後編

 さて。

「トリあえず」には、沢山の仲間がいる。


「トリあつかう」「トリかこむ」「トリかたづける」「トリきめる」「トリしきる」「トリしらべる」「トリつくろう」「トリまぎれる」「トリみだす」などなど……。


 上記に挙げた「トリ~」は、きっと皆さんもどれか一つは使ったことがあるはずであるが、「トリ」というのはそもそも何なのだろうか。


 これらの「トリ」は、漢字で「取り」と書くことができる。


 この場合の「取り」は接頭語のことで、「作業・手続きなどをする意味をそえる(『三省堂国語辞典 第三版』より引用)」として使われたり、語調を整えたりする役割を担う。そして、「取り」の後ろには動詞が付くのだ。


「取り」を動詞の頭につける用法は平安時代からあり、当時作られた作品にも「とりあず」という言葉がある。

 では、意味は同じように使われていたのだろうか。


 現代の「とりあえず」は「本格的な処置は後のこととして当面その場でできる範囲で緊急の事態に対処する様子(『新明解国語辞典 第八版』より引用)」という、「今をしのぐ」というような意味を持っている。


 対して平安時代に使われていた「とりあへず」には、「すぐに。ただちに。急に。(『三省堂全訳読解古語辞典 第五版』より引用)」という、動きの早さの意味のみだけだ。


 時が経つと、意味が移ろいゆくというのは、言葉のさがである。

 しかし今もなお同じような形で、その意味も少し残されるには、多くの人が日々の中でこの言葉を使って来なければならない。


 つまり、時代を経て、昔の人たちの手垢てあかのついた言葉が今も残っているというのは長い長い旅をし、人々の間で煙のようにきえてしまうようなバトンを繋いできたからこそということだ。


 ある意味、「星の光」にも似ているかもしれない。


 私たちが今まさに地球上で見ている太陽の光は、太陽から八分前に放たれたものだし、星によっては何万光年前の光を見ているものもある。大昔の光なので、すでにその星はなくなっていることも時にはある。

 言葉も記録が残っていないものもあるから、語源が分からないものも多い。


 そんなことを思うと、紙や書物、壺などの物質的な形が残されていなくても、自分たちが使っている言葉というのは、現代人のコミュニケーションの主たる道具でありながら、歴史を積み重ねている不思議なツールであることを感じる。


 そして私たちがまた言葉をつむげば、明日へ繋がっていくのだろう。


 ……と、この話を広げるとどこに着地するか分からないので、とりあえず、この辺りでとどめておこうと思う。


(完)

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☆KAC20246☆ 星の光と言葉 彩霞 @Pleiades_Yuri

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