第10話 これでよし

 熊田は65歳の年の大晦日を迎えていた。いよいよその日が来たのだ。

 会社はその年の春、無事に定年を迎え、退職した。坂下は熊田の予想通りに出世し、最終的に熊田よりも上の部長になった。結婚もし、一児の母にもなっていた。1年の育休を挟んだが、復帰後の仕事ぶりに衰えは感じられなかった。元々、全体把握能力が長けていたのだと思う。マネジメント力を発揮し、部の売上を着実に伸ばしている。坂下が休んでいる間、ほかのメンバーもずいぶん成長した。職場で熊田のやり残したことはひとつもない。

 貯金は到底使い切るには至らなかった。もともと無駄遣いが嫌いだったし、途中から無理に使い切ろうとも思わなくなった。退職金もそこそこ出た。熊田はひそかに遺言書を用意していた。死後事務委託契約も済ませていた。親はすでになく、兄弟もいない。相続をするなら従兄弟たちか、その子供たちになるだろう。ほとんど付き合いはないが、彼らだってもらって困りはしないだろう。

 遺言書には、まず自分の死後の片付けをして(そのなかには墓の整理も含む。父母も含め、自分も合祀してもらう)、残った額のうち半分は児童養護施設に寄付するよう書いてもらった。残った半分は親戚たちにだ。もし相続を拒否された場合は、半分を赤十字に、残りは半分ずつを愛媛県と広島県の環境整備目的で寄付してもらうようにした。

 あれから10年。熊田は仕事もし、趣味もめいいっぱい楽しんだ。老眼が進んだくらいで、ありがたいことに大きな怪我も病気もしなかった。

 本は1年に1冊のペースで合計9冊作った。最初の本の後にとびしま海道の本を作った。これは御手洗地区をメインに、島の町並みをテーマにした。尾道の千光寺公園だけの本も作った。坂のある風景と猫をテーマにしたものだが、この本が一番売れた。ありがたいことに同人誌活動を10年近く続けていると、必ず買いに来てくれるお客さんもできた。惜しむらくは最後に1冊作るには時間が足りなかった。いや、作ろうと思えば作れたが、次の即売会は来年だった。

 熊田は最後の晩餐として、近所の寿司屋で寿司を食べた。この店はいわゆる「町の寿司屋」、つまり高級店ではないという意味だが、店の雰囲気というか客筋がいいのが気に入っていた。月に1度ほどだが通っているうちに顔を覚えられ、よいネタが出てくるようになった。

 時間は夜9時になろうとしていた。残り1時間だ。

 熊田は玄関のドアにストッパーを噛ませ、10㎝ほど開けておいた。そうすれば自分の死後、誰かが死体を見つけてくれるだろう。

 掃除は昨日までに済ませていたが、改めて点検をした。冷蔵庫は、放置して腐るようなものだけ処分した。あまりに空っぽすぎると、自死を疑われるかもしれないと思ったからだ。

 いよいよそのときがくる。心臓が高鳴る。熊田はリビングのソファに腰を下ろし、最後に用意しておいたお気に入りの瓶ビールを開け、冷やしておいたグラスに注いで一気に煽った。うまい。これでよし。

 熊田がふと視線を前に戻すと、そこにあの死神が現れていた。熊田は驚いたが、半ば予想もしていた。

 「来てくれたんですね」

 「はい。来ました」

 「最後に来てくれるんじゃないかと、半分期待してたんです」

 「それはどうも」

 「あなたにはお礼が言いたい。私何か、あなたに恩でも売りましたか? あなたが私に余命を教えてくれたのは、私に人生を後悔させないためですよね」

 「はい、そうです」

 死神がどちらの質問に「そうです」と言ったのかは分からなかった。熊田は死神の次の言葉を待った。

 「私はあなたに恩をいただいた。それで恩返しをしようと思った。あなたの生き方は少々勿体無いように思え、余計なお世話とは思ったのですが、私ができる唯一の方法で恩返しを考えたのです」

 熊田は一番不思議に思っていたことを聞いた。

 「余計なお世話だなんて思っていません。あなたには感謝してるんです。けどわからないことがあります。私はあなたに恩なんて売っていません。覚えがないんです。寺社仏閣だって、あなたが現れたあとに行くようになったのですから」

 「あなたが覚えていないのは無理ありません。ただどうでしょう。あなた、乞食に施しをしたことはありませんか?」

 「え?」

 熊田は一瞬、何を言われたのか分からず固まったが、寄せて返す波がさぁっと引くように、記憶が蘇ってきた。それはあまり格好のいい記憶ではなかった。

 「思い出されましたか。あなた、道で乞食をしていた私に1万円くれたんです」

 「思い出しました。あの時、仕事帰り、橋の袂で乞食をしている人がいた。ずいぶん痩せて、その……汚い格好をしていた」

 「そうです。あれが私だったのです」

 「それで、ちょっと放っておいたら死んでしまうように思えて、少しならと思って財布を見たら1万円しか入っていなかった」

 「そうです。そうです」

 「それで、私は迷ったんです。1万円が惜しくなったんです」

 「それでもあなたは下さった」

 「私はあとから後悔したんです。なんで細かいお金を持っていなかったんだって。でなければ1万円も渡さずに済んだのにって。私はそんなね、そんな男だったんですよ」

 「関係ありません。お金は誰にとっても大事です。それでもあなたは下さった。そして私は許されたんです」

 「許された?」

 「そうです。私はちょっとしたしくじりで、私などよりずぅっと偉い神様に叱られまして、罰として地上におっことされたんです」

 「おっことされた」

 「そうです。この世でもっとも惨めでもっとも汚い格好で、長いこと彷徨っていました」

 「それでどうして1万円で許されたんですか」

 「額の問題ではないのです。今回の場合、額も関係あるのですが、そのもっとも汚い格好の私に、あなたはいわば身を切った慈悲をくださったのです」

 「慈悲ってそんな。そんな大したものではないですよ1万円くらい」

 「いいえ、あの頃のあなたにはそうじゃなかったはずです」

 そう言われて熊田は、たしかにそうだと思い直した。やはり格好のよい話ではなかった。

 「それでともかく、私は許され、一番下っ端ではありますが、また神の仕事に戻ることができたのですよ」

 「そうだったんですねぇ」

 熊田は何もかも納得がいった。これで今度こそ、思い残すことはなかった。

 「死神さん。本当に余計なお世話だなんてとんでもない。私は自分でもつまらない人生を歩んでいたと思う。何も知らずに度の過ぎた節制を続けていたら、今この瞬間、絶望していたと思う。例えもし、私の寿命が嘘だったとしても、あなたを恨むようなことはしません。むしろあなたにお迎えに来てもらって、安心しました」

 「本当ですか?」

 「え?」

 死神が熊田の顔を覗き込んで、もう一度言った。

 「嘘だったとしても恨むようなことはしない、の部分です。本当ですか?」

 「ええ、恨みません。恨みませんけど……」

 「嘘なんです」

 熊田は心底驚いた。何もかも覚悟を決め、自分が死んだあとの準備もした。それなのに今日が明日も続くなんて!

 「今日で死ぬのは嘘なんです。あなた、まだまだ生きます。ただ、あのままだとあなた、やっぱり後悔することになっていたんです」

 熊田はわかる気がした。とにかく最近は老眼がひどい。昨年あたりから、本を作るのにも苦労をしていた。

 「人生を楽しむのにいつだって遅いことはない」というのは本当だろう。65歳からだって第二の人生が歩めると思っていた。しかし老いというものは残酷なものだ。できることの範囲は確実に狭くなる。熊田は55歳という、ぎりぎりなんのハンデもない状態で、人生の楽しみ方に気づいたのだ。

 「だから、私に嘘の寿命を教えたんですね。嘘をついてまで、私に後悔させたくなかたんですね?」

 「そうです。私を許してくれますか」

 「許すも何もありません。感謝しかありません。それに私はまだ死なないんですね? また自転車に乗って、本も作れるんですね。それに本当は、まだやってみたいこともあったんです。今だからわかります。やりたいと思ったことはやっていい。こんな嬉しいことはないですよ!」

 「そうですか。よかった。本当によかったです。私はあなたに絶望を感じさせてしまうんじゃないかと恐れていました。そればかりは神様でも分からない。恨まれても仕方ないと思っていたました」

 「誰も恨みやしませんよ。死んでもいないんだから」

 死神は熊田の言葉を聞いて初めて笑い顔を見せた。

 「人はいつか死にます。けどどうかその日が来るまで、悔いのないように生きてください。お迎えには私が参りますから」

 そう言って死神は消えた。熊田は念のため、右足の裏を見てみた。星形のあざは消えずに残っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どうぞ悔いのない人生を ―令和死神噺― ももんが @mogumogu_momonga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る