幸せになるための道具

青いひつじ

第1話

私は、この崖から落ちたらしい。


目覚めると、背中は濡れており、蔦が生い茂る岩の壁に挟まれていた。

隙間の幅は2メートルほどで、高さは、かなり高い。どこからか水が流れてきているのか、じゃりで覆われた地面は微かに湿っている。


どうやら、山の隙間に落ちたらしい。

起き上がると、ひどい頭痛がして、頭を抑えると、手のひらが赤黒く滲んだ。



「おーい、だれかーー、いないかーーー」


私の声は青い空を貫いて、そのまま消えていった。


「おーーーーーい」


やはり、反応はないので、登ってみることにした。しかし蔦はもろく、掴んで登ろうとするとブチブチとちぎれ、私はまた、じゃりの地面へ落ちた。


「こんなところで死んでたまるか」


しばらく叫んでいると、ジャリっと、何かが石を踏む音が聞こえた。それはなかなか正体を現さず、私は近くに落ちていた岩を持ち上げる準備をし、身構えた。


出てきたのは、人間の男だった。


「はぁぁーー、こんなところで誰かに会えるなんて」


男は私を見るなり、膝から崩れ涙を流した。両手には、私と同じく岩を抱えており、その膝はひどく震えていた。相当不安だったとみえる。


「あなたもここに落ちたのですか」


「あ、あぁそうだ。気づいたらここに倒れていた」


話を聞くと、男はこの山から少し離れたところに住んでいるという。


「私は狩人です。今まで、何百という動物たちを殺して、食べて暮らしてきました。きっと、バチが当たったんです。

でも、まさか、こんな時に人と出会えるなんて思わなかった。私の名前は、K介といいます。あなたの名前は?どうしてこの山へ?」


「私は、、、」


私は、男の問いかけにハッとした。ここから脱出することに必死で、気づかなかった。私には、ここまでの記憶がない。


「どうかしましたか」


「私は、、、なぜだろう。思い出せない」


「そういえば、山に来るには不思議な格好をしてますね」


そう言われ、自分の体を見ると、スーツを着ていた。落ちた時に頭を強く打ったせいだろうか。なぜ山に来たのか、なぜスーツを着ているのか、名前すら思い出せなかった。


しかし、考えている時間はなかった。今は、私の記憶よりも、ここから早く脱出することが何よりも重要である。

私たちは、壁をたどりながら歩いた。どこかに、階段らしきものがあるかもしれないからだ。しかし、階段どころか、登れそうな所すら見つからなかった。

残念だったが、夜になり、流石に疲れた私たちは一旦眠ることにした。静かな夜に聞こえる川の音は、私の心を少しだけ穏やかにした。


次の日の朝。誰かの囁く声が聞こえた。それは、小鳥たちのさえずりに負けそうなほど、か細い声だった。


「君たち、君たち」


寝ぼけ眼をこすり、ぼやけて見えたのは、小人だった。

そいつは、小石に腰掛け、足をプラプラとさせていた。これは、幻覚だろうか。

天国からの使いだろうか。どちらにせよ、私の頭は、いよいよおかしくなってしまったようだ。



「私は、この山に住む小人だよ」


小人は、ひひひと上機嫌であった。


「おはようございますー。あれ?なんですかこの小人」


「お前も、見えるのか」


「見えますね。おじさんですね。私、小人ってもっと可愛いものを想像してました」


K介は両目を擦った。


「失礼だなぁー。君たち、どうやらあの崖から落ちたみたいだね。そんな不憫な君たちに、幸せになるための道具を授けよう」


「幸せになるための道具だと?」


「えぇ、そうです。私はなんでも出すことができる。今あなた方は食べるものに困っているように見える。それなら、包丁や釣り竿のような道具を出してあげてもいいですよ」


小人は、鼻からピョンと飛び出した長い髭を指で触りながら、得意げな顔をした。


「そんなもので、どうして幸せになれるというのだ!どうせ嘘っぱちだろ。私が望むのは金だ!金一択だ!出してみろ!なぁ、お前も金が欲しいだろ?!」


「しかし、申し訳ございません。私は、同じものを2つ出すことはできませんので、そうなると、片方の方には別の物をお出しすることになります。そちらの方は、それでもよろしいのですか?」


小人は、K介に問いかけた。


「あぁ、私は包丁の方がありがたいです」


K介はそう答えた。


「包丁の方がいいだと、、、お前も頭をぶつけたのか」


「いいえ」


まぁしかし、こんなにすんなり商談成立するならありがたい。


「あなたはお金で、あなたは包丁ですね。それでは、ここを真っ直ぐ進むと右側に細い抜け道が見えます。そちらに曲がると、この山から出られますよ。道具は、あなた方が山を出てから届くようになっています。どうか、お幸せに」


小人はそう言うと、ぴょんぴょん飛び跳ね、消えてしまった。


私たちは小人に言われた通り、抜け道を進んだ。すると、暗く狭い道の先端に、光が見えた。出口を塞ぐ木々をかき分けると、二股の道路が見えた。



「道路だ!道路だぞ!!」


「信じられない。出られたんですね。本当に良かった、、、」


「おい!泣いている暇はないぞ!道具を手に入れないと!」


「あぁ、そうですね。きっと家族も心配していますので、私は村へ帰ります。本当にありがとうございました」


「あぁ、元気でな」


私は右に進み、K介は左へと進んだ。

しかし、どこへ行こうか。ポケットにはシワシワになったお札が1枚入っていた。

私は一旦バス停で、バスが来るのを待つことにした。帰る場所はないが、なぜか清々しい気持ちだった。

ベンチに勢いよく腰掛けたその時だった。かかとに何か、固いものが当たり、下を覗くと、木箱が置いてあった。蓋を開けると、そこには、いくつもの鋳塊が入っていた。


「これは、まさか!!!」


私は口を塞ぎ、急いで木箱の蓋を閉じ、辺りを見渡した。誰にも見られていないようだ。

大事に木箱を抱えたままバスに乗り、手持ち金で行ける1番遠い街へ向かった。到着するとすぐに鋳塊を換金した。願いの通り、大金を手にし、私は大金持ちになった。




私の生活は一変した。

欲しいものは、だいたい手に入った。高い車を何台も持ち、腕には、宝石が散りばめられた、時間の読み取れない腕時計が輝いた。

毎日違うスーツを着て、分厚い肉を食べた。しかし、そんな私にも、ひとつだけ手に入らないものがあった。



1ヶ月前。信号を待つ車の窓から見えた、花屋にいた、黒く長い髪をゆらす女性に、私は一目惚れをした。私は、何度か花屋に通い、5回目の時に連絡先を渡した。

すると彼女は、付き合っている人がいるからと、紙を受け取らなかった。



私は、金を使い、探偵を雇った。

彼女が付き合っているのは、町工場に勤める青年だった。探偵は、交際期間は3年に及び、結婚も近いのかもしれないと報告してきた。

私は、金を使い、殺し屋を雇った。殺し屋はすぐに実行した。彼女は悲しみに暮れ、漬け込むにはとてもいい状態だった。




2ヶ月が経ったある日。車を降り、花屋に向かおうとすると、2人の男が行く道を阻んだ。


「K道さんですね。あなたに逮捕状が出ています。署までご同行を願います」


依頼した殺し屋はポンコツだった。その姿はしっかりとカメラに映り、捕まると、あっさりと私のことを話したという。



数年後。あれは、何年前だったか。

風呂にも入れず、食事もなかったが、遭難しかけたあの時の方が、今よりも幾分も気持ちが良かった気がする。

今、私は、風の吹かない、薄暗い、四角い部屋で暮らしている。朝か夜かも、私が今、生きているのか、死んでいるのかも分からない。

せめて、聞こえてくるのが毎晩発狂する隣人の声ではなく、川のせせらぎであれば。



「191番、191番」



それは、聞き覚えのある声だった。寝ぼけ眼をこすり、ぼやけて見えたのは、あの時の小人だった。


「あなたは今、191番という名前なんですね」


「お前、私にとんでもないものをくれたな」


「私は、あなたに再スタートするチャンスをあげたんですよ。記憶をなくす前、あなたは、会社のお金を横領したんです。そして、追いかけられている時に、崖に落ちた」


「過去のことなど知らん。手にすれば、幸せになれるんじゃなかったのか」


「いいえ。私は、幸せになるための"道具"だと言いました。」


「あいつもどうせ、同じようなこと繰り返してるんだろう。また動物をいくつも殺し、恨まれているに違いない」


「あの方は、今、別の国で料理人として活躍されていますよ。今度は、自らの欲を満たすための殺す道具ではなく、人を幸せにする道具にしたいと」



私は立ち尽くした。収容所には、泣いているのか、笑っているのか分からない声が響いた。



「あくまで、道具なのです。それを手にしたからといって、幸せになれるわけではないのです」


そう呟くと、小人はどこかに消えてしまった。








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