粘れ、御郷!

小石原淳

とにかく「粘れ、御郷!」

 笑い話と言えるか分かんないけれども、あれは小学校、多分、六年生の頃だ。

 秋に町内運動会があってさ。毎年、家族揃って出ていたせいで、そろそろ飽き始めていた。子供が出られる種目なんて限られていたからね。小さな町だったから顔ぶれも毎回、ほぼ変わらないし、種目が同じなら順位もだいたい固定されてくる。

 でもそのときは、当日になって急に一人増えたんだ、女の子が。引っ越してきたばかりで身辺が慌ただしく、落ち着くまでどれくらい時間が掛かるか分からなかったらしくて、町の行事にも出られるかどうかぎりぎりまで決められなかったみたいなんだな。ま、町の運動会なんて緩いから、当日飛び入りでも問題ないんだろうけどさ。

 それで、女の子は同学年ではなく、年下だったな。一つか二つ、ううん、覚えていない。不通なら覚えてるものなんだろうけれど、あのときは強く印象に凝ることが他にあったからしょうがない。

 印象に残ったことが何かって? 簡単だ、彼女は外国人だったんだ。金髪碧眼白い肌っていうやつ。西洋の白人を生で見たのは、そのときが初めてだったよ。で、当然と言っていいのか分からないけれども、言葉がほぼ通じない。その頃は小学校で英語なんて習わなかったし、僕自身も塾や家庭教師で英語を習うようなタマじゃなかった。相手の女の子にしても、親の都合で越してきただけで、日本が殊更好きって訳ではなく、恐らくは言葉も嫌々ながら覚え始めた段階だったと思う。それでも自己紹介くらいはした。親だったか違う大人だったか覚えてないけど、教えられたとおりに、マイネイムイズ高明たかあき御郷みごうって言ったんだ。でも発音がよくなかったみたいで、すぐには伝わらなかった。名前のことだと分かっても、うまく発音できない風だったな。

 女の子はエリス・コロンといった。何故かよく覚えている。エビコロッケを連想したのかもしれない。とにかく僕らは組んで、障害物競走に出場することになった。一人でもできる障害物競走を二人組でやるからには、意味がある。一部、二人で協力しないとクリアできない障害が用意されてるんだよ。

 二人三脚とかおでこ同士で一つのボールを挟んで運ぶといったものを経て、ゴール手前、最後にあるのが壁登り。木製の板が二枚……あれは高さ何メートルあったのかなあ? 二メートルもなかったんだろうけど、小学生の自分には高い壁に見えた。一枚目を乗り越えて、上に渡された橋を一メートルほど渡って、反対側の二枚目を飛び降りるなり何なりして、着地。残りちょっと走ったらゴールインてな具合。

 で、僕とエリスは言葉が通じない割にそれまで順調に来てたんだけれども、最後の壁には大苦戦。普通なら僕がエリスを押し上げるか肩車するかして先に行かせてから、僕が壁にジャンプしてしがみつき、引っ張ってもらう、みたいな段取りが常道だと思うんだけど、エリスは小さくて腕力なさそうだった。だからって、彼女を土台にして僕が先に行くなんてのも無理。そもそも、作戦を正確に伝えるのすら難しい。しょうがないんで、僕が何度か必死にジャンプして壁の上端に飛びつき、どうにか這い上がり、それから今度は橋のウエイに腹ばいになって、エリスに手を伸ばすという方法を採った。そう、今説明したところまではうまく行ったんだ。いや、エリスが僕の右腕にしがみつくのにも一発で成功した。

 ところがその次、エリスを引っ張り上げようとして、気付いた。腹ばいの姿勢で腕に力を込めるのがこんなにしんどいなんて、それまで経験なかったというのもあって、なかなかうまく行かない。もう片方の腕や足、それに腰を使ってこそ力を込めやすいんだなと今なら分かる。当時は焦りもあって、がむしゃらに力を入れるばかりだった。手間取っていると、エリスが悲鳴を上げだした。下を見てしまったらしい。ヘルプ!とか何とか言ってた気がする。怪我をするような高さだったかどうかは分からないけど、元から手を離すつもりはなかった。だってレースに勝ちたいから。何度かトライする、けどうまく行かない。

 どうすりゃいいんだ、左腕に持ちかえるか、両腕でやってみるか、でもそのことをエリスに伝える方法が……なんて考えが、頭の中をぐるぐるしてた。

 そのとき。不意に大きな声が、僕の耳をつんざいた。

『粘れ、御郷!』

 確かにそう聞こえた。観客席からの応援の声じゃなかった。

 エリスが言ってるんだ。

 そのあとも続けざまに『粘れ、御郷!』『粘れ、御郷!』って繰り返し叫ぶ。不思議なもので、こっちもパワーが漲ってきた、気がした。そして一呼吸してから試してみると、本当に力が出たんだ。エリスを一気に引き上げる。勢い余って橋から落ちないよう、抱き留めた。腕がちょっとしびれていたけれども、これくらい平気さ。そのまま彼女を先にやり、僕もすぐさま続いた。

 実はこの時点で一位だったらしいんだけれど、少なくとも僕は分かっていなかった。分かっていたら、前で立ち止まったエリスを急かしていたかもしれない。彼女は高いところが苦手なんだろう、飛び降りるのにも躊躇していた。察した僕は彼女を後ろから脇に抱えると、「せーの!」のかけ声とともに一気に飛び降りた。

 そしてゴール。僅差の二位だった。

 「せーの!」の意味がエリスに伝わっていない可能性に思い至ったのは、三分ぐらい経ってからだった。エリスはいきなり一緒に飛び降りさせられたのがよほど怖かったのか、しばらく震えていた。

 幸い、僕を怖がるようなことはなく、二位という結果にもそれなりに満足しているようだと、その強張り気味の笑顔からも分かった。

 レース後少ししてから、エリスのお父さんが現れて、やや固い日本語で僕らのレース結果を祝福してくれたのには、こっちも嬉しくなったな。それでお別れするところだったんだけど、ふっと気になったことを思い出して、慌ててエリスのお父さんに尋ねてみた。

「エリスさんはまだまだ日本語を勉強中だと思いますけど、『粘る』という単語をもう覚えているのにはびっくりしました」

 要するに、数ある日本語の中で、小学生の女の子に教えるなら、『粘る』は優先順位がもっと低いんじゃないかって、そのときの僕は不思議に感じた訳だ。

 するとエリスのお父さんは首を傾げた。『粘る』も『粘れ』も教えておらず、多分、先生からも教わっていないだろうとのこと。僕が「いや、レース中にこういうことがあって」と食い下がると、エリスのお父さんが当人に聞いてくれた。

 父娘の英語によるやり取りがいくらか続いたあと、不意に、父親の方が「ハハハ」と大きな笑い声を立てたから、僕はぎょっとさせられたよ。

「あ、あの……?」

「いや、ソーリー。意図せざるユニークな聞き違いが起きていたと分かり、つい笑ってしまったのです」

 エリスのお父さんは笑いをかみ殺していた。

「ボーイ、君の名前は御郷と言ったね? エリスはこう言ったんです。“Never let me go!”」

 ネバーレットミーゴー。小学生の僕には、訳してもらわないと分からない。けど、その前にエリスのお父さんはエリスに、「ネバーレットミーゴーと言って」と促した。

 次にエリスが言ったフレーズは、紛れもなく『ねばれ、みごう!』と聞こえた。

「意味は『私を離さないで!』だよ」

 訳を聞かされ、僕ももちろん声に出して笑った。しばらくぽかんとして、それから苦笑いを浮かべたあとだったけれどね。


 おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

粘れ、御郷! 小石原淳 @koIshiara-Jun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ