空隙

「ああ、もう限界だ」

 それが毎日の口癖だった。大学時代は文学部で、嫌な思い出もあったが、それなりに楽しく過ごしてきた。これからもそんな日々が続くのだろうと希望を抱いて飛び込んだ社会は、凍てつく氷の大地の上に立っているかのように、酷しかった。

 新卒一年目では毎日怒鳴られながら覚えられもしない事項をメモを取る間もなくつらつらと口頭で伝えられては、聞き逃したことを叱られた。一年目は先輩より先に出勤して、先輩より後に退勤するのだ。と言われて数年が経つが、未だに定時という概念はない。

 朝の4時に無理矢理目を覚まし、胃を満たすためだけに朝食を書き込んで家を飛び出す。会社に着き次第仕事を始めるが、タイムカードは8時に出勤してくる部長を含む全員が揃ってからしか押せないという。それからは、仕事、仕事、仕事。昼はメニュー不変の社食を食べ、仕事、仕事、仕事。夜は食べるタイミングを無くしたまま仕事を続け、早く帰れたとしてもせいぜい22時だ。遅い時は翌日だ。会社の安い椅子の上で仮眠をとって、そのまま翌日仕事をする日もザラにある。残業代も、もちろん期待できない額しか出ない。

 転職すれば良い。分かっている。だが、転職して自分の時間が増えたとして、どうなるのだ。それに、一人で過ごすことは好きじゃない。両親も地方田舎へ越してしまった。知らない土地で、スキルも何もない自分がそこで働くなんて絶望的だ。

 今日は珍しく早く帰れた。夕食は帰りに買ったコンビニ弁当だ。温める時間も惜しくて、そのまま食べた。

 久々に、風呂に入ろう。三日も会社に居ずっぱりだったのだ。体も痒くてたまらない。自分の頭皮の匂いもまた不快だった。

 ざああ、と頭から熱湯を浴びるのは気持ちいい。嫌なことを何もかも流し切ってくれと願いながら、洗体を終えて洗面所に立つと、くらりとめまいがする。しまった、長湯し過ぎたか。

 ほぼ帰らないおかげで、新築の美しさを保ったままの洗面台にかろうじて、しがみつく。項垂れた頭を上げると、目の下を真っ黒にして、頬の削げた不健康そうな男が映っている。なんだか自分のようには見えなくて、不思議に思えてくる。

 三面鏡を開いて、自分の両側も見てみる。ヒゲが不揃いに生えていて、清潔感がない。長らく出番のなかった電動シェーバーでそれらを落として、もう一度見る。うん、マジになったはずだ。

 改めて、鏡を見た。目眩で若干ふらついて、頬からは髭剃りで傷つけたところからの出血がある。

 なんとなく、合わせ鏡の先、どこまで小さな出血が見えるのか気になった。視線をうろちょろさせながらも、奥に視線をやる。なんだか既視感がある。当然か、自分自身だ。

 めまいが収まらない。鏡の自分もゆらゆら揺れている。なんだっけ。ゆらゆら、ぐるぐる。鏡の奥の自分が、首を垂れて体を揺らしている。ああ、その通りになれば良いのだったか。




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【報告】


[氏名]

村岡秀忠


[生年月日]

1994年2月3日(満29歳)


[性別]

男性


[職業]

会社員


[経緯]

4月29日、隣人から腐敗臭の訴えがあり訪問。不在の様子であったため、隣人に話を伺うと「いつも早朝から出ていっては夜遅くに帰ってくるし、うるさいのよ。でも最近はめっきり静かで」

と証言あり。鍵が開いていたため警察と共に突入。自室で首吊り自殺と見られる様子を発見。警察も同様の見解。


[補足事項]

発見時、全裸体。風呂場のドアが開けっぱなしになっていることから入浴後に自殺を図った模様。


以上

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