十 お茶会
それから一か月たっても、西郷公の亡霊の話題は収まるどころかどんどん加熱していった。もちろんあれ以来夜会は中止され、日向子はダンスもできず暇を持て余していた。
そんなところに先日晴子から、二度目の茶会への招待を受けたのだった。二度も招待されては断り切れず、手土産を持って晴子の家、松平侯爵家を訪れていた。
日向子は日本家屋に付随する、瀟洒な洋館へ通された。まだ建ってまもない館は、有名な西洋人の建築家が設計したとのこと。
今日の日向子の装いは、紫紺色の振り袖。型友禅で染められた乱菊模様は華やかだが、あくまでも控えめな色目。初めての訪問において、適度におしゃれでなおかつ落ち着いた装い。そこがちょうどよいと初が選んでくれた。
天井の高い応接間の洋卓には白い布が被せられ、その上にアフタヌーンティー――晴子がそう言っていた――の用意がされている。
繊細な花柄が描かれたティーセット、銀食器の上にはサンドイッチやスコーン、見たこともないような外国のお菓子がのっている。
「お招きいただき、ありがとう存じます。これはつまらないものですが」
日向子は風呂敷をほどき、漆塗りの箱を晴子に差し出した。晴子が蓋をあけると、濃厚な甘い匂いが室内に広がる。
「まあ、お心遣いありがとう存じます。おいしそうなクッキーですこと」
「あの、お恥ずかしいのですが、わたしがつくりましたの」
日向子が猫をかぶりしおらしく言うと、晴子は大げさに驚く。
「素晴らしいわ。日向子さま。運動もお得意ですけれど、このようなおいしそうなお菓子を手ずからおつくりになるなんて」
日向子が里子に出された松島家のバターをたっぷり使ったクッキーは、子供の頃松島の母に教えてもらったものだった。
和菓子とは違い、コクのあるバターと砂糖の甘さが恋しくなると日向子は時たま厨房を借りて作っては、初と懐かしがって食べているのだった。
「さあ、どうぞ。座ってくださいな」
洋卓にはすでに、晴子の取り巻き昭子と容子が着席していた。日向子は笑顔を張り付かせ、お茶会に呼ばれた訳を考えながら椅子に座る。
一度断った茶会へ再び呼ばれた理由が、皆目わからないのだ。
その答えがわかったのは、二杯目の紅茶をおかわりして、きゅうりが挟まったサンドイッチに手を伸ばした時だった。
「時に、日向子さん。この間、許嫁の方がお迎えに来られた時、どちらに行かれていたの?」
ふっくらとした大福のような晴子の頬が、より艶がましたような笑顔で訊かれた。
「あ、あの、あちらのお家にご挨拶へ」
あの時のほぼ忘れていた方便を必死に思い出すことができ、日向子は自分を褒めてやりたくなった。
「もう、嘘おっしゃい!」
晴子の弾んだ声に、日向子の心臓は飛び跳ねた。嘘をついて許嫁と早退したなどと、先生方に密告されたら華族の令嬢としてあるまじき行為だと処分されるかもしれない。
日向子は、無言で生唾を飲み込み、ちらりと昭子や容子を見ると二人ともニヤニヤと笑っていた。どうも、三人はこのネタのために今日のお茶会を計画したようだ。
「日向子さまの婚約者の方のことを、ちょっと父に聞いてみましたの。ほら、わたくしの父は宮内省に勤めているでしょ。だから、華族の方のお家事情は詳しいの」
華族の婚姻には宮内大臣の許可がいるのだ。華族は、婚姻も政府に伺いを立てねばならない。父親の権力を使って、晴子は何を知ったのか。
令嬢としての対面を気にして、のこのこお茶会に参加した自分を心の中で激しく罵っても後の祭りである。
日向子が青い顔で、沈黙を守っているので晴子が話を進める。
「五辻秋貴さまって、日向子さまのいとこでいらっしゃるんですってね。その秋貴さまのお母上は先代さまの御息女。そしてお父上は
白河宮家? 秋貴の父は初のうわさ話では僧侶だったと訊いていた……。
「でも、たしかお父さまは僧侶だったと」
「そうよ。昔は宮家で僧になられる方は多かったですから。でも、還俗なさって香月家の御息女と駆け落ちされたのですって」
ここで、固唾をのんで訊いていた昭子と容子から黄色い声がもれた。
「きゃー。駆け落ちですって。ロマンスだわ。ああ、そんなに愛されるなんて。きっと秋貴さまのお母さまは素晴らしい方だったのでしょうね」
すっかり宮家の僧侶と華族令嬢との道ならぬ恋に、三人はうっとりと夢見心地だが、この話の行く先がさっぱり読めない。
日向子はいつ何時自分が糾弾されるかもしれないと、三面記事ネタに乗れずにいた。
「ほんとうですわね。でも、ご苦労されたようですよ。両方のご実家からは勘当され、下町でお父上は祈祷師をされていたとか。でも、愛しい奥さまを亡くされた後は行方知れずになられたんですって」
日向子が初めて聞くことばかりで、耳を疑う。秋貴はあれほど、怨霊あやかしの類はいないと言っていたのに、父親は祈祷師をしていたなんて。
「じゃあ、今秋貴さまはどちらにお住まいですの?」
容子が晴子に話の続きを促す絶妙な合の手を入れる。
「それはね、香月家にお住まいなんですって」
ここでまた、黄色い声が応接間にこだまする。
「まあ、お二人はもうすでに同じ屋根の下でお暮しですのね」
「い、いえ、あの……その。ち、違います。同じ敷地ですけれど、秋貴さんは書生さんとして長屋にお住まいで。けっして同じ屋根の下には住んでおりません」
日向子が必死に否定しても、三人はニヤニヤと色眼鏡で見ている。
「だから、この間の秋貴さまのお家に挨拶というのは嘘なのですよ。ねえ、日向子さま。わたくしたちには、本当のことをおっしゃって。いったいあの日、どちらに行かれていたの?」
なるほど、この回りくどい会話はここが到達点だったようだ。さあ、なんと答えればいいのか。
「ねえ、わたくしたち口が堅くってよ。決して誰にも言いませんから。教えてくださいな」
「お二人で、逢引なさってたんでしょ」
「お芝居ですか? それとも銀座の若松で蜜豆をお食べになったとか」
口々に、日向子と秋貴のあの日の行動の答え合わせを急かす。逢引していたなんて嘘八百は言えない。でも、正直に鹿鳴館に言っていたと言えば何故と訊かれるに決まっている。
まさか、西郷公の騒動を探っているとも言えず。
「あのですね、実は鹿鳴館に行っていまして。秋貴さんのお父さまを探しに。ちょうどその日、祈祷師の方が大勢集まるとかで、その中にお父さまがいらっしゃるかもと……」
日向子は早口でまくし立てると、意外過ぎる回答に晴子と昭子と容子の三人は、それぞれかわいらしく小首を傾げていた。
「日向子さまは、そのお父さまのお顔をご存じなんですの?」
昭子が、するどいツッコミを入れる。顔も知らない日向子が秋貴についていく道理がない。知っていると言うべきか。しかし、嘘というものは重ねれば重ねるほどボロが出る。
「あ、あの、お顔は存じあげないのですけど……。そ、その、少しでも秋貴さまのお役に立ちたくて。ごいっしょしたいと、無理にお願いを……」
苦しい言い訳に、日向子は膝の上でモジモジとせわしなく手を組み替える。しばらく間があき、突然晴子が、日向子の手を握りしめた。
「素晴らしい心がけですわ、日向子さま! 未来の旦那さまのお役に立ちたいなどと、婦女子の鑑ではありませんか」
晴子が日向子を称えたものだから、他のふたりもそれにならったのだった。
「日向子さまって、とても大人しい方だと思っておりましたのに、意外に行動力がおありなのね」
「わたくしなら、そのような方が大勢集まる場にとてもいけませんわ」
「それだけ日向子さまが、秋貴さまを思っていらっしゃるということですわよね」
三人に許嫁としての愛情表明を迫られ、日向子は頬をひきつらせつつ、「ええ。恥ずかしいですわ……」とつぶやくと、恋に幻想を抱いている三人の令嬢はほーっと艶めいたと息をもらしたのだった。
こうして、日向子にとってしごく疲れるお茶会はやっと幕を閉じた。
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