五 ヘンリー

 イギリス海軍の軍服をまとうヘンリー・エバンズは、年のころは二十代半ばの男盛り。亜麻色の髪に碧眼を持ち、石に刻み付けたような掘りの深い顔立ちに金モールのついた濃紺の軍服がよく映える。


「ごきげんよう。ヘンリーさま。今日もよろしくお願いいたします」


 馬鹿丁寧に挨拶をする日向子を見て、ヘンリーは掘りの深い顔にしわを寄せてクスクスと笑う。ヘンリーは日向子が猫をかぶっているのを知っているのだ。


「ところで、その人は?」


 ヘンリーが高い背を幾分かがめ、秋貴に向き直る。


「あ、えっと……」


 秋貴のことをどう説明すればいいのか、日向子は一瞬躊躇した。すると、秋貴が頼まれてもいないのに自己紹介を始めた。


「日向子さんの許嫁の五辻秋貴と申します。以後、お見知りおきを」


 きっぱりとヘンリーの顔を見返して言う秋貴に、日向子は急いで訂正する。


「許嫁と言っても、まだ正式にってわけじゃないのよ」


 日向子の隣で憮然とする秋貴の様子がおかしいのか、ヘンリーは短く息を吹き出すと口元を拳で覆う。


「安心して、許嫁殿。俺と日向子嬢はただのダンス仲間だから。君が踊ったあと、一曲踊ってもいいかな?」


「僕はダンスを踊りませんので、どうぞ。でも、一曲だけにしてください」


 舞踏会において、パートナー以外と踊ることは普通のことだ。ヘンリーをけん制する秋貴の言い草に、日向子はハラハラするどころか抗議する。


「ねえ、そんなこと言わないでよ。わたし、せっかくここに踊りにきたんだから」


 せっかくダンスを踊りに来たというのに一曲だけなんて、がまんできない。日向子の訴えに、秋貴はハッと我に返ったように謝った。


「すいません。大人げないことを言いました。どうぞ僕のことなんて気にせず、踊ってきてください」


 それだけ言うと、秋貴は日向子をおいてつかつかと舞踏室を突っ切り、奥にある扉からベランダへ出て行った。

 唖然とする日向子を、ヘンリーは笑いをかみ殺してダンスに誘う。


「さあ、カドリールが始まるよ。踊りの輪に入ろう」


 軽快な音楽が流れ、日向子はヘンリーに手を取られ踊りの輪に入って行った。久しぶりにダンスのステップを踏むと、日向子の息は弾ずみ鬱々としていたここ数日の胸のうちが晴れわたる。


「やっぱり、日向子と踊るのは楽しいな。君はダンスを社交の道具ではなく心から楽しんでる。そこがいいんだよ」


 日向子はヘンリーに褒められ、夢中でカドリールを踊り切る。二曲目のワルツも踊ろうとヘンリーの顔を見上げたのだが。


「日向子、ちょっと休んだら。許嫁殿の様子を見ておいで。彼、嫉妬でおかしくなってるかもよ」


 ヘンリーのちょっと調子の狂った日本語を、日向子は理解できなかった。


「今、嫉妬って言った? どういうこと」


「嫉妬した目で俺を、睨んでたんだよ。恨まれたくないから、機嫌とっておいで」


 ヘンリーは片目をつぶって、日向子の背中を押す。そこまで言われては、日向子は渋々従うしかない。ガラス張りの扉を押してベランダに出ると、秋の夜風が踊りで火照った体を心地よく冷ましてくれる。


 舞踏室の窓は天井まで届く縦長のアーチ型で、そこから洩れる光がベランダを明るく照らしていた。辺りを見回すと、三人の紳士がシャンパングラスを片手に、透かし模様が施された手すりに腰を持たれて談笑していた。


 彼らの奥に秋貴が、一人ぽつんと所在なげにガス灯に照らされた庭を見下ろしている。近づいてきた日向子の気配で、顔を上げた。


「ダンスはもう、いいんですか?」


 すこしすねたような声音に、本当はもっと踊りたかったと言うわけにいかない。


「ちょっとお腹すいたの。一階の食堂に行ってサンドイッチでもつままない? あっ、アイスクリームもおいしいのよ。あなた食べたことある?」


 日向子が甘いアイスクリームをちらつかせ食事に誘っても、秋貴は動こうとしない。


「ドレスって体が苦しくて、食事できないってききますけど。あなたは、平気なんですね」


 たしかにドレスは、苦しい。コルセットで腰を極限まで絞るので、食事どころではないのだ。気分が悪くなり倒れるご婦人も大勢いる。しかし、日向子はニヤリと笑った。


「ふふっ、わたしは、ドレスを緩めに誂えてるのよ。靴だって、ヒールを低くしてるし。何より動きやすくなくちゃ、踊れないでしょ」


 何やら沈んでいる秋貴を笑わせようと、わざとおどけて言ったのに、肩透かしをくらう。秋貴は笑うどころか、まだすねている。


「日向子さんは、ヘンリーって人が好きなんですか? さっき、あの人の顔を見てうれしそうにしていたから」


「はっ? 違うけど。ヘンリーはダンスが上手なの。わたしはダンスが踊りたいだけなのに、変な勘違いしないでよ」


 日向子に突き放され、秋貴は見るからにしょげ返っている。傍若無人な最初の振る舞いは、何だったのだというほどのしおらしさだ。

 そのような姿を見せられては冷たくもできず、ついつい情にほだされる。


「ダンスって、すごく楽しいのよ。ねっ、秋貴さんも練習しましょう」


「僕には、無理です。運動は得意じゃないから……」


 秋貴という人は頭がよく、なんでもそつなくこなす人だと日向子は勝手に思っていた。本当は猫をかぶる日向子と同じように、無表情という仮面をつけ必死に自分を取り繕っているだけなのかもしれない。


 明るいシャンデリアが反射するガラス窓の向こうでは、三拍子のワルツがまだ流れていた。


「大丈夫、ダンスは運動っていうより、リズム感が大事だから。ほらっ、見て」


 日向子はくるりと秋貴に背を向けると、スカートを捲し上げワルツのステップを披露する。


「体重を右左右、左右左って移動させて。いちにいさん、いちにいさん。こんな感じ」


 秋貴は、日向子のステップを数回見て、「なるほど、理屈はわかりました。右足で踏み込んで、横にすべらせて、今度は左足を引く」と、声に出しながら自らもステップを踏む。


「そうそう。わかってるじゃない」


 日向子は秋貴に向き直ると、秋貴の手を取りワルツのホールドの姿勢をとる。今日は秋貴と距離をつめても、芥子の香りがしない。それだけで、どこかホッとする日向子だった。


「鏡合わせのように、動きを合せるの。秋貴さんが右足を出したらわたしは左足を引く。やってみましょう。はい、いちにいさん」


 秋貴は素直に日向子に習い、目線を下げ自分のステップを確認しながら踊る。秋貴のふせた目にびっしりとまつ毛が並び、その一本一本が見えるほど二人の距離は近い。

 最初はぎこちなかった秋貴のステップは、段々とテンポをつかみ軽やかになっていく。それに合わせるように、日向子の心も軽やかになっていた。


「できた、できた。ねっ、楽しいでしょ」


 日向子の弾んだ声に、秋貴はふっと顔を上げた。夜の闇を背にして、窓越しの灯りを受けた秋貴の瞳は夜空の星のようにきらめいていた。そして日向子の顔をみつめ、月明かりの下で開化する月下美人のようにふわりと笑う。


 そのはかない笑顔が月夜に見た正太郎の笑顔と重なり、日向子の心臓は痛みを感じるほど強く鼓動を刻みだした。

 秋貴が正太郎と似ているわけがない。正太郎はもっとやさしかった。


 秋貴に対して不覚にも感じたときめきと、正太郎への思いが混ざり合い、日向子の心はかき乱れる。今すぐ手を振りほどき、逃げ出したい衝動にかられるが、しっとりと濡れた瞳からどうしても目をそらすことができない。

 すると、秋貴の形のよい唇がかすかに震えた。


「日向子さん、実は僕……」

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