猫かぶり令嬢の許嫁は、嘘つき書生~明治怪奇事件簿

澄田こころ(伊勢村朱音)

序章

闇夜に

 日向子ひなこは半分かけた月を背にして、広大な庭園の中を泣きながら走っていた。

 夜の深い闇が怖くて泣いているのではない。生まれ育った家が恋しくて泣いている。早く育ての父と母と兄弟たちが待つあの家に帰りたい。


 華族のお屋敷に突然連れてこられた日向子にとって、いきなりお姫さまだと言われても飲み込めるはずもなかった。

 十年前、中国地方を治めていたかつて大名だった香月伯爵家に、日向子は産まれた。しかし生後間もなく、広尾にある牧場を営む松島家に里子として預けられたのだ。


 華族の中には、庶民の家へ里子に出して丈夫に育てようという教育方針のある家もあるが、香月家で里子に出されたのは、日向子ただひとりだけだった。

 日向子は華族の姫君であると知らず、松島家の四人の子供たちといっしょにのびのびと育っていた。西洋料理に使う牛乳やバターの需要が伸びていたので、人を雇うほど牧場経営はうまくいっていて、金銭的な余裕もあった。


 広い牧場を兄弟たちと走り回り、じゃれあい笑い合う。その姿を優しくも厳しい両親が見守るという、およそ子供が健やかに育つ理想的な家庭だ。

 それなのに日向子は、ある日兄弟たちから引き離され香月家に戻されたのだ。

 初めて会う本当の母は見たこともないようなきれいな着物を着た美しい人で、日向子を見るとポロポロと涙をこぼし、


「お義父さまに言われてあなたを里子に出しましたけれど、わたくしは嫌だったのですよ。ようやく、我が家に帰ってこられましたわね。下々の暮らしはつらく貧しかったでしょう。かわいそうに」


 と、一方的に憐れまれた。

 日向子は今までの生活を貧しいともつらいとも思ったことがなく、母と名乗るきれいな人の言葉が理解できない。

 父は髭を蓄えた難しい顔をした人で、


「産まれたばかりのおまえを見て父上が、呪いによって長生きできないなどと申したけれど、こんなに元気に育って。父上の世迷いごとだったのだ」


 と、これまたわけのわからないことを言われた。


 引き取られた当時、血のつながった兄ふたりは別宅から学校に通っており週末に帰ってくるという生活。広大な御殿の中で日向子は両親以外に、大勢の使用人に囲まれて暮らすこととなった。


 庶民として普通の学校へ通い下町言葉を使っていた日向子に、さっそくお嬢さま教育が施された。お須江という香月家が大名であった時代より働いていた老女(役職名)から、姫君としての所作や礼儀を叩きこまれることとなる。


 言葉遣い、歩き方、食事の作法。今まで走り回り大口をあけて笑っていた日向子の自由なふるまいは、徹底的に否定され矯正された。日向子の孤独は日に日に深く重くなっていく。


 本当の父や母は上流階級の習わしに従い、子育てはお須江にまかせっぱなし。顔を合せる時は、食事の時ぐらい。その食事にしても、親しく会話もできない。ときおり、母が声をかけてくれたが『早く、お須江の言うことを聞いて、ここの暮らしに慣れなさい』と言うばかり。

 しかしもともと負けん気の強い日向子は、お須江に反発してばかり。日向子のさみしさと不満はたまる一方だった。


 床についた日向子はとうとう今宵この家を抜け出し、松島家に逃げ帰ることを決意したのだ。

 迷路のように入り組んだ御殿を抜け出し、庭園に出たところまではよかった。しかし船を浮かべて遊ぶような広い池の周りはうっそうと庭木が生い茂り、同じような灯篭がならんでいるので、どちらに進めば門があるのか皆目見当がつかない。


 日向子は走り疲れると自分の身長の倍もある石灯篭の影にへたり込み、声をあげて泣きじゃくった。

 もうこのままここで、誰からも見つけてもらえず死んでしまうのだ。季節は初夏だったが、夜ともなれば肌はひんやりと冷たくなり、より日向子の胸をみじめさが侵食してくる。自然と鳴き声も大きくなっていった。


 すると、どこからともなく男の子が現れ日向子の傍に寄ってきた。年のころは日向子と同じぐらい。月明かりに照らされた顔は、青白く闇にとけてしまいそうなはかなくもきれいな顔をした子供だった。


「どうしたの? なんで泣いているの」


 そう優しく声をかけてくれたものだから、日向子のこらえていたものが一気に解き放たれる。


「こんなところに、いたくないの! お家に帰りたい。お利口にしたら迎えに来てくれるって父さん言ったくせに。全然迎えに来てくれないし。ここのお父さまはつめたいし。もうやだ、こんなところ」


 涙で顔中ベタベタにしてわめいていると、その子は手のひらで涙をぬぐってくれた。


「僕とおんなじだ。僕も、父さんにここに連れて来られたんだ。君、名前は? 僕は正太郎」


 正太郎の手のひらの暖かさに、日向子はこの家に来て初めて人の温もりを感じた。すこし心が落ち着くと、赤ん坊のような泣き顔を見られ日向子は急に恥ずかしくなる。


「わたし、日向子。この家のお姫さまなんだって。でもね、こないだまで牧場で育った普通の子だったんだよ。変でしょ」


 恥ずかしさをごまかすように、おどけて自分の身の上を話した。


「変じゃないよ。僕も変なんだ。内緒だけど、みんなには見えないものが見えるんだよ」


 正太郎は、声を潜めて不思議なことを言い出した。


「見えないものって、何? おばけとか、そういう怖いの?」


 日向子は怖がるどころか、好奇心を隠さず月明かりの下で顔を輝かせる。


「うん、そういうもの。日向子は気味悪くないの?」


「えっ、なんで。人に見えないものが見えるなんて、すごいよ。わたしも、見てみたい」


 松島の父は落語が好きで、よくお酒を飲むと噺家の真似をして四谷怪談を聞かせてくれた。日向子はその怪談が大好きだったのだ。

 女の子らしくない受け答えに、正太郎はあきれるどころかうれしそうな声を出す。


「初めてそんなこと言われた。変なものが見えるって言うと、みんなたいてい嫌な顔するから。じゃあ日向子にも見せてあげる」


 正太郎はそう言うと日向子の頬にもう一度ふれ、おでことおでこをくっつけた。日向子の目に正太郎の星空のようにきらめく瞳がせまる。


「日向子にも見えるよ。僕のこと信じて。いい? ほらっ、あそこ」


 正太郎はおでこを放し、池の上へ日向子の視線をいざなう。すると、さきほどまで何もなかったまっ黒な空間に、青く光るものが複数漂っていた。蛍よりも大きくはっきりとした光の群れに日向子は、恐れよりも心が吸い寄せられそうな美しさに圧倒される。


「すごい、きれいだね。あれって、お盆に帰ってくる死んだ人の魂?」


 お盆にはまだ早い時期だが、松島の母がよく言っていた言葉を思い出したのだ。日向子はその光に触れたいと思い、手を伸ばす。


「ダメだよ。あれに触ったら連れて行かれるから。でも、母さんだったら連れて行かれてもいいなあ」


 池の上で浮遊する青い光を、正太郎は目を細めて見ている。


「正太郎のお母さんは、死んじゃったの?」


「うん、病気で……」


 日向子は急に不安を覚えた。美しくもはかない青い光に導かれ、正太郎があの世に行ってしまいそうに思えたのだ。

 せっかくできた友達を失いたくない。日向子は正太郎をこの世から離れて行かないように、強く抱きしめた。


「わたしが正太郎のお母さんに、なってあげる。だからずっと傍にいて」


 いきなり日向子に抱きすくめられ、正太郎の体は緊張していが徐々に力が抜けていく。


「ありがとう。日向子といっしょにいられたら、さみしくないね」


「やった! 約束ね。じゃあ約束の印にこれあげる」


 日向子は袂に手を入れ、正太郎の目の前で握っていた手を開く。日向子の小さな手のひらの上に、蒔絵でまりが描かれた櫛ががばっと現れた。黒く艶のある櫛の上で、金の蒔絵と埋め込まれた螺鈿が、月の光を受け輝いていた。


「こんな高そうなもの、もらえないよ」


 正太郎が首を振り断ると、日向子はグイグイと櫛を押し付ける。


「これね、わたしのお印なんだって。大事にしなさいって松島の母さんに言われたから持って来たけど。いいの。正太郎の方が、大事にしてくれそうだから」


 もらわないと日向子の気持ちがおさまらないと思ったのか、正太郎ははにかみながら手のひらの上の鞠の櫛をそっと手に取る。

 正太郎の冷えた指先が日向子の手のひらにちょっとだけふれ、くすぐったくて照れくさくて、二人は笑い合う。夜に咲く花のような正太郎の笑顔に、日向子はこの家に来て初めてほっと息をつくことができた。


 そうして翌日も同じ場所で会う約束をしたのだが、日向子が正太郎と会うことは二度となかった。


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