六 亡霊出現
秋貴が何か告白しようとした刹那、夜空に轟音が鳴り響きパッと頭上に花火が花開いた。
「今日は、花火があがるんだったわ。きれいねえ」
日向子はすかさず秋貴の手を離し、ベランダの手すりによりかかる。花火を見るふりをして、騒がしい胸を沈めていると、秋貴も日向子の隣に並び細い首を伸ばし花火を仰ぎ見た。
舞踏場にいた人々も、次々とベランダへ出てきて歓声を上げる。
真っ暗なキャンバスに一瞬だけ浮き上がる芸術的な火の華。西洋式の館で文明開化を謳歌している人々の顔は、花火が討ちあがる刹那、色とりどりにひかり輝いていた。
夜空に咲く花が瞬く間に消えあたりが静寂を取り戻した時、男の「なんだ、あれは!」と、いう叫び声が聞こえ、日向子は声のした庭へ視線を走らせた。そこには八角形の東屋が。
「あそこに、人影が。あれは……」
館から離れたところに立てられた東屋の中、太った男が立っていた。日向子は異様な男の姿に、目が釘付けになる。
足のあたりは東屋の手すりに隠れてあるかどうかわからないが、明るい色目の着流しを着た男は、腕をだらりと力なく垂らしている。
太った男の顔を確認したくても、首から上が闇と同化しており、あるはずの場所にない。それもそのはず。仁王立ちする男の首から上がなかった。すっぱりと切り落とされたように、首だけがない。
たちまちベランダは悲鳴と怒号に埋め尽くされる。
「あの体格、背格好はきっと西郷さんだ!」
「切り落とされた首を探しておられるんじゃないか?」
「西南の戦いからちょうど十年だ。まだ成仏できないなんて」
「そういえばここは、薩摩藩の別邸があったところだ。呪われてるんじゃないか」
髭を蓄えた紳士の口から出た『呪い』という恐怖が、その場にいる人々に次々感染していく。
「嫌よ、我が家は新政府に加担したとはいえ、わたくしは関係ないわ!」
「わしは、西郷軍が勝つと思っておった!」
「そもそも、西洋化に現を抜かすこと自体、忌むべきことだ!」
「西郷さんは、新しい世を呪っておられる!」
恐怖に耐えられず、人々がベランダから我先に逃げ出していき、館中が恐怖におののき始めた。
日向子はその騒乱の中、亡霊を見つめ続けていると、頭上で轟音をあげ再び花火がはじけた。一瞬、頭上を仰ぎ見て再び視線を東屋へ戻すと、もうそこに西郷の亡霊は跡形もなく消え失せていた。
「ねえ、見た? 今のって西郷さんの幽霊なのかな。それともあやかしかしら」
横に立つ秋貴の袖をつんつんと引っ張り、日向子は秋貴に話しかける。
「違いますよ。怨霊あやかしの類なぞ、この世に存在しません」
秋貴は強く言い切り、日向子を睨む。その視線の強さに、さっきのいい雰囲気なぞ消え失せ日向子は反発を覚えた。
「でも、正太郎はこの世には目に見えないものもいるって言ってたわ。わたしも見たんだから、人魂を。だからそういう不思議なものは絶対いるの」
つい興奮して、胸に秘めていた正太郎の名を口にしてしまった。
「正太郎……」
秋貴は、衝撃を受けたようにハッとする。許嫁の口から他の男の名が出て不快に思ったのだろう。日向子はあわてて、言いつくろう。
「えっと、むかしちょっとだけ遊んだ友達なんだけど、もう会えないの。死んでしまったから」
許嫁の秋貴に、初恋の正太郎の名前を告げたことで、日向子は無用な罪悪感に目が泳ぐ。秋貴はそんな日向子の動揺を瞬時にくみとったのか、恥じらう日向子からそっと目をそらした。
嫉妬なのか恋情なのか、秋貴は何かを飲み下すようにのど仏を動かすと、ふたたび日向子の手を取った。
「冷えてきましたね、中に入りましょう」
日向子は手を引かれるまま、舞踏室へ向かうと、先ほどまでそこにいた大勢の人々はすっかりいなくなり、楽団員が所在なげに物悲しい音楽をつま弾いている。すると突然、秋貴は立ち止まり日向子を振り返った。
「あれが幽霊でないと証明してみせます」
「幽霊じゃないって……、首がなかったのよ。人間のわけないわ」
秋貴が日向子の抗議に不敵な笑みを浮かべたところで、舞踏室に残っていたヘンリーが近づいてきた。
「君たち、幽霊を見たかい。すごいな、日本にも出るんだ。この鹿鳴館に人が押し寄せるぞ」
ヘンリーは亜麻色の髪をかき上げ、怖がるどころかおもしろがっている。
「なんで、ここに人が集まるの? 寄りつかないの間違いでしょ。みんな怖がってたのに」
「えっ? イギリスだと幽霊が出たら喜ぶけど」
幽霊を興行かなにかと思っているのかとあきれる日向子の横で、秋貴がヘンリーに説明する。
「日本では昔から、呪いを向けられると穢れるといって嫌がったのです。幽霊とはだいたいこの世に恨みを残して、呪うために現れるものだと考えられていますので」
ヘンリーは白くて長い指で、顎をつまむ。
「ケガレとか呪いとか……、よくわからないな」
「簡単にいうと、『死ね』と言われるようなものです」
秋貴の台詞に、ヘンリーは大げさに肩をすくめた。
「ああ、たしかに。それは嫌だな。気分が悪くなる」
「穢れは、病のようにうつるんですよ。そして、気力を吸い取られやがては死にいたる……」
秋貴はここまで言うと、日向子の顔を伺う。
「まあ、そんなことは迷信ですけどね」
切れ長の美しい流し目を受け、日向子の体はぞくりと震えたのだった。
秋貴と日向子が香月家に帰りついた時には、すっかり夜も更けていた。
秋貴は、屋敷の玄関で日向子と別れ自室がある長屋へと戻る。今日は新月で月の光のない暗闇の中、青いペンキの塗られた長屋の姿が見えてきた。
書生ばかり七人が暮らす長屋の窓から、明かりがいくつか漏れている。勉強に励んでいるのか流行りの小説を読みふけっているのか定かではない。
秋貴は他の書生とほとんど交流がなかった。みな、秋貴が日向子の許嫁だと知っていて、自分たちとは違うと見えない線を引いているのがわかるのだ。
そういう線引きをされることには、子供の頃から慣れていた。一風変わっていた秋貴に近づかず、線の向こう側から薄笑いを浮かべて観察していたのだ。
その目に見えない線を飛び越えてきたのは、あの子だけだった。長屋の玄関で靴を脱ぎ、等間隔に並んだ扉の一番奥にある自室の扉を開けると、きいっと軋む音が廊下に響く。
部屋の中に体を滑りこませランプを灯すと、康正から借りた燕尾服をぬいだ。ほっと一息つき、秋貴は窓際におかれた文机の引き出しを開けた。
そこには艶やかな光を放つ、鞠の柄の櫛が手ぬぐいの上におかれていた。それを、秋貴は大事そうに手の中に包み込む。
「日向子さん、僕の命にかけてあなたを守ります」
まさに命をこめた決意は、一人きりの部屋に虚しく沁み込んでいった。
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