三 許嫁

 悪い予感とは概して当たるもので、日向子の目の前は真っ暗になる。結婚というものに、夢や希望を持っていたわけではない。同級生の中には、親ほど年の離れた夫の後妻として嫁ぐ人もいた。


 それに比べれば、秋貴はだいぶましである。ましどころか、同級生から羨ましがられる許嫁の部類だろう。家柄はわからないが、見目麗しく、府立一中に通うほど秀才でもある。


 この時代、一中から一高そして東京帝大という流れが、出世の花道だった。

 それでも日向子は、この得体のしれない秋貴だけは絶対に嫌だという感情を拭うことができない。


「秋貴くんは、我々のいとこなのだよ。父上の妹のお子でね。その方は亡くなっていて、育ての親御さんも最近亡くなられた」


 兄は日向子が嫌がっていると、露ほども思っていたいようだ。いとこという間柄も、兄は親しみを感じているのだろう。

 しかしこの秋貴は、うら若い乙女にいきなり抱きつくとんでもなく不埒な男なのだ。その所業を兄にぶちまけてやりたい。


 日向子がすうっと息を吸い込んだところで、ふと思いいたる。もし、秋貴の悪事を告白しても、反対に日向子が先ほど口汚く罵り頬を叩いたことを言われたらどうしよう。

 ひょっとして、この秋貴は許嫁だと知っていて、日向子の反応を図るためにわざとあのようなことをしたのかもしれない。だとすると、日向子はまんまと本性を晒してしまったことになる。


 まあそんなことは深読みかもしれないが、日向子が抵抗してもどうなるものでもないことは、今までの経験から嫌というほどわかっていた。

 よくお須江に言われたものだ。


「人は生まれ持った定めに、逆らって生きてはいけないものです」


 華族の姫君は、一見何不自由なく贅沢に生きていけると世間では思われているだろうが、しょせん籠の中の鳥だ。自分の翼で自由に飛ぶこともできない。

  すべてが当主である父の胸先三寸で決まる。そういう定めの下に、産まれたのだ。抵抗するだけ、無駄というもの。


「不束者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。秋貴さま」


 しおらしく、嘘八百を口に出しニコリと笑う。日向子の渾身の笑みに、秋貴は表情を崩さない。もう、相手の反応などどうでもよかった。

 日向子の処世術として、相手の要求を快く飲んだ方が、自分の要求も通りやすいとわかっている。窮屈な身の上であっても、できるだけ楽しみをつかみ取りたい。


「あの、お兄さま。次の鹿鳴館の夜会には参加してもよろしいでしょうか。お兄さまがお忙しくても、秋貴さまにエスコートしていただければよろしいかと」


 前回の夜会では、兄の都合がつかず日向子は参加できなかった。いくら日向子が行きたくても、一人ではいけない場である。


「ああ、夜会か……。どうだろうなあ。許嫁がいる女子が、ああいう場に出て行くのは……」


 上流階級の女性は家の奥でじっとしていることが美徳であり、他人に素顔をさらすことさえ嫌がる。男性と手を取り合いダンスするどころか、社交の場に出ることさえ億劫がるという。


 しかし日向子にとって美徳などどうでもよく、とにかく体を動かしたいのだ。学校の体操の時間だけで、その欲求は満たされない。華族令嬢の立場で、合法的に体を動かせる鹿鳴館でのダンスはうってつけだった。


 しかし父がいないこの家で、兄の許可がないと日向子は何もできない。許嫁ができるともうダンスを踊ることも無理なのかと、日向子は帯の中の小鳥に視線を落とした。


「僕はかまいませんよ。鹿鳴館での夜会に、興味がありますので。早く、上流階級のみなさんとも顔見知りになりたいですし」


 まさかの助け舟を、秋貴が出してくれた。鹿鳴館なぞ興味もないという顔をして聞いていたのに。


「よろしいのじゃなくて、あなた。おふたりで出かけることで、仲が深まるというものですよ」


 鹿鳴館に出かけてなぜ仲が深まるのか、日向子には皆目わからないことだ。しかし弥生にこう言われて、兄は許可するしかなかった。この家の影の実力者は弥生である。


「まあ、そうだね。じゃあ来週の夜会にふたりで行ってきなさい」


「ありがとう存じます」


 日向子は、心からの笑みを浮かべたのだった。




 廊下で待っていた初を引き連れ自室に戻ると、日向子はさっそく得体の知れない許嫁ができたと泣きついた。そこで初は、お勝手へ赴き秋貴の噂をさっそくあれこれ仕入れてきてくれた。


 お勝手とは屋敷中の女中が集まり、なおかつ出入りの御用聞きも訪れるところなので、当然のように噂が集まるところなのだ。

 初の仕入れた噂によれば、香月家の姫君であった秋貴の母は駆け落ちをして、許されぬ結婚の末に秋貴を産んだ。しかし数年前に病でその母が亡くなると、日向子と秋貴の祖父である香月家の先代が囲っていた、深川に住む妾に預けられた。


 この妾は元深川芸者で、祖父が亡くなっても秋貴を育てることで香月家から手当てをもらっていたそうだ。しかしその妾も先日亡くなった。

 妾を知る女中によれば、まだ四十半ばの年齢だったそうだが、大変な癇癪持ちで発作のような癇癪を起して頭の血管が切れたことが死因とのことだ。


「ふーん。そんな人に育てられたなんて、かわいそうな人ね。でも、秋貴さんのお父さんはどこにいったの?」


「さあ、それは聞かなかったわね。亡くなっているのかも」


 初の話を聞いて、次々身内を亡くした秋貴が気の毒に思えてきた。しかしそうは言っても、婦女子にいきなり抱きつくという乱暴狼藉を許せるものではない。

 秋貴は、日向子に謝りもしていないのだ。


「ああ、いつか許嫁はできると思ってたけど、まさかあんな人だとはなあ。正太郎みたいな人とまではいかなくても、もううちょっと優しい人がよかった」


「ひなちゃん、まだ初恋の君のこと引きずってるの。子供の時の話でしょ」


 初は日向子の口から正太郎という名が出て、またかとあきれている。


「だって、忘れられないんだもん。初ねえちゃんもまだ奉公にきてなくて、ひとりぼっちのわたしに優しくしてくれたのは、正太郎だけだったんだよ」


 夜の闇で出会った正太郎との夢のような思い出を、日向子はずっと心の中に大切にしまっていた。

 約束通り、翌晩あの灯篭のところに忍んで行った日向子だった。しかしどんなに待っても正太郎は現れない。次の晩も、次の晩も。毎晩正太郎に会いたくて、床を抜け出す日向子はとうとうお須江にとがめられた。


 どこに行くのかと詰問されて、日向子はしぶしぶ正太郎の名を口にした。するとお須江は、


「正太郎というものは、もうこの世にはおりません」


 と言い放ったのだ。しかしとてもじゃないが、日向子は納得できない。


「そんなわけない。あんなに元気だったのに。そんなの嘘よ!」


 いつもなら日向子がわめくとすかさずお須江は叱責するのだが、その日は叱りもせずじっと泣き止むのを待っていた。

 そのお須江の態度から嘘ではないと悟った。もう二度と会えないのだと思うと、日向子は正太郎のことを好きだったのだと気づいたのだ。


 正太郎は使用人の子だろうと思っていたが、今思えばふたりが会った庭園は使用人が住む長屋からは離れていた。

 使用人の子が、おいそれと出入りできるような場所ではない。いったい正太郎は何者であったのか、今でもわからない。


「はあ、なんてはかない恋だったんだろう」


 初恋を思い出し、日向子が切ないため息をつくと初が茶々を入れる。


「その正太郎って男の子、本当に人間だったの? 夜に会ったんでしょ。幽霊だったのかも」


「変なこと言わないでよ。幽霊だったら触れないでしょ。わたし、正太郎と抱き合ったんだから。ちゃんと暖かかったの」


 そう抗議すると、初は目じりを下げニヤニヤと笑う。


「やだ、ひなちゃん。抱き合うだなんて、おませねえ」


「もう、そんないやらしいこと言わないで。わたしにとって、美しい思い出なのよ」


 日向子は大好きな正太郎のことを茶化され、頬を膨らませる。

 こんなに大好きな正太郎とは似ても似つかぬ秋貴と、結婚しなければならない自分の運命を、いまさらながら日向子は呪うのだった。

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