1‐3 初恋の花咲く野外舞踏会
握手をしすぎて手が真っ赤になり、挨拶を返しすぎて声が枯れた。
お祝いのお茶会が催されている儀礼の間を離れたアークトゥルスを、シェルダンが追いかけてきた。
「どうかなさいましたか」
「……おめでとうございます、ありがとう、あなたに祝福を、あなたにも……を二百回くらいくり返すとこの気持ちがわかると思う」
「そうですか。アークトゥルス様」
「なに?」
義務に不満を述べてはならない、と叱られると思ったのに、シェルダンは眩しそうに目を細めて、軽く頭を垂れた。
「お誕生日おめでとうございます」
「あ、ありがとう」
二百回くらいくり返したやりとりなのに、なぜか気恥ずかしい。
「水を持ってきましょう」
シェルダンが儀礼の間に引き返したので、アークトゥルスはふらふらと回廊に出た。建物に囲まれた中庭に一足はやく夕闇が訪れている。
涼しい風が心地よい。
お祭りはいまどうなっているのだろうか……結局、抜けだす隙は得られずじまいだ。
(こういう格好だしね)
アークトゥルスが身にまとっているのは王子の礼装だった。
裾の長いコートに袖なしのベストと半ズボン、絹の長靴下。
襟元には白麻のスカーフを巻き、靴のバックルには宝石が輝いている。
これでお忍びの外出をしようというのは、さすがに無謀だ。
(どこかに着替えがあればいいんだけど、スピカの手は借りられないしね)
足を伸ばして手すりにもたれかかるアークトゥルスの前を、小間使いに抱きかかえられるようにした貴族の令嬢がそそくさと通りかかる。
「ごきげんよう、王子殿下」
「ごきげんよう。どうしたの?」
令嬢は口をつぐんでうなだれた。小間使いが唇に指をあてて、
「ドレスの裾を踏みつけて破っただなんて、言いっこなしですわ」
「ああ、なるほど。ドレスの裾を踏みつけて破いちゃったんだね。着替えはあるの?」
「ええ、もちろん。お部屋にいくつか用意してございます」
貴族たちの住まいは北翼の城館にあり、建物を通っていくことができた。
ペチコートで膨らませた裾はいかにもたっぷりしていて、いつ踏みつけてもおかしくない。
(女の子は大変だな。あんなドレスを着なきゃならないんだもの……)
ドレス?
天啓がひらめいた。
ほどなくして、銀の杯を手にしたシェルダンが回廊に出てきたが、いると思った場所に王子がいない。
「アークトゥルス殿下? ……どちらへ行かれたんだ」
柱の陰からシェルダンが遠ざかっていくのを見届けて、アークトゥルスは儀礼の間に駆け戻り、そのまま大回廊を通り抜けて南翼へ向かった。
目指すのは――王妃の寝室だ。
ドレスと、着替え。逆転の発想だ。
アークトゥルスは女の子だがいつも王子の格好をしているので、女装をすればかえってだれも気がつかないだろう。
オリオンはカシオペア王妃の居室を生前のまま残しており、アークトゥルスには自由な出入りを許していた。
南向きの窓はまだぼんやりと明るい。
王妃の衣装部屋は寝室の続きの間になっており、箱にしまわれたドレスのほかに、吊るしのものも何着かあった。
そのなかで、薄絹のワンピースがひときわ目を惹く。
(あ、これ)
母親が、夏の日の散策に着ていた姿が瞼に浮かんだ。
あまりにも懐かしすぎて、手触りを確かめるように生地を撫でたとき、足もとになにかが滑り落ちた……手紙のようだ。
拾いあげ、表書きに目をやったとたん口から心臓が飛びだしそうになった。
間違えようがない――カシオペア王妃の筆跡で『アストライアへ』の文字。
震える手で封を切り、流れるような文字の一つ一つを宝石の欠片のような心持ちで大切に読みあげた。
「『アストライア……この手紙をあなたが読むとき、わたしは空に召されているでしょう。大人になったあなたのためにドレスをつくってあげることはできませんでしたが、お母様の遺したものはすべてあなたのものです。どうかあなたを救うために役立ててください。化粧台の抽斗に秘密のものをしまっておきました。恐れずに、自分らしく生きてください。あなたを愛する母親より』……まさか」
(お母様は、僕がアストライアだって気づいていらしたの?)
全身から血の気が引いた。
病で床についていた三年あまり、母親は一言だってアークトゥルスの正体を疑うような言葉を洩らさなかったのに。
紙を握りしめてもう一度文面を読み返すと、手紙はあくまでアストライア宛てのものであり、行方不明の王女が見つかった場合を想定しているとも考えられた。
ひとまず息をつく。
(化粧台の抽斗……なにがあるのかな)
アークトゥルスは部屋を見回して化粧台を探し、抽斗を開けてみる。
手に触れたのは金色の毛の束で、帽子のように被ることができるとわかって息を呑んだ――かつらだ。
(やっぱりばれていたのか――――っ?)
本物のアストライアはアークトゥルスと同じ青い髪の色なのだから、金髪のかつらは変装の用途以外にないだろう。
いやしかし、都から送りだしたとき髪を短くされていた娘への配慮だったとも考えられる……かつらにできるほどの青い髪なんて、そうそう集まらないだろうし。
母親が息子の正体に気づいていたなら、当然、父親も……。
(いやいやいやいや。ばれていたら縁談なんて持ちかけるはずはないし、お父様は騙されていてくださるはず)
そうでなくては、自分の存在意義がなくなってしまう。
ともかく、カシオペアはアストライアの味方だったのだ。
自分らしく生きてほしいと願う母親の気持ちを無にしたら娘の名がすたる。
アークトゥルスは涙を呑みこみ、すっぽりとかつらを被った。
(うわー、重いし、暑苦しい……けど)
化粧台の鏡に映る影は、ちゃんと女の子のようだ。
王子の服を脱ぎすて、ワンピースに袖を通す。
ゆるく膨らんだ袖と襟もとにレースがあしらわれており、夏空に浮かぶ雲のようなドレスだ。素肌に触れる生地が母親の手のひらのように優しい。
コルセットをつけなくても、アークトゥルスのほっそりした腰は帯の内側にぴったりとおさまった。
襟繰りが少し開いているだけで、首筋が長く見えていつもよりも大人っぽく見える……ような気がする。
スカートが脛に絡みつく感触が新鮮だった。
大膳式の間を通り抜けて召使の使う階段を降りようとしたとき、いきなりシェルダンの声が耳に飛びこんできた。
『スピカ殿。アークトゥルス殿下を見ませんでしたか』
『アークトゥルス様? いいえ、見かけませんけれど……』
二人は王妃の階段の踊り場で話しているらしい。
アークトゥルスは金髪で顔を隠して狭い階段を駆けおりた。
(ふっふっふ。脱出成功かな)
前庭には厨房に出入りする召使や帰りの馬車を待つ貴族の姿がちらほら見かけられた。足元を彩るモザイク画の上をスカートが滑るように動く。
ちょうど、だれかを送り届けたあとの馬車が厩舎に向かおうとしていたので、アークトゥルスは小走りに近づき、
「ねえ。城下まで乗せていってほしいのだけど」
「は? いや、自分はこれから休憩で……」
アークトゥルスは馬車の紋章をちらりと見て、御者に笑いかけた。
「ミザル伯爵の許しは得ているよ……いるわ。乗せていってくれたら、お礼にこれをあげる」
アークトゥルスが靴のバックルから外しておいた紅玉を差しだすと、御者は席を飛び降りて踏み板を下ろした。
「どうぞ、お乗りくださいませ」
うまくいきすぎて怖いくらいだ。
「ついでに、あなたは小銭を持っていない? 少し換金してほしんだけどな」
「はいはい、ございますとも」
真珠の粒をいくつか手にこぼしてやると、御者は財布を丸ごと渡してくれた。
王宮から城下へと抜ける道は、つい半日前に通ったばかりだが、いつもと違う格好をしているせいか胸がどきどきする。
アークトゥルスとていつも無茶をしているわけではなく、完全なお忍びの外出などはじめての経験だ。
四人乗りの馬車のなかで足を伸ばし、溜息をつく。
(それもこれも、僕を結婚させようとするお父様のせいだ)
もしくはアークトゥルスを邪険にして王宮から遠ざけようとするデネボラのせい。 アークトゥルスをいつも守ってくれるシェルダンのせい、甘やかしてくれるスピカのせい……。
(……)
わかっているのだけれど。
世継ぎの王子であるからには、結婚して次代を設けるのが責任であり、アークトゥルスはそれができないことに対してやつ当たりをしているだけだ。
いくらがんばっても、完璧な王子にはなれないから、自分に価値がないような気がして。
スカートから覗く女物の靴の爪先をこつこつぶつけあって、考える。
(ほんのちょっとだけね。この格好で、王子だとだれか気づいてくれたらいいんだ。僕は女なんかじゃないって、だれかに言ってもらえたら)
シェルダンやスピカでは、アークトゥルスを庇うのがわかっているから頼めない。
見知らぬ他人に王子だと認めてもらうのがアークトゥルスの望みだった。
馬車が停まる。御者が外からノックして、
「お嬢様、オリオン広場に到着しましたが……」
「ああ、降ります」
扉から顔を出すと、喧噪が吹きつけてきた。
同じ目線に、大勢の人々。夕暮れ空よりも地上が明るい。
テントに灯りが点り、脂っこい匂いの煙と、甘い砂糖菓子の香りがまぜこぜになっていた。
ふらふらと歩みだすアークトゥルスに、御者が声をかけた。
「こちらで待っていたらいいんですか?」
「好きにしたらいいよ――」
すべての音がひとかたまりになって聞こえてくる。
足が竦みそうになったが、
「世継ぎの王太子殿下の誕生日を祝して!」
「カンバーランドと我らが王族がたの繁栄を祈って!」
聞こえてくるのは祝福だった。
乾杯のテーブルの向こうに小規模の楽団がいて、その周りに集まった人たちが好き勝手に愉快に踊っていた。
男性も女性も、老人も子供もいる。
(楽しそう)
思わず笑みがこぼれる。
「おかーさん、あれかってー」
小さな女の子が母親の手を引き、瓶詰めのジェリービーンズを指さしていた。
好きなものを買ったり、遊んだりしてもいいのだ。
アークトゥルスは御者からまきあげた財布を握りしめて出店を見てまわる。
輪投げ? くじびき? それとも焼き栗……。
(これならできそう)
アークトゥルスは足をとめた。
屋台のなかでも比較的広い場所をとり、四方を布で囲ったその場所では、おもに男女づれの男のほうがいいところを見せようと気張っていた――弓だ。
三つ並んだ的の一つが開いている。
「お嬢ちゃん、興味があるのかい?」
店を見張っているおじさんが、矢の入った筒を差しだした。
「一回五本、当たると景品があるよ」
「それじゃあ、やってみようかな」
弓は射る場所に置いてあったが、手に取るとやたら軽く、おもちゃのようだった。
弓を眺めているアークトゥルスに、おじさんが指導しようとする。
「やり方を教えてあげよう。弓は左手で持つ。矢は弦につがえて、まっすぐに引くように……」
「普通の弓と同じでしょ?」
「そうだなあ。でも、普通のお嬢ちゃんは弓の射かたなんて知らんだろう……」
普通じゃないもの、王子だもの。いまのところ気づいてくれる人はいないらしい。
アークトゥルスはほんの少しむっとしながら、立て続けに弓を射た。
どすどすどす、と三連射した矢は、すべて的の真ん中に突き刺さる。
うおっと周りがどよめいた。
(なに? なんだか変な射かたをしたのかな)
残り二本も震えながら射たところ、これも命中。店のおやじが鐘を鳴らした。
「大命中――! 高得点がでた人には、弓をただで五本追加だよ」
「ほえ? もっと射るの?」
「おい、あの女の子すげえぞ」
「あっ、また真ん中だ。もう刺さるところねえんじゃないか?」
「おおっ、先に当たった矢を弾きとばしたぞ、すげえ!」
「さあさあお兄ちゃんがた、女の子に負けちゃいられねえよ。簡単な遊戯だ、さあやってってくれ!」
店番のおじさんは、ちゃっかりアークトゥルスを呼びものにしていた。
射ても射ても終わらないうえに、人だかりがどんどん増えてくる。
やがて指が痛くなってきたので、「もういいよ」と訴えると、おじさんは「じゃあ景品だ」と袋に入った大量のチョコレートをくれた。
「鼻血が出そう」
「一日一つだけにしとくといいよ。さあさあ、どんどんやった――……」
商売に夢中なおじさんに軽くお辞儀をして、アークトゥルスは歩きだす。
(スピカへのお土産にいいかな……)
考えながら歩いていると、どんっと背中を突き飛ばされた。袋が手から落ち、チョコレートが地面にばらまかれる。
「あ……」
「気をつけろ!」
返ってきたのは罵声だった。
振り向くと、ぶつかった男はアークトゥルスを見もせずに仲間と肩を組んで去っていこうとする。腹が立った。
「ちょっと」
声をかけると、男が振り向く。ほろ酔い加減らしく、目元が赤かった。
「あん? なんだ、お嬢ちゃん……」
「ぶつかったのはそっちじゃないか。謝ってよ」
「なに言いがかりつけてんだ? おれがいつあんたにぶつかったってんだよ。アホらしい、行こうぜ」
「アホらしいとはなんだよ、待てったら、無礼だぞ!」
「うるせえ!」
つかみかかるアークトゥルスを押しのけようと、男が腕を伸ばした。
アークトゥルスは並みの女性よりはよっぽど体を鍛えていたし、剣も扱える……けれど、だれかに突き飛ばされるという経験は皆無だった。
あっけなく倒れ、尻餅をついた自分自身に驚く。
男も、しまった、という顔をしたものの、「飲みなおそうぜ!」と、そそくさと逃げ去ってしまった。
下手にきれいなドレスを着ているので、貴族とのもめごとは避けたい人々はアークトゥルスを遠巻きに見るだけだった。
(……)
視線を巡らすと、チョコレートの袋が目にとまる。
手を伸ばそうとしたとたん、荷物を運ぶロバの足が袋を踏みつけた。
蹄に引っかけられた袋がチョコレートをばらまきながら遠ざかっていく。
(……)
アークトゥルスは手を引っ込め、よろよろと立ちあがろうとした。
しかし、ワンピースの袖やスカートが土だらけなのに気づいて、泣きたくなる。
(お母様のドレスなのに)
それでも立ちあがらなければどこへも行けない。
両手を地面について涙を堪えていたところ、だれかの腕がアークトゥルスの肘をとった。
「大丈夫?」
ガラスを弾いたような澄んだ声。
振り仰ぐと、夜空の月が降りてきたようなプラチナブロンドが視界に映った。
ゆるく内巻きの髪に幅広のリボンを結んだ若い女性で、長い睫毛に縁どられた目は優しそうだ。
ハイウエストの木綿のドレスにショールを羽織っていた。
「だいじょぶ……」
と、言いかけたところで、腕の温かさが身に沁みる。
さみしい気持ちからは顔を背けられても、親切にそっぽを向くことはできなかった。堪えていたものが目から溢れだす。
(うう、みっともない。僕は王子なんだから、泣いちゃだめ!)
「どこか怪我をしたの? 手が泥だらけだわ、水場へ行きましょう」
涙を見られたくない。首を横に振って腕をほどこうとしたところ、いきなり両足が地面を離れた。
見知らぬ女性が――アークトゥルスを抱きあげている。
「!」
プラチナブロンドの美女はアークトゥルスに微笑みかけ、
「大丈夫よ、あなたは軽いから。あちらに噴水があるようね」
と、すたすたと人ごみのなかを歩きだした。
周りの人間も、力持ちの美女と泥だらけの小娘の取りあわせに目を丸くしている。
アークトゥルスは顔から火が出る思いだった。
(僕は……王子なのに! 女性に抱っこされてる、運ばれているよ!)
パニックを起こしているうちに泉についてしまった。
女性が幼い子供にするように手を洗ってくれようとしたので、アークトゥルスは身を固くして、
「一人で、できます」
「あら、ごめんなさい」
ようやく両足が地面につくと、ほっとした。
アークトゥルスは泉で手を洗う。
そのあいだ女性はアークトゥルスのドレスについた土を払ってくれていた。
「だいぶきれいになったわ――あら、手をどうかしたの?」
転んだはずみでついた右手の擦り傷に、血が滲んでいた。
「たいしたことないです」
「だめよ、小さな傷でもちゃんと手当てをしなければ――女の子なのだもの」
女性はふわりと笑って、有無を言わさずアークトゥルスの手をとった。
プラチナブロンドをまとめていたリボンをほどき、傷の水気を拭って包帯のように結ぶ。
しなやかな手はアークトゥルスよりも大きいようだったが、肌が滑らかで優美に動いた。
(これが大人の女性なのか……)
宮廷の貴婦人たちとは違う、深みのある美だ。
細面で鼻筋や目元や唇は鑿で刻んだようにくっきりしているのに、すべてが磨き抜かれていて犯しがたい気品を感じさせる。
髪は満月の色に似ていたが、姿形は三日月のようだった。
いっそ、月の姫君と呼んでしまいたい。
うっとりし通しのアークトゥルスと視線を合わせ、女性がくすりと笑った。
「よけいなおせっかいだったかしら。ごめんなさいね……私にも妹がいるものだから、小さな女の子が困っているとなにかせずにいられないの」
「おせっかいだなんて。あの」
こういうときに使うべき言葉は、決まっていた。
「……ありがとう。ございます」
「どういたしまして」
女性が体を離す。
「連れのかたはいらっしゃるの? 馬車のところまで送っていってあげましょうか」
「いいえ。そこまでは……あの、お名前をうかがってもよいでしょうか。リボンもお返ししなければなりませんし、いずれ、改めてお礼を……いたします」
相手がアークトゥルスより身分が高いということはないはずなのに、つい敬語を使ってしまう。
女性は手を振って笑ってみせた。
「いいのよ、リボンくらい。私もこんなに賑やかな場所で一人は戸惑ってしまって――だから、あなたとお話ができて楽しかったわ」
「それなら、あの」
黙っていたらここでお別れになりそうだ。
アークトゥルスは勇気を振り絞った。
「もう少しだけ一緒に……お祭りをまわりませんか。ぼ……わたしも、一人で来たんです。不慣れな場所で」
さみしくて。
いつも一緒のシェルダンも、スピカもいなくて……だれも、アークトゥルスをわかってくれなくて。
目に涙がにじむ。自分がこんなに泣き虫だなんて知らなかった。
「あら、あら」
女性はふわりと笑って、それから心配そうにアークトゥルスの顔を覗きこんだ。
「だけどあなたは私がだれなのか知らないでしょう? もしも人さらいだったらどうするの」
「人さらいなんですか?」
「もしもの話よ」
アークトゥルスは瞬きして女性を見つめる。
こちらを映す瞳は濃い紫水晶に似ていた。
不思議な瞳に魅入られそうになったが、気を取り直して笑い、
「あなたもわたしがだれなのか知らないもの。もしもわたしが宮廷の王子様だったりしたらどうする?」
「王子様なの? 王女様ではなくて?」
指摘されてどきっとしたが、
「王子様がこんなに可愛い女の子だったりしたら、世も末だわ」
女性が手を振って大笑いしたので、アークトゥルスはひそかに傷ついた。
けれどひとしきり笑った女性が目尻の涙を拭い、ほっそりした手をアークトゥルスに差しのべる。
「面白い子……それじゃあ、一緒に行きましょう。私の名前はカルディアよ。あなたは?」
「ア……」
アークトゥルス。
王子の名……だけど、だれも気づいてくれないし……王子だとばれたら世も末らしいし、このきれいな人の前では素直な自分でいたかった。
「……アストライア」
「なんてきれいな名前かしら。アストライア――あなたはかかとの高い靴に慣れていないのね。足を痛めないようにゆっくり行きましょう」
見知らぬ女性と腕を組んで、寄り添いながら歩くのはめったにない経験だった。
カルディアのほうが背は高いから、アークトゥルスがもたれる格好になってしまう。
近いところで音楽が聴こえた。広場の一角に楽団が集まっている。
奏でているのは流行歌らしく、周囲の人間が肩を組み、体を揺らして歌っていた。
(ああいうのっていいな。楽しそう)
アークトゥルスがくすっと笑うと、
「歌が好き?」
カルディアが訊ねる。
「もちろん」
「じゃあ、こんな歌を知っているかしら」
カルディアが目を細めて口ずさんだのは、外国語の歌だった。
まったく聴いたことのない旋律。
歌詞の意味はわかる――黄金色の髪の乙女、あなたの周りで光が踊る、あなたが光とともに踊るとき、私の心も躍りだす。
「グラスランドの詩でね――私の妹も金髪なの。あなたのように明るい色ではなく、蜂蜜色だけれど」
グラスランド……最近どこかで聞いた国名だったが、それよりも、
(金髪……だったんだっけ)
アークトゥルスは肩にかかる髪の色を確かめ、そういえば金髪のかつらをつけているのだったと思いだす。
結局は、この人をだましているわけだ……憂鬱な気持ちで立ちどまったところ、女性も足をとめ、
「困ったわね」
見える範囲一帯が踊りの輪だった。
大がかりな楽団が渾身のジグを披露し、人々は老いも若きも男も女も腕を組んでぐるぐる回っていた。見ているだけで目が回りそうだ。
けれど、いつまでも眺めていたいほど楽しそう――と思っていたら、
「……うわっ」
心の準備をする暇もなく、踊りの輪が二人をさらった。
八分の六拍子の軽快なステップに、言葉を差し挟む隙はない。
飛んで、跳ねて、飛んで、跳ねて。
(目が回る――!)
片腕はカルディアと組んで、もう片方の腕は他人と組んで。
なにも考えられないくらいの勢いでひたすら踊っていると、だれかが声をあげる。
「アークトゥルス殿下、ばんざい! カンバーランドに栄光あれ!」
アークトゥルスを祝う声だった。
この場にいるだれ一人王子がいることに気づかなくても、彼らはアークトゥルスを慕い、国を愛してくれている。
それはすばらしいことであり、アークトゥルスが守るべきものでもあった。
(帰らなきゃ)
唐突に、思う。
王宮へ。自分を必要としてくれている人たちのところへ。
腕を組み、ステップを踏みながらカルディアを見つめる。
三日月の横顔がかがり火に照らされていた。
ここで別れて、再び会うことはないのだろう。
けれどせめて、この曲が終わるまでは彼女を見つめていたい。
アークトゥルスの視線に気づいたカルディアが睫毛を揺らす。
近づいては離れる灯りが二人の瞳に光を宿した。
組んだ腕の下で、カルディアの指がアークトゥルスの指に絡む。
リボン越しに擦り傷の熱を意識した。そのとき――。
「……さまっ!」
耳元でなにかを強くわめかれる。
「えっ?」
問答無用で強く襟首を引っぱられ、アークトゥルスは踊りの輪を外れた。
思いがけない状況に振り向くと、お仕着せの上にフードつきのマントを着たスピカが息を切らしている。
「ああ、やっと見つけた。やっぱりここでしたのね!」
そばかすの浮いた頬が真っ赤だった。
アークトゥルスは呆気にとられて、
「どうしてここにいることがわかったの?」
「どうしてもなにも、王宮にいなければここしかないじゃありませんの。変わった娘を城下に送り届けたというミザル伯爵の御者から身なりを訊きだして、ずいぶん探しましたわ」
「……もうちょっといちゃだめ?」
「ぐずぐずしているとシェルダン様が追いかけていらっしゃいますわよ」
それは怖い。
「いまにも馬を引いてきそうなところをなだめて、あたしが来たのですもの。あのかたが来てしまったら、あっという間にあなたの正体もばれますわ。この場でドレスをひん剥かれて、裸で王宮に引きずっていかれてさらしものに」
「やめてええ」
想像するだに恐ろしい。アークトゥルスは両手で耳を塞いだ。
スピカが満足そうに頷き、
「ご理解していただけましたのね。それでは、帰りましょう!」
「あう」
スピカに腕をつかまれて、どんどん出口のほうへ引きずられていく。
右手に巻いたリボンの白さが目に映り、アークトゥルスははっとして踊りの輪を振り返った。
人の渦のなかから、プラチナブロンドの女性が振り返っていた。
ステップと音楽が彼女を呑みこみ、手を伸ばしても届かないところまで遠ざけてしまう。
あっというまにアークトゥルスはカルディアを見失った。
ぬくもりの残る手がじんと痺れる。スピカがアークトゥルスを振り返って、
「まあ、どうなさったのですか、その右手」
驚いたように問いかけた。
星の王女と月の姫 王女だけど王子なのでなぞかけで恋の相手を捕まえます! 花潜もぐら @hanamuguri-mogura
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