二 兄夫婦

 日向子の自室は、白いムクゲの花が咲く坪庭に面しており二間続きだ。奥は寝室で手前が勉強部屋。勉強部屋には畳の上に西洋の青い絨毯が敷かれ、窓際にデスクと椅子。デスクの上には、舶来物のかわいらしい白いガラスのランプがおかれていた。


 着替えるため奥の寝室に初といっしょに入ると、日向子はくるりと振り返りがばっと初に抱きついた。初から鬢づけ油の甘い香りがする。


「初ねえちゃん、聞いて! さっき玄関で変な男に抱きつかれたんだよ。信じらんない、あいつ。いったい誰なのよ。もう、びっくりして大人しく抱きしめられたのが腹立つ。もう一発、殴ってやればよかった!」


 一気に先ほどの無礼な少年への怒りをまくし立てた。日向子はふたりきりの時だけ、こっそりと初のことを『初ねえちゃん』と呼び、初も妹に話しかけるように気楽な口をきく。 


 初は日向子が里子に出されていた松島家の長女である。初の上には兄がふたりいて、日向子の下に弟がいた。

 日向子が香月家に戻ってしばらくのこと、初は女中奉公として香月家へやってきた。その時からずっと、身の回りの世話をしてくれている。


「そういえば、さっき若殿さまが書生さんと面会されてたわよ。新しい方みたいだけど。でも、抱きつくなんて、変な人ね。ひなちゃん、びっくりしたでしょ」


 香月家はかつての領地に住む、優秀な若者に住居と学費を援助し、東京での勉学の機会をあたえていた。無礼な少年もそのひとりだろうと思われる。


 しかし、日向子が今まで会った書生は、主家の令嬢への礼儀を忘れなかった。例え、日向子が猫をかぶった姫君であっても。


 日向子は松島家から香月家に戻され、養育係のお須江に厳しく行儀作法を叩きこまれていた。ある日箸の持ち方が悪いと手の甲を叩かれた時、カッとなりお須江の手にかみついたのだ。


 お須江もお須江で顔色ひとつ変えずに、「姫さまは、お猫さまにおなりなさい。心の内を変える必要はございません。そのかわり、上等で気位の高い猫の真似をすればよろしい」と言い放った。


 その言葉に、一番大事なものを変えなくてもいいのだと日向子は自分を納得させ、それから素直にお姫さまのフリを身につけたのだった。


 数年前にお須江が亡くなってから、日向子が猫をかぶっているのを知っているのは初だけ。いや、鹿鳴館でダンスをよく踊るイギリス人将校のヘンリー・エバンズには、ばれているようだ。


 ヘンリーが日本語をわからないと思い、日向子は好き勝手言っていたらなんとちゃっかり日本語を理解していたのだ。人の悪いにもほどがある。

 そして今日新たに、真の日向子の姿を知るものがひとり増えた。


「あの書生、今度会ったらただじゃおかないんだから」


 まだあの沈香の香りが鼻の奥に残っており、日向子は怒りを新たにする。


「まあまあ、愚痴は後で聞いてあげるから早くお着換えしないと。お待たせしているのよ」


 初はそう言うと、抱きつく日向子を引きはがしテキパキと桐箪笥の中から着物を取り出す。


「別に、袴だけ脱いだらいいでしょ。長着はこれでいいよ」


「だめよ、そんな地味なの。何やら大事なお話っていうじゃない。ひょっとして、許嫁が決まったとか」


 初は自分の縁談がまとまったごとく、ウキウキとはしゃいでいる。十六になる日向子には、いまだに許嫁が決まっていなかった。華族の令嬢としては、まれなことだ。


「ええ、許嫁なんてやだなあ。お嫁にいったらますます窮屈になる……」


 日向子は大きなため息をつき、初に手伝ってもらい女学校行きの地味な着物を脱いでいく。


 初の用意した着物は、鮮やかな瑠璃色の地に薔薇が友禅で描かれた小振袖。帯は白鼠色に小鳥の柄のかわいらしいものだった。


「ひなちゃんは、目鼻立ちがはっきりしてるんだから、これくらい派手な色が似合うのよ。それなのに、女学校には地味な格好で行ってから」


 女学校では、とにかく目立たぬように地味な格好を心がけていた。


「だって、地味にしてたらあんまり話しかけられないでしょ。おしゃべりしたら、ついつい地がでちゃうもん」


「でも、それだとお友達ができないじゃない」


 よどみなく動いていた初の手が、一瞬止まる。


「いいんだよ。わたしには初ねえちゃんがいるんだから。あっ、でも初姉ちゃんがお嫁に行くまでって、ちゃんとわかってるから。ずっとわたしの傍にいられないもんね」


 香月家のような華族に女中奉公にあがると、作法や礼儀が身についているといっていい縁談が舞い込むという。


「ひなちゃんのお婿さんが、いい人だといいんだけど。嫌な奴だったら、あたし心配でおちおち結婚できないわ」


 冗談とも本気ともとれる初の軽口に、日向子は笑うしかない。

 着替え終わり奥から出て、長い廊下を歩いていくとようやく兄が待つ書院にいきついた。閉まっている障子の前で、初が日向子の到着を告げると中から兄が入るように促す。


「失礼いたします」


 初をおいて日向子は令嬢の猫をかぶり、静々と伏し目がちに中へ入る。すると赤い絨毯の上におかれた椅子に兄の康正やすまさと隣に兄嫁の弥生やよいが座っている。そして洋卓を挟み向かいの長椅子に、あの無礼な少年がすました顔で座っていた。


 無表情な人形のように整った顔を見て、日向子は「あっ」と一声もらしてしまった。


「なんだ、もう顔を合せたのか」


 日向子の嫌悪が滲む動揺にちっとも気づかず、兄は朗らかに訊く。さっそく顔を合せたが、兄の前で殴りかかるわけにもいかない。日向子が黙っていると、少年は顔に似つかわしくない低い声を出した。


「さきほど、玄関でお会いいたしました」


 日向子の動揺に反して、落ち着いた口ぶりが余計に怒りを加速させる。


「そうか。日向子そんなところに立っていないで、秋貴あきたかくんの隣に座りなさい」


 兄は人のよさそうな顔でほほ笑むと、秋貴と呼ばれた少年の隣を指さした。日向子に拒否をする権利はない。二人掛けの長椅子に、できるだけ距離をとって座るとさきほどと同じ芥子の匂いが香ってくる。


「まあ、こうして並んでいる姿を見ますと、お似合いのお二人ではないですか」


 兄嫁の弥生が、明るい張りのある声で場の空気を和ませた。この弥生は快活な性格で、父と母のいないこの屋敷をきりもりしているしっかりものの嫁だった。


「そうだね。やはり、父上のおっしゃる通りにするのがいいのだろう」


「そうですわよ。遅いくらいです。わたくしの時は、十三でしたもの」


 弥生がそう言うと、兄の康正と顔を見合わせふふっと、ふたりして含み笑いを浮かべる。子供を二人授かっているとはいえ、まだまだ新婚気分がぬけない兄夫婦に、日向子は不穏な空気を感じとった。


 お似合いやら、遅いくらいやら。そういうことを言われるということは、まさか……。


「日向子、紹介しよう。おまえの許嫁、五辻秋貴いつつじあきたかくんだ。府立一中に通っていて、同じ年だよ。正式なお披露目は父上が帰国されてからなので、今は書生として長屋に住んでもらう」

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