九 亡霊ふたたび

 ちょうど頃合いよく、階段の踊り場に姿を現した井沢外務卿は、蝶ネクタイを締め洋装姿で声を張り上げた。


「今日集まってくれた諸君に告ぐ。夕刻までの時間、各々の持てる術を駆使し、鹿鳴館にさ迷う御霊を払い清めてくれ。この館は我が国が西洋という大海に漕ぎ出すための船である。前時代的なものに、汚されるわけにはいかんのだ。ここなくして近代国家は成り立たん!」


 その演説を聞いていたホールに集う人々から、一斉に歓声があがる。


「政治家は、口八丁でないと務まりませんね」


 秋貴の皮肉に、日向子は苦笑いを返したのだった。

 それから、鹿鳴館の敷地中がけたたましい喧騒に包まれることとなる。集まった祈祷師やまじない師たちがそれぞれ、霊がいると思うところに陣取る。一番人を集めているのは、亡霊が現れた東屋だった。

 

そしてそこで数珠をくり念仏を唱えるもの。持参した祭壇を組み、胡麻を焚くもの。香をたいたり、水をかけたりと、ありとあらゆる亡霊を払う方法を試み始めたのだ。

 ふたりはしばらく大階段の左側の壁を背にして見物していた。すると秋貴が、


「ちょっと、見回りしてきますので、あなたはここにいてください」


 と、日向子に告げた。


「えっ? 何しに行くの?」


「あ、その、ちょっとあの日の手がかりがないかと……」


 歯切れの悪い回答に疑問を持ったが、引き留める理由もない。日向子が「わかった」と言うと、秋貴は祈祷師が大勢いる中へ消えて行ってしまった。

 それからしばらくして帰ってきた秋貴の袖を、日向子は引っ張った。


「ねえ。今度はわたしに付き合ってよ。ちょっと館の中で行ってみたい場所があるの」


「どこです?」


 日向子は首を回し、大階段の左奥の部屋へ視線を投げた。


「えっとね、あそこの玉突き場。夜会の時はいつも男性たちが、巻きたばこを吸いながら玉突きをしてるから、入りにくくって。一回してみたかったのよね」


「あなたは、本当に体を動かすことが好きですね」


「さっきから見てたけど、この奥に行く人はいなかったから、今なら誰もいないわ」


 あきれる秋貴を引き連れ、日向子は左奥へ進んで行く。玉突き場の手前にある部屋の扉の前を通り過ぎようとした時、突然扉が勢いよく開いた。

 扉の中から先ほど会った荒川が、足取りもおぼつかない様子で飛び出してきたかと思うとばたりとその場に倒れ込んだ。その背中は黒い制服が斜めに破れており、血が滲んでいる。


 日向子と秋貴は慌てて近寄ると、荒川はぐっと体に力を入れ声を絞り出す。


「いきなり背中を切りつけられた……」


 日向子はハッとして部屋の中を見たが、六畳程の広さの室内に誰もいない。肩で息をする荒川に、祈祷師たちも駆け寄ってきた。


「おい、誰にだよ。まさか、亡霊か!」


「わからない。姿が見えなかったから。でも、耳元で声がした……」


 不穏な状況に、どよめきが広がっていく。


「な、なんて聞こえた?」


 坊主頭の男が、おっかなびっくりという感じで訊く。


「また、必ず現れると……」


 そう絞り出すように言われた予言の言葉は瞬く間に鹿鳴館中に伝わり、恐れおののいた祈祷師やまじない師たちは仕事をほっぽり出して一目散に逃げだしたのだった。

 荒川は巡査たちに抱えられ、その場を後にした。


 秋貴はその場に留まり、恐れるそぶりも見せず部屋の中へ踏み込んでいく。日向子も後に続き、周りを見回した。

 そこは書籍室で壁いっぱいに本棚が設えられ、窓を背にして重厚なデスクがおかれていた。


 デスクの上には、手紙が書けるようにインク壺やペン、便箋などがある。秋貴はそれらをしげしげと観察してぽつりとつぶやきを落とす。


「あれが、ないな……」


 日向子が「何が?」と問う前に、秋貴は奥の上げ下げ窓を見た。


「窓は閉まっていて、鍵もかかっているか……」


「窓が閉まっていたなら、ここには荒川さんひとりだったのよ。わたしたちが中を見た時誰もいなかったわ。やっぱり、幽霊じゃ……」


 秋貴は答えずにすたすたと部屋を横切り、今度は本棚を調べ始めた。本棚には分厚い洋書が整然と収められていたが、本が数冊床に落ちていた。

 日向子が本を拾う。


「ここから落ちたのかな。ちょうど、あいてるわ」


 目線と同じ高さの段に隙間があった。そこに日向子は本を立てようと棚に顔を近づけると、ふわりと鼻先に匂いが漂う。


「なんか、甘い匂いがする。どこかで嗅いだような気もするけど。なんの匂いだったかな」


 秋貴も、近寄ってきて棚に鼻を近づけた。


「たしかに、甘い匂いがしますね」


 そうつぶやくと秋貴はまたも、顎に指を添えピクリとも動かなくなる。あきれた日向子は唇をとがらせホールに戻ると、井沢外務卿がカイゼル髭を震わせ怒りくるっていた。


「くそっ! いったい誰なんじゃ。小賢しい」


 すっかり人気がなくなった玄関ホールに、秋貴がようやく戻ってくると藤木が近寄ってきた。


「おい、もうここは閉めるぞ」


 そう促され日向子は歩き出そうとしたが、秋貴は背の高い藤木を見あげる。


「警察の方の、警備の目的は何だったのですか?」


「はっ? そんなの決まってるだろ。鹿鳴館に飾られている美術品やら高価な物品が盗まれないようにするためさ。ああいう連中は基本、金に困っている」


「なるほど。では、夜会でもあなたがたは警備をしているのですか?」


「ああ、夜会ではお偉いさんが大勢くるからな。警護のため黒門に詰めて、庭を中心に警らしている」


「ふーん。じゃあ、通用門を内側から開けようと思えばできるってことですね」


 あきらかに疑っている秋貴の口ぶりに、藤木はとうとう怒り出した。


「俺たちを疑ってるのか! ふざけるな、賊を入れるなんてするわけない。それに、襲われたのは警察の荒川だぞ」


 秋貴は藤木にすごまれ怯えるどころか、無表情のまま謝る。


「失礼しました。仲間同士で、いさかいなど起こさないですよね。警察の方は、大儀を重んじる元武士の方が大勢いらっしゃるから」


「襲ったのは人間じゃないかもしれんぞ。あの部屋には、荒川しかいなかったそうじゃないか」


「おやっ? あなたさっき、亡霊など信じていない風でしたよね」


 痛いところを付かれたようで、藤木はさっと顔色を変える。そして追い打ちをかけるように秋貴は続けた。


「あなたは荒川さんが刺されたのは、亡霊の仕業と思いますか?」


 藤木はすぐに答えず、しばし間をおく。


「わからん。反対に訊くが、お前はどう思っているんだ、心霊小僧」


 秋貴は薄い唇をいびつにゆがめ、藤木のからかいの言葉を否定も肯定もしない。


「さあ、もういいだろう。早く出ていけ」


 藤木に促され、日向子と秋貴は玄関から出て行くしかなかった。日向子は横を歩く秋貴に、今日何度目かわからない質問をする。


「ねえ、今日の出来事も人の仕業なの?」


 書籍室の扉があいた時、たしかに荒川しかいなかった。おまけに、窓の鍵は内側から閉められていて逃げたわけでもない。とても、荒川が人に切られたとは思えない。


「そうですよ。亡霊などいないのです」


 言い切る秋貴に、日向子は不満をぶつける。


「でも、荒川さんを切った凶器がないじゃない。あなたは違うって言うだけよ。人間なら、その人を捕まえないことには信じられない。それか、人間がやったという証拠を見せないと」


 秋貴は、日向子を追い越して立ち止まった。


「そうですね。あなたのいう通りだ。証拠を探さないと」

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