七 警察官

 鹿鳴館での亡霊出現は、新聞にも大々的に報じられ帝都中が大騒ぎとなった。首のない亡霊は西郷公だと決めつけられ、西南の戦いの恨みを晴らすために現れただの、切られた首を探してさまよっているなどという煽り文句が紙面をにぎわわせた。


 政府の急激な西洋化政策に反発する国粋主義者の人々は、この亡霊は世直しに現れたと担ぎ上げる始末だ。

 そもそも鹿鳴館は上流階級の社交の場というよりも、諸外国への日本の近代化をアピールするために建てられたようなもの。そこに封建社会の亡霊が現れたのだから、政府もこの騒動を無視できない事態となった。


 政府がとった方法は、祈祷師やまじない師を鹿鳴館に集め、荒ぶる西郷公の御霊を鎮めようとする前時代的なものだった。


「そんなことで、あの幽霊が消えるかしら。なんといっても、相手はあの西郷さんなのよ」


 日向子は人力車の隣に座る秋貴に、車輪が地面を走る轟音に負けないよう大声をあげて問いかける。

 二人乗りの人力車は、鹿鳴館を目指し疾走していた。


「まあ、無理でしょうね。というかあれは、人間なんですから。いくら祈祷師を呼んでも無駄です」


 日向子の目にはとうてい人間に見えなかったあれを、秋貴は人間だと言い切る。前を向き風に黒髪をなびかせている秋貴の無表情な横顔は頼もしくもあるが、昨日からの秋貴の行動には振り回されてばかりだ。 


 昨日の夜のことである。日向子は夕食を終え自室で雑誌を読みながらワルツのステップを踏んでいると、初が慌てた様子で入って来た。


「ひなちゃん、秋貴さまから伝言を預かってきたわよ。あの方、得体の知れない雰囲気だけど顔だけはいいわねえ」


 と、余計なことまで口にする。


「初ねえちゃん、ちょっと失礼じゃない。顔だけとか。いちおうわたしの許嫁なんだけど」


 少し前まで、秋貴のことを口汚く罵っていた口で弁護にまわる。


「まあまあ、あたしの好みじゃないってだけよ。それより、さっきお勝手に秋貴さまが現れてね、明日女学校に迎えに行くっておっしゃってたわ」


「明日? そんな急に。それに、どこに行くっていうんだろ」


 初は首をかしげる。


「さあ、それだけ言ったら、さっさと出て行ってしまわれたから。ついでにね、昔から奉公している女中の方に秋貴さまのお母さまのこと聞いたの。そうしたら、駆け落ちのお相手は僧侶だったんですって」


「僧侶って、お坊さん?」


 僧侶の妻帯は浄土真宗の僧侶以外禁止であったが、明治の世になり妻帯は許可されるようになった。とはいえ、まだまだ禁忌であったことだろう。


「わたし、秋貴さんのこと何にも知らないなあ」


 日向子がぼそりとこぼした台詞に、初は意外な声をあげた。


「あらっ、興味が出てきたのね。いいこと、いいこと。やっぱり、いくら親が決めた許嫁でもちゃんと好きになりたいわよね」


「す、好きになりたいって……。わたしはまだ、正太郎のことが好きなのであって。別に秋貴さんのことは……」


 秋貴のことを好きになりかけていると、初に誤解されるのが嫌だったのだが。


「はいはい。わかった、わかった。それより明日は秋貴さまに会うのだから、気合入れないとね。どの着物にしよう」


 初はいそいそと桐箪笥の中を物色しだしたのだ。初の選んだ着物は、桔梗色の門綸子に雲柄の絞りが入っており、扇が染め抜かれた中に秋の草花が刺繍されている小振袖。

そこにいつもの海老茶の袴を合せた。


 そうして今日の午後、授業の合間の休み時間に、秋貴が女学校まで本当に迎えに来たのだった。

 門番から連絡を受けた先生が、日向子を呼びに来た。


「日向子さま、許嫁の方がお迎えに参られましたよ。これから、あちらのお家に挨拶に行かれるとか」


 許嫁が直接迎えに来た。このようなときめく事態に級友たちがどよめき窓際に殺到して、門にたたずむ人影を物色しだしたのだ。


「まあ、あの制服、一中じゃありませんこと」


「遠目ですけれど、すっきりとしたお姿でお顔も麗しいですわあ」


 あの日向子をお茶会にさそった晴子まで、


「今日の日向子さまのお着物、とてもお綺麗だと思っておりましたら、こういうわけでしたのね。よくお似合いですわ」


 と、手放しで褒めてくれる。そして、激励まで。


「きっと、先方さまに気に入っていただけますわよ。で、お式はいつですの?」


 晴子のキラキラした笑顔に、日向子は曖昧に笑うしかない。


「まだ正式に決まっておりませんのよ。お恥ずかしい。ほほっ」


 ひきつる笑顔で荷物をまとめ、そそくさと校門へ急いだ。詰め所の中にいた門番のおじさんに会釈して、秋貴へすぐさまつめよる。


「ちょっと、すごいめだって恥ずかしいんだけど。わざわざ門番に言わなくてもいいでしょ」


「僕のこと、恥ずかしいということですか?」


 切れ長のきれいな目を細めさみしそうに言われると、文句も引っ込むというもの。あの舞踏会から、秋貴は感情を素直に表すようになっているような気がする。それは日向子にだけ向けられたものだとしたら、ほんのりうれしいと思うのだった。


「そういうわけじゃないけど……。というか、迎えって学校が終わってからじゃなかったの?」


「終了時刻を待っていたら、終わってしまいますからね」


「終わるって、何が?」


 日向子の間抜けな質問に、秋貴はにやりと唇の端をあげる。


「鹿鳴館での亡霊退治ですよ」


 そういうわけで、日向子と秋貴は鹿鳴館を目指して人力車で走り出した。もうすぐ鹿鳴館に到着する頃、日向子はあることに気が付く。


「そういえば秋貴さんの学校、鹿鳴館の目の前じゃない。待っててくれたら、一人で行ったのに」


 秋貴の通う一中は、鹿鳴館の黒門のすぐそばに建っていたのだ。


「女性ひとりで、来させるなんてできません」


 どうしてできないのか、日向子にはわからない。


「今日はお天気もいいし、鹿鳴館ぐらい走って行けたわよ」


「走るって、そんな。四谷からけっこうな距離ですよ」


「えっ、秋貴さん走るのも苦手なの? あなた青白い顔してるんだから。ちょっとは体力つけないと。牛乳飲んでみて、体にいいから」


 日向子は松島家の牧場にいたころから牛乳を飲み、今でも毎朝飲んでいた。


「僕は苦手です。なんとも生臭くて」


「えー、あんなにおいしいのに」


「僕はあなたと違って、牧場で育っていませんので」


 秋貴が言った台詞に、日向子はひっかかる。


「わたしが牧場で育ったって、なんで知ってるの?」


「……康正さまにお聞きしたんです。あなたは小さい頃、里子に出されていたと」


 兄の康正は日向子が牧場に里子に出されたと、知っていたのか。日向子が香月家に戻された時、いっしょには暮らしていなかったのに。まあ、父から聞いたのだろうと、日向子は納得した。


 そうこうしていると、人力車は鹿鳴館の黒門に到着した。日向子は秋貴に手を貸してもらい人力車から降りると、ふと疑問がわいてきた。


「ねえ。ところでなんでわたしまで、ここに来ないといけないの?」


「あなたがいた方が、入りやすいんです」


 そう言われても、まだわけがわからない。


「それに、亡霊騒ぎがおさまらないと次の夜会も開催されないそうです。そうなったら日向子さんは、ダンスできませんよ。困るでしょ。だから、協力してください」


 なるほど……と納得しかけた日向子だが、どうもうまく言いくるめられたことは否めない。それでも、亡霊退治とはおもしろそうなので、日向子は納得することにした。

しかしふたりそろって黒門を通り抜けようとしたところで、武骨ななまりのある声に呼び止められた。


「わいどん、待て。部外者は入れんぞ!」


 夜会では、いつも馬車で通り抜けている黒門だ。日向子は初めて足止めをくらった。帽子をかぶった黒い制服姿のいかつい警察官が、ふたりに近づいてくる。

 日向子はちらりと秋貴を見ると、いつも無表情な顔が作り笑いを浮かべていた。


「僕たちは、今日の祈祷に興味があって見学に来たのです。ねえ、香月日向子さま」


 わざわざ香月家の名前を秋貴は声に出す。日向子も同意を込めて、渾身の猫なで声を出した。


「はい。西郷さまの迷える御霊を早く鎮めてさしあげないと、おかわいそうですわ」


 これぐらいの嘘をつくことは、慣れていた。すると、黒門に付属している長屋から腰に刀を下げた四十ほどの中年の男が姿を現した。この長屋は警察官の詰め所になっているようだ。

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