【KAC20245】憂鬱な皮膚

有明 榮

pH4.5~6.0

「ねえ、」と彼は言った。

「皮膚がもどかしいと思ったこと、ない?」

「今がそうよ」

「ああ、どこまでも、僕らは独りぼっちだね」


 離さないで、と彼女は言った。

 ああ、離れないよ、と彼は言った。


 彼がふと視線を上げると、カーテンの隙間から、ベランダで二羽の雀が小気味よく歩いているのが見えた。


 それと同時に、ガラス窓の外で無限に広がっている世界を想像すると、二人触れあっている裸身が、非常に滑稽に思えた。


 アメーバのように、溶融したガラスのように、あるいは油絵具のように、このまま混じり合えたら。彼は彼女の透明で肌理細かな首元を、あるいは掌を、あるいは乳房をなぞりながら、幾度となく願った。しかし、この世に生きている以上、我々は皮膚という、人間的な、あまりに人間的な制約に縛られているのだ。


 どれほど粘膜が触れ合おうと、どれほど体液が流れ込み合おうと、我々は皮膚の壁を破ることはできない。


「ねえ、」と彼女は言った。

「今なら……」

「ああ、きっと今日は、重力が僕らを一つにしてくれる。火星と、金星と、地球が一直線に重なるとき、僕らはまったく同じ存在になる」

「ええ。今日なら、私たちはすべての生き物が克服できなかった病を、克服することができる。孤独という病を」


 そう言って、二人は再度お互いの質量を確かめるように、首に手を回した。

 彼は静かに、彼女の唇に自分の唇を押し当てた。寝起きで少し乾燥していたが、いつも通りの弾むような感触に、彼は言いようのない快感を覚えた。二人は確信して、両手を互いの首から外し、指を絡め合った。しっとりと湿った掌はお互いの境界線を越えていく。彼は彼女の上に覆い被さるように体を起こし、足先を、膝を、恥部を埋めていった。それと同時に、二人の皮膚は形を保つことを拒み、チョコレートのようにとろりと融けてゆく。


 彼女の吐息がいつも以上に艶めかしいので、彼は彼女の唇に深く口づけた。腕が、腹が、そして胸が溶けあったとき、彼らの顔だけが、未だ個別に分かれていた。


 彼女は優しく微笑み、彼もそれに応えた。そうして、彼らの顔も混じり合った。カンブリア紀にこの世に姿を現して以来、生物が克服できなかった壁が取り払われた。青と赤の油絵具が混ざり合い、赤と青を残しながら、徐々に紫色になっていくように、彼らは彼と彼女でありながら、少しずつ生ぬるい液体に還元されていく。


「でも、皮膚は僕たちに残された最後の砦だったのかもしれない」

 彼は、彼女の内側で言った。

「どうして?」と、彼女は彼の内側で言った。


「僕らが互いに孤独だからさ。そうして、飢えと、渇きと、痛みに覚えながら、他人の体温を求めるんだ。でも、皮膚があるから、僕らは永遠に一人なんだ。だから、僕らは一人で生きていこうとする。皮膚は、僕らを孤独から守っていたんだ」

「でも、そうすると私たちは愛しえないわ」

「ああ。でも今日だけは、孤独になっても良いと思える日だ」


 星々が生まれてから消えるまで、彼/彼女は無限に拡がる宇宙と一体となっていた。そうして、朝日が昇る頃には、また互いに皮膚の柔らかさを感じていた。


「ねえ、」と彼は言った。

「皮膚がもどかしいと思ったこと、ない?」

「今がそうよ」

「ああ、どこまでも、僕らは独りぼっちだね」


 離さないで、と彼女は言った。

 ああ、離れないよ、と彼は言った。


 男がふと視線を上げると、カーテンの隙間から、ベランダで二羽の雀が小気味よく歩いているのが見えた。


 彼は、また静かに寝息を立て始めた彼女の首を、優しく自分の胸元にうずめた。

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【KAC20245】憂鬱な皮膚 有明 榮 @hiroki980911

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