第9話 たんぽぽの種のように

 月日は流れ、文学バザールの当日になった。結局、本は50部を刷った。

 サークル参加費が8000円。印刷製本代は2万5000円だった。本は思っていたより安く仕上がった。サークル参加費は少し高いと思ったが、会場に着くと立派な施設で、これなら仕方ないと思った。警備や誘導など、スタッフの数も相応に必要だろう。

 本の値付けに悩み、これも坂下に助言を乞うた。

 「売りたい値段でいいんです。けど、もし悩むようなら参加費は別として、原価の2倍に設定するといいと思います。今回は50部で2万000円ですから、単純に1冊500円ですよね。倍の1000円ではどうですか?」

 「この薄さで1000円というのは割高感がある気がする。800円はどうかと思うんだが、どうかな」

 「いやー、カラーでA4。表紙別32頁で1000円は普通ですよ。値付けは自由ですから。そういう意味では800円でもOKです。完売して印刷費と参加費、トントンですよね。私は割安感を感じますし、いいと思います」

 「わかった。儲ける気はないんだ。原価割れで売るのはちょっと違うと思うが、買った人が損をした気にならないほうを優先したい」

 「はい。よいと思います。それも含めて熊田さんの本のコンセプトになっていると思います」

 「ありがとう。優秀なプロデューサーがいてくれて助かる」

 「ですよねー」

 坂下がおどけて言った。2人は声を揃えて笑った。


 サークル参加者の入場待機列に並ぶ。本当にさまざまな年代の人がいる。自分に近い年代に見える男性と目があった。軽く会釈をしたが無視された。気がつかなかったのか、あるいは馴れ馴れしすぎたかもしれない。熊田は「少し浮かれているぞ」と自分を嗜めた。

 会場に入ると、割り当てられたエリアに向かい、自分が座るべきテーブルを探す。番号の印字されたシールが机に貼ってある。長テーブル1つで2サークル分。言い換えれば、長テーブルの半分が自分のスペースというわけだ。

 熊田が自分のスペースに着いた時、両隣の人たちはまだ来ていなかった。坂下のアドバイスに従い、88㎝に切り揃えた布をテーブルに敷いた。

 「なかには無頓着な人もいますが、スペースの越境はご法度です。スペースの幅は基本90㎝なので、念のため2㎝短くした布を用意して、その範囲にすべてを収めれば領域侵犯の心配なしってことです」

 「熊田さんの本は800円ですから、百円硬貨でお釣りを2000円分くらい用意しておいてください。いきなり万札を出す人もいますから、お札のお釣りも1万円分くらいあると安心ですね」

 「お客さんが手にとって読めるように見本誌と、見本を立てるスタンドもあるといいです。平置きより断然、目に入りやすいです。スタンドは百均のスマホスタンドで十分です」

 「あとは本のタイトルと、何の写真であるかということと、価格を書いた紙を、よく見えるように貼っておくとよいと思います」

 すべて坂下のアドバイス通りにした。右も左も分からない熊田にとって、坂下の助言はとても助かった。

 次第に隣の席も、周辺の席も埋まり出した。隣の席は若い男性で、扱っているのは電車の写真集だった。男性のほうから「今日はよろしくお願いします」と挨拶された。熊田も慌てて、「よろしくお願いします」と返した。

 あまりじろじろ見るものではないと思ったが、すっかり支度の済んだ隣の男性の本を見ると、高松から今治まで乗った、見覚えのある特急いしづちの写真が見えた。

 「すみません。これ、特急いしづちですよね。私、昨年乗りました。いしづちの写真集なんですか?」

 「あー、いしづちだけじゃないですね。予讃線全体です。車両とか、降りた駅の周辺とか」

 熊田は中が見たいと思った。しかし中を見て「いらない」というわけにも行かないと逡巡した。

 「よかったら、どうぞ」

 男性がその本を手渡してくれた。写真旅行記といった体の本で、写真が多かったが解説の文章もあった。書店で売られていてもおかしくない、非常によく出来た本だと思った。自分が乗った区間以外の駅や風景の写真があり、それらをじっくり見てみたかった。

 「すみません。これ売っていただけますか?」

 熊田が聞くと、男性は笑って言った。

 「もちろん。ただ、開場まで待ってください。一応、それがマナーなので」

 「あ、そうなんですね。わかりました。ではまた後でお願いします」

 熊田は男性の対応に好感を持った。そしてこういった未知の本が、この会場で数えきれないほど眠っているということに改めて驚きを覚えた。


 開場の11時を迎えた。場内に「第28回文学バザール、開場します!」というアナウンスが流れると、あちこちから拍手が起きた。熊田も合わせて拍手した。

 「あ、では早速ですがすみません。先ほどの本、1冊いただけますか?」

 「ありがとうございます。1500円です。あの、こちらの本はしまなみ海道がテーマなんですか? 見せてもらってもよいですか?」

 「どうぞどうぞ」

 と言って、熊田は自身の本を手渡した。男性は「横型、いいですね」といい、ペラペラと頁をめくった。

 「いいですねー。自転車かぁ。予讃線には何度も乗りに行ってるんですけど、島のほうには行ったことないんですよね。こちら1冊ください」

 「いえ、そんな、お気遣いいたがかなくても」

 「あー、そんなんじゃありません。単純にもっとじっくり見たいんです」

 熊田は顔が熱くなるのを感じた。嬉しさが猛烈に込み上げてきた。「お代は結構です」と言いそうになったが、ぐっと堪えた。

 「では、800円です」

 「はい、では」

 「ありがとうございます。初めての本が初めて売れました」

 「え、初めてなんですか?」

 「そうなんです。本を作るのも、即売会に参加するのも初めてで。1冊も売れなかったらどうしようなんて思っていたので、ちょっと安心しました」

 「あの、失礼でなければこちらの本、SNSにアップしてもいいですか?」

 「え、ええ。はい、かまいません」

 男性は、じゃあと言って、熊田の本をスマホで撮影し、何かを素早く入力していた。

 「念のため、こんな感じで大丈夫でしょうか」

 見せられた画面はエックスの投稿画面だった。

 『文学バザール開場しました。早速お隣のスペースの写真集ゲット。しまなみ海道自転車本。よきです』

 というコメントとともに、表紙と裏表紙を撮影した写真が添えられていた。

 「これで投稿してもよいでしょうか」

 熊田は恐縮したが、「問題ないです」と答えた。


 そうしているうちに、人の往来が激しくなってきた。会場のアナウンスによると、サークル参加者数も、開場時点の入場者数も、過去最高を記録したという。会場は熱気に包まれ始め、隣の男性も客の対応に追われ始めた。入れ替わり立ち代わり人が訪れ、男性の新刊を求めている。

 そのうちの1人が熊田のスペースにも流れてきた。見本誌を手にとり、頁をパラパラとめくる。熊田は自身がジャッジされるような気持ちになり、緊張した。その男性は無言で見本誌を置き、軽く礼をして去っていった。

 うん、仕方ない。熊田はあまり残念に思わなかった。手に取って見てくれただけで嬉しいと思った。しかし次に来た男性は、見本誌を手に取り、パラパラと数瞬眺めて「1冊ください」といった。

 「え、ありがとうございます」

 熊田は一瞬、あっけに取られたが、価格を伝えた。男性はおつりのない800円ちょうどを差し出し、「いただきます」と言って颯爽と去っていった。次の 本を買いに向かったのだろう。坂下が「即売会は客も真剣」と言っていたのが思い出された。

 売れた。自分の本が売れた。さっき隣の人に買ってもらったが、それとは違う嬉しさが込み上げてきた。仕事で何百万円、何千万円という取引を扱っているが、それとはまったく種類の違う嬉しさだ。買われた本がどう読まれ、どう扱われるのかは分からない。しかし、自分以外の人の手に渡るということは、その人の元に残り続けるかもしれないということだ。

 たんぽぽの種が風に飛ばされ、その先で花を咲かすのに似てはいないか。そして少しでも自分の本を楽しんでもらえるならば、なにものにも代えがたく価値のあることのように思われた。

 熊田は当初の緊張がほぐれ、リラックスした気持ちで座り直した。あとはもう売れても売れなくてもいい。しかし思いのほか客は訪れ、見るだけで去る人も多かったが、何人かは買っていってくれた。中には「ガジンさんの投稿を見て」という人もいた。ガジンさんとは隣の男性のペンネームだ。改めてありがたく思った。昼も過ぎてやや人の往来も落ち着き始めるころには20冊が売れていた。予想をはるかに超えた成果だった。

 そこに坂下が現れた。


 「おお、来たんだ」

 「はい、来ちゃいました」

 坂下はペットボトルのお茶とカロリーメイトを差し入れにくれた。熊田は立って、自分にとって初めての本を坂下に渡した。

 「どうやって渡そうか考えていたんだけど、ここで渡せてよかった。ありがとう。20冊売れたよ」

 「えー、すごいじゃないですか」

 「こちらの方が宣伝してくれたんだ」

 というと、隣の男、ガジン氏は「いえ、どうも」と照れたように会釈をした。

 「初めての本で、前半戦だけで20部売れるってすごいですよ。やっぱり見込み通りでしたね」

 「前半戦って、後半戦もあるのか?」

 「ありますよ。午後、ゆっくり来る人もいるし、閉会間際にどっと動くこともあります」

 「そうなのか」

 「でもよかったー。最初30部って言ってたのに、私が50部でもいけるって言っちゃったから。余計なこと言ったかなぁって思っていたんです」

 「いや、いいんだ。1回で全部売れるとは思っていなかったし、30部より50部のほうが単価が下げられたしな。それにこのイベントはいいな。次回はどうか分からないけど、また参加しようと思うよ」

 坂下は渡した本を両手で持ち、表紙を眺めた。坂下には製作中の原稿を見てもらってはいたが、表紙を含めた完成品を見せるのは今日が初めてだった。

 表紙の写真は大三島で見た海の夕焼けの写真にした。裏表紙は紙面を4分割して、道中の景色のほか、今治のうどんと、尾道の猫の写真を載せた。

 「『海とうどんと猫と海』。このタイトル、いいですよね」

 「そうかい? 最初は何も思いつかなかったんだけど、本のなかで見て欲しいものをタイトルにしようと思ってね。今回、一番悩んだよ」

 「いいと思います。お手伝いできてよかったです。本、いただきます。大事にします」

 「うん、ありがとう」

 2人のやり取りを横で聞いていたガジン氏は、通路を行き交う人々を眺めながらアルカイックスマイルを浮かべていたが、内心では「リア充、爆発しろ」と思っていた。

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