたりしたので匂いがついただけです」


「話を聞いただけで、白粉の匂いがつく?」


 日向子の疑問は的を射ていたようで、一瞬秋貴はたじろぐ。


「まあ、戯れに抱きつかれたことがあったので……」


 白粉をたっぷり塗った美女に抱きつかれている秋貴の姿を想像すると、ものすごく腹が立ってくる。おのずと、つっけんどんな物言いとなった。


「じゃあ、もう幽霊の正体は突き止めたってことね」


 秋貴は困ったように眉を下げ、すぐには答えない。


「まだ、たしかな証拠をつかんでいないのです。犯人の目星はだいたいついているのですが」


「証拠を探していて、夜が遅かったってこと?」


 日向子のさっきまでささくれ立っていた心が、少しだけ落ちつく。


「そうです。あなたは人間がやったという証拠を見せないといけないと言ったでしょ」


 たしかに、そのようなことを言った記憶はあった。


「なんだ、心配して損した。わたしてっきり……」


 安心すると、ぽろりと本音が出そうになりあわてて口をつぐむ。


「てっきりなんですか?」


 秋貴は不思議そうな顔をして、日向子の顔をのぞき込む。


「えっと、その……。あなたが、わたし以外の女の人と……その……」


 いつもの日向子ならば、猫をかぶってやり過ごせる場面であるが、秋貴相手だとついつい正直になる。しかし嫉妬などという醜い心を悟られまいと、日向子は必死にごまかした。


「わたしたちって、結局は親が決めた許嫁であって、そのお互いのことあんまり知らないし。あなたはもっと素敵な女の人の方がいいと思って……」


 言い淀む日向子の冷え切った左手が急に、大きな手で包み込まれた。

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