四 鹿鳴館へ

 夜会の始まりは、夜の八時半。香月家の馬車はその時刻を目指し、日向子と秋貴を乗せて永田町あたりに差し掛かったところである。


 車輪がガラガラと回る音のみが聞こえる車内に、ふたりきり。兄から許嫁だと紹介されてより数日経っているが秋貴と日向子が顔を合せるのは、これが二回目だった。


 同じ敷地内に住んでいるとはいえ、母屋と書生の長屋ではめったに顔を合せることはない。書生の長屋には、現在秋貴を含め七人ほどの若者が寝起きしていた。


 長屋で食事も出されるので、秋貴が母屋を訪れることは兄に呼ばれた時ぐらいだ。

 日向子はちらりと横目で隣に座る姿を確認する。


 秋貴は兄のおさがりをなおした燕尾服を着ていた。いつも下ろしている前髪をあげ、形のよい額をあらわにしている。学生服を着ている時よりも大人っぽく見え、こ憎たらしいほどの男ぶりであった。

 さぞ鹿鳴館で、ご婦人たちの視線を釘付けにすることだろう。


「そのドレス、とてもお似合いですね」


 日向子の不躾な視線に気づいたのか、秋貴は日向子の姿を見ることなく前を向いたままぼそりとつぶやいた。日向子は小麦色の肌によく映える、エメラルドグリーンのドレスを身にまとっていた。


 立ち上がった襟のふちにレースが飾られ、胸にもたっぷりと黒いレースがあしらわれている。スカートは二枚重ねで、下のスカートは生成り色の小花模様。


 バッスルスタイルのドレスは、スカートのひだがたっぷりと取られている。ダンスを踊ると、ふわりと花が開いたように翻り、光沢のある繻子の生地の上で縫い留められたビーズがキラキラときらめき美しいことこの上ない。


「ありがとう存じます。秋貴さまも洋装が、よくお似合いですわ」


 猫なで声で日向子が答えると、黒曜石のようなきらめく瞳がちらりと横に動いた。


「僕の前では、猫をかぶらなくてもいいですよ。どうぞ、あなたの思うままお話になってください」


 途端、日向子は「ふん」と鼻をならした。


「何よ、どうせ馬子にも衣裳とか思ってるんでしょ」


 日向子の中で、秋貴の人格は最悪の印象のまま更新されていない。自ずと攻撃的になるというもの。


「何を怒っているのですか?」


「まあ、いけしゃあしゃあと。わたし、まだ根に持ってるんだから。あなたがしたこと」


 日向子にした破廉恥な行為を、秋貴は謝るどころか忘れていることにはらわたが煮えくり返る。そんな怒りに震える日向子へ、秋貴は不思議そうに顔を幾分傾けた。


「何のことでしょう」


 秋貴がすっとぼけるので、髪を高く結い上げられた日向子の頭に血がのぼる。


「あなた、わたしの肩を思いっきりつかんで抱きついたでしょ。婦女子にあんなことするなんて、失礼と思わないの?」


 日向子の訴えに、秋貴は声を一段低くする。


「あれは、うまくいきませんでした」


 と、謝罪ではなく意味不明なことをこぼす。日向子は意思疎通のできない許嫁を、横目でにらみつけた。


 うまくいかなかったって、どういう意味よ。この人自分が抱きついたら女の子がみんな、自分を好きになるとでも思ってるのかしら。


 そういえば、今日の鹿鳴館行きも早く上流階級の人と顔見知りになりたいと言っていた。どういう経緯で許嫁になったのか知らないが、しょせん、日向子の家柄だけが目当てなのだろう。


 秋貴はいくら母親が香月家の人間だったといえ、華族ではない。


「今日の夜会で、たっぷりあなたの顔を売り込むといいわ。あなたの目論見通りにね」


 日向子が嫌味を言うと、秋貴は薄い唇からふっと息をもらした。


「ああ、あれは方便ですよ。上流階級の方なんか興味ありません。あなたが夜会に行きたがっていたので、ああ言ったまでです」


「えっ、わたしのためなの?」


 意外な台詞に日向子は、素直に問いただす。


「そうですよ。僕はあなたのためなら、なんでもします」


 ――あなたのためなら、なんでもします。


 このようなことを許嫁から言われるとは、どういう意味があるのだろう。秋貴は、日向子のことを好いているということか……。


 許嫁の真意がわからず、日向子はしげしげと秋貴の顔をみつめたが、相変わらずの無表情。女子が喜ぶ甘い台詞を言ったようには、とんと見えない。


 きっと、こう言えば喜ぶと思っているのだろう。日向子は騙されるものかと、唇に力を入れたのだった。


 それきり会話は途切れ、沈黙を乗せた馬車が鹿鳴館の厳めしい黒門をぬけた。鹿鳴館の正門はかつての薩摩藩屋敷の黒門を転用しており、洋館部分はネオ・バロック様式の煉瓦造りの二階建て。和洋折衷の趣がある。


 二頭立ての馬車は車寄せでようやく停車した。ガス灯に照らされ真昼のような明るさを放つ豪壮な館を目の前にして、馬車から秋貴が降り立ち後に続く日向子へ手を差し出した。


 エスコートする秋貴の手を振りほどくなんて無作法なこともできず、日向子は渋々白く指の長い手に自分の手を重ねた。

 秋貴の手は、冷たい態度に反して熱を帯びたように温かだった


 館の玄関口にはすでに、燕尾服に身を包む紳士、バッスルドレスを着こなした淑女が大勢集まっている。


 馬車から降りても秋貴は手を離してはくれず、手をつないだまま玄関ホールをぬけ、中央にある重厚な存在感を放つ折り階段をのぼる。楽団が奏でる西洋音楽に誘われ、舞踏室へ向かった。


 今夜行われている夜会は井沢外務卿主催であり、招待客には外国人も混じっている。男性はパートナーを伴うのがマナーであるが、その中に妙に色気のある美女の姿が。芸者たちだ。政府の高官たちの奥方にも、元芸者が多い。


 舞踏室の前で招待客に挨拶しているのは、外務卿夫妻だった。金屏風の前に立つ外務卿は元長州藩士で、立派なカイゼル髭を蓄え胸にいくつもの勲章をぶら下げた小柄な男だった。


 その隣に立つ夫人の竹子はすらりと背が高く、真珠やレースで飾り立てられた赤いビロードのドレスが華やかな容姿によく似合っている。 


 秋貴はさすがに二人の前では、手を離しこうべを垂れ挨拶をする。日向子も会釈をすると、外務卿が親し気に声をかける。


「おお、日向子くん、今日は来たんだね。たっぷりとダンスを踊るといい」


「ありがとう存じます」


 日向子は猫を素早くかぶりそつなく礼を言いうと、竹子夫人の薔薇色の唇からふふっと上品な笑い声がもれる。


「まあ、今日のエスコートはお兄さまでは、ありませんのね。そちらのお若い方、存分に楽しんくださいね」


 この夫人も元芸者であるが、意志のある強いまなざしは旗本の出だからであろうか。

 御一新により家が没落して芸者に身を落としていたところを、井沢に見初められたそうだ。流転の人生を歩む竹子夫人に、日向子は勝手に親近感を覚えていた。


 挨拶を終えると、秋貴が日向子の耳元でそっとささやく。


「随分、外務卿に気に入られているんですね」


 音楽がうるさくて聞き取りにくいと思い、秋貴は耳元に口を寄せたのだろうが、距離が近すぎる。日向子は、わざと一歩下がり距離を取る。


「まあね。わたしみたいに若い令嬢がここに来ることは少ないし。おまけに、ダンスを踊る人なんてほとんどいないから。井沢さまにとっては、若い令嬢も外交の手段なんだって」


「どういう意味です?」


「わたしもよくわからない。ようは外国人のダンスのお相手をして機嫌をとってほしいんじゃないかと、ヘンリーが言ってたわ」


「ヘンリー……」


 秋貴がその名を口の中でつぶやきながら視線をさ迷わせると、舞踏室に隣接した控えの間の扉から紫煙が漏れているのに気がついたようだ。

 秋貴の不審な視線に、日向子が答えを聞かせる。


「芸者さんたちが控えの間に逃げ込んで、煙管で一服してるの」


「へえ。おもしろいですね。西洋化しているのは、外側だけのようだ」


 秋貴の皮肉に、日向子はうっすらと笑った。

 西洋の男性は、妾を持たない。西洋を真似するならば、日本の男性も習うべきなのに、あの芸者の中には妾として囲われている人もいるという。


 香月家でも数年前まで、奥に父の妾が同居していた。兄はああいう性格なので妾はいないが、秋貴はどうするだろう。


 日向子はちらりと秋貴の顔を覗き見る。すると、その視線に気づいたのか秋貴と視線がぶつかった。


「どうしました? 急に元気をなくされて。ここに、ダンスをしにきたのでしょう」


 日向子は気遣ってくれる秋貴を、今は信じることにした。


「ねえ、あなたも踊りましょうよ」


 日向子の誘いに、なぜか秋貴は答えない。ふたりがシャンデリアのきらめく舞踏室へ足を踏み入れると、ダンスを踊っているのは主に外国人たちだった。日本人はダンスの輪に入らず花唐草模様の壁際に立ち、好奇心を隠さず香月家の令嬢と連れの少年の姿を目でおっている。


「日向子、ごきげんよう」


 すこしアクセントがおかしい日本語で話しかけてきたのは、いつも日向子とダンスを踊ってくれるヘンリーだった。

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