第一話 西郷の亡霊
一 出会い
授業の終わった華族女学校では、女学生の「ごきげんよう、また明日」という上品な挨拶があちこちから聞こえてくる。
地味な柳色の小振袖に海老茶色の行燈袴を身に着けた
教室の出入り口で「ごきげんよう」と礼儀正しくお辞儀を終えて、日向子は足早に帰路につこうとしていた。
「お待ちになって、日向子さま。今日よろしければ、我が家でお茶をしませんこと?」
菊模様をあしらった珊瑚色の鮮やかな小振袖に、同じく海老茶袴をはいた女生徒が日向子に声をかけてきた。
「まあ、晴子さま、ありがとう存じます。しかし、今日は……」
日向子はお嬢さまにしては若干日に焼けた健康的な肌色の顔をうつむかせ、言葉を濁した。
「あら、何かご用事がありまして? 残念だわ。日向子さまを一度お茶席にご招待して、鹿鳴館でのお話も伺いたくて。親睦を深めたく存じます」
晴子は日向子が、鹿鳴館に出入りしているのを知っているようだ。
「そのようなご配慮、もったいないことでございます。鹿鳴館には兄に連れられて同行しているだけですので、気の利いたことも話せませんし。晴子さまのご招待なんて、気後れしてしまいますわ」
日向子は殊勝な面持ちで、やんわりお茶会を辞退する。すると晴子は、ふっくらとした白い頬をゆるめる。
「そんなこと、ございませんわ。今日のお客さまは昭子さまに容子さまですのよ。みなさま、日向子さまと同じ武家華族のお家柄ですので、お話が合うはずですわ」
晴子が言うように、昭子も容子も日向子と同じ伯爵家の令嬢であるが、教室の中でひときわ目立つ華やかな存在であった。ちなみに晴子は侯爵家の姫君で、色白で整った容姿は大和なでしこらしくたおやか。同級生の中ではリーダー格の、才色兼備な女生徒である。
ようは地味で大人しい日向子が、眩しくもきらびやかな同級生のお茶会に場違いにも招待されたのである。
「本当に、残念ですわ。今日は兄から大事な話があるから、早く帰るようにと言われておりまして。また、誘ってくださいませ」
誘われることはもうないだろうと思っても、日向子は薔薇色に色づく唇に笑みを浮かべた。
「そうですわね、ではまたの機会に。ごきげんよう。日向子さま」
ようやく晴子は、日向子を開放してくれた。教室の中へ向かう背中を見つつ、日向子はこっそりと鼻から息をもらす。
兄の言いつけは、お茶会を断る口実ではなく本当のことだった。日向子は足音を立てずに静かに歩き始めた。どんなに急いでいても、走るなどもってのほかである。
華族の令嬢は、いつ何時でも品よく美しさを保たなければいけない。
校舎の外に出て、門番に挨拶をして門をくぐる。華族女学校の前には、女学生を乗せる人力車が数台待機しており、お付き女中が首をのばし主人の帰りを今か今かと門の中を伺っていた。
日向子を待っている人力車や女中もおらず、その前を素通りして家路を目指す。女学校のある四谷から屋敷がある紀尾井町まで十五分ほどの道のりだった。
風呂敷を胸に抱き楚々とした足取りでしばらく歩いていた日向子だったが、元赤坂の仮皇居をすぎたあたりできょろきょろとあたりを伺う。女学校の関係者がいないことを確認すると、視線を秋の高い空へ向けた。そして、首を左右に傾け大きく肩で息をする。
「ああ、肩がこる」
そうつぶやくと、風呂敷を脇に抱えおもむろに駆け出した。マーガレットに結った髪に結んでいるリボンが大きく上下に揺れる。
最初はスキップをするように軽やかな走り出しだったが、助走が終わると歩幅を広げ、ぐんとスピードを上げた。
江戸の世のなごりを残しつつも西洋建築が増えた帝都の街並みが、どんどん日向子の背後に流れていく。
女学校という場は日向子にとって窮屈でしかないが、そこに行くための服装は気に入っていた。行燈袴は着物の裾の乱れを気にしなくてもいいし、何より靴というものが草履に比べて格段に走りやすい。
日向子は、体を動かすことが大好きなのだ。学校の授業でも体操の時間が待ち遠しく、一番不得意なのは裁縫だった。うつむいて針を動かすなんて、性に合わない。
十分も走ったところで、香月家の広大な敷地を囲む海鼠塀が見えてくると、ぴたりと走るのをやめる。武家華族である香月家は、旧幕時代の藩邸をそのまま邸宅にあてていた。
昨今の西洋化に押されて洋館を建てる華族も増えてきたが、香月家はまだまだ威風堂々とした武家屋敷に住んでいる。
現在、外国に公使として赴任している両親が帰国した暁には、洋館を建てる計画があると兄から聞いていた。
日向子は屋敷の正面にある総門ではなく、使用人の通用門を静々と大人しい歩みで通り抜けた。走っている姿を家のものに見つかるわけにはいかないのだ。
使用人の長屋が建つあたりを通り過ぎ、しばらく歩くと黒々とした瓦屋根がそびえる御殿が見え、唐破風の玄関にたどりついた。
すると中から学生服を着た見慣れぬ少年が出てきた。背丈は女性にしては背の高い日向子と変わらぬくらい。詰襟から伸びる首は長く、その上にある顔は色白。高い鼻梁に切れ長の美しい目をした、まだ大人になり切らぬ中性的な雰囲気を持つ美少年だった。
目を見張るほどの美貌にしばし見惚れていると、向こうも日向子の存在に気がついた。日向子は軽く会釈をする。
令嬢に挨拶をされれば、普通は会釈を返すのが礼儀というもの。しかしその少年は微動だにせず、日向子を薄い唇をかみしめ睨みつけていた。無粋な視線にしばしあっけにとられていると、少年はつかつかと日向子に向かって歩み寄ってきた。
その勢いに思わず背をそらせると、逃げるのを許さないとばかりに左肩を思い切りつかまれた。肩の肉に少年の指が食い込むほど強い力だ。
「痛い!」と日向子が訴えても、やめるどころかいきなり抱きついてきた。
ふわりと魔除けの
子供の頃、正体不明の男の子に自ら抱きついたことはあったが、あれはもう日向子の中で美しい思い出になっていた。
しかし今は恥じらいを知る年齢になり、男性に抱きしめられるという行為は破廉恥きわまりない。
日向子は恥ずかしさと怒りで一気に体中がカッと燃えるように熱くなると、少年を突き飛ばし頬を思い切りぶっていた。
「何すんのよ。無礼者! あんたいったい誰なのさ?」
日向子は怒りで我を忘れ、下町言葉でまくし立てた。にらみつけ威嚇しても、少年はひるむ素振りもせず、なおも日向子を切れ長の目を細めみつめる。しかし、透き通るほど白かった少年の頬は赤くはれていた。
そして、「ありえない……」とつぶやきを石畳に落とすと、謝りもせずスタスタと長屋の方角へ歩いて行ってしまった。
日向子は少年の後ろ姿を見ていると体中から力が抜けていき、手にしていた風呂敷がぼとりと落ちる。しばし呆然と、その場から動くことができない。
「姫さま、お帰りなさいませ」
お付き女中の
「あのね……」
日向子が初に声をかけようとしたその時、年かさの女中が奥から出てくる。
「まあまあ、お戻りですか。若殿さまがお待ちかねでございます」
若殿さまとは、兄のことだ。兄の長男特有の緊張感のかける顔が頭に浮かぶと、すっかり忘れていた言いつけを思い出した。
「そうだわ。お兄さまにお話があると言われていたのよ」
「そうですよ。さあ、お着替えされてから書院へお越しください」
日向子と初は、女中に急かされ屋敷の奥にある自室へ急ぐ。奥というのは、武家屋敷の中で当主の奥方や娘、幼い子供たちが生活する場のことである。
在りし日の江戸城にあった、大奥の規模を小さくしたものだ。この家に、父と母が生活をしていた時は、奥と表(当主の生活の場)は厳密に区切られて、奥は夜になると杉の戸で仕切られていたが、今は厳めしい杉の戸は開きっぱなしである。
新しい世になれた兄や、公家から嫁入りした兄嫁が堅苦しさを嫌がりこの家の規律もだいぶ緩くなっている。
初を従え日向子が奥に足を踏み入れると、兄の子供たちの元気な声が聞こえてきた。日向子にとって姪と甥は、まだ五歳と三歳というやんちゃ盛り。二番目の兄はイギリスに留学中で、不在であった。
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