第8話 同人誌を作ろう!

 その日、熊田がしばらく前から伺っていたチャンスが訪れた。本来は控えるべきことだが、坂下と2人きりになるチャンスだ。2人きりと言っても密室でとかそういう話ではない。ようするにほかに職場の人間がいない状態ということだ。

 熊田と坂下は2人で得意先に納品後の挨拶に出向いていた。業務の進行上、不手際はなかったか。納品物に不具合はなかったか。そういった聞き取りやアフターフォローが次の発注につながる。メインの担当は坂下だったが、今回は取引額が大きかったのもあり、上司として熊田も同行した。クライアントの担当者は坂下の仕事に満足していると言っていた。

 「今日はありがとうございました」

 得意先を出たあと、坂下が言った。

 「坂下もお疲れ様でした。いい仕事をしたみたいだね。おかげで今期の売上目標もクリアできそうだ」

 「よかったです」

 2人は言葉を交わしながら駅に向かって歩き始めた。熊田は意を決して切り出した。

 「ところでな。仕事の話じゃないんだが、ちょっとアドバイスしてもらいたいことがあってな」

 「え、なんですか」

 「うん。坂下はZINEとか作ったことあるの?」

 「え、じんですか? ああ、ZINE? 同人誌のことですか?」

 「うん。そう。いやすまん。以前、そんな話が出たことがあったろう。ちょっと興味があってね。うん。まあ、なんというか、作ってみたいんだ」

 「ええええ?」

 坂下はお笑い芸人のように仰反るジェスチャーをして驚いた。

 「あ、いえ、すみません。ちょっと予想外の話でびっくりしました」

 「そうだよな。あ、いやごめんな。知ってればでいいんだけど、作るところまでは調べたんだ。Wordで書き出したPDFで作れるらしいな。あと印刷屋も調べた。以前使ったことがある印刷屋がオンデマンド印刷をやってて、調べたら1冊単位で作ってくれるんだって」

 「え、それで、知りたいことって何なんですか?」

 「即売会というものに出てみたいんだ」

 「ええええええええ!?」

 坂下は先ほどと寸分違わぬリアクションで驚いて見せた。坂下はお笑い好きなのだろうか。坂下の意外な一面を見た気がした。

 「いや! いやいや、ほんとすみません。意外すぎです。いや、それも失礼ですよね」

 坂下は急に真面目に言い直した。

 「えっと、OKです。私でお教えできることであればお教えします。と言っても私、現役ではありません。学生のころに同人活動してました。友達と一緒に」

 「そうなんだ。うん、同人活動についてもだいたい調べた。女子高生と年配の夫人が一緒に同人活動始める映画あったよな。あれも観た」

 「ああ、『メタモルフォーゼの縁側』ですね。あれ映画は観てないですけど、原作は持ってます」

 「ああ、そう。映画よかったよ」

 「そうですかー。原作が好きだったので映画観るの怖かったんですよね」

 「マンガの実写化でひどい評判になるものもあるもんな。けどよかったよ。素敵な映画だった」

 「今度観てみます」

 話題がそれ、本題に入る前に駅まできてしまった。だが一番大事な部分は伝えることができたし、本題はあとでもいいだろう。

 「熊田さん。今日は会社でまだ仕事あります?」

 「いや、いくつかメールの返信をするだけ」

 「私もです。退勤後にお疲れさま会をかねて、どこかで話の続きしませんか?」

 「いいかい?」

 「はい。せっかくですから。鉄は熱いうちに」

 坂下はそう言って笑った。


 親子ほど歳の離れた女性と2人きりで食事に行く。何もやましいことはないが、熊田も坂下も無意識下に「誤解されない店」として会社近くのファミレスを選んでいた。会社の人間も御用達のように使っていたし、業者の方と打ち合わせに使うこともあった。上司と部下が2人で食事をしていても、何を思われることもないだろう。

 2人はオーダーを済ませたあと、まずは生ビールで乾杯をした。ビールはグラスごと冷えていて、おいしかった。

 「熊田さん、夜のお食事は普段どうされてるんですか?」

 「うん。ご飯だけ炊いて、スーパーのお惣菜買ったり、味噌汁作ったり、簡単な炒め物くらいはするかな。けど最近は外食もする。坂下は?」

 「私も中食が多いです。駅前でお惣菜買って。それで、どんな本作るんですか?」

 「うん。写真の本なんだ。まだ形になっていないけど、記録代わりに残したいと思ってさ」

 「へー! 写真ですかぁ。熊田さん、写真が趣味だったんですねぇ」

 「うん。ちょっと前に始めたんだけどね。データっていつかは消えてしまうだろ? なんだかそれがもったいない気がしてさ。本なら形に残るし、それに」

 「それに、やっぱり人に見せたいですよね」

 「そうなんだ。自分でも意外な展開なんだが」

 「いいじゃないですかいいじゃないですかー。それ、見せてもらえたりするんですか?」

 「あー……かまわないんだけど、まだ選びきってないんだ」

 「あ、じゃあまだ見せたくないですよね。ちょっとわかります。私も自分が書いたもの、早く誰かに読んでもらいたいという気持ちと、推敲する前のものは恥ずかしくて見せられないという気持ちがないまぜになります」

 「坂下のは文芸だったんだな」

 「はい、小説ですね。友達と。私は仕事を始めたら仕事のほうが面白くなっちゃって。しばらく書いてないですけど、友達は就職してからもずっと続けてます。ああいうのが本物ですよね」

 「いや、本物も偽物もないよ。そういうもんだろ?」

 「ええ、まあ」

 それぞれの料理が運ばれてきた。2人はひとまず食事に集中することにした。


 「それで本題なんだが、文学バザールというのに申し込んでみようと思うんだが、どう思う?」

 熊田は食後のコーヒーをすすりながら聞いた。

 「あ、以前にお話したやつですね。私の友達がメインで参加しているイベントです」

 坂下が答えた。

 「やっぱりそうか。規模感がいいと思ったんだけどどうかな。文学専門なんだよね。写真とかで参加できるのかわからなくてさ」

 「ぜんぜん大丈夫です。いっぱい出てますよ。たしかノンフィクションジャンルで申し込めたはずです」

 「そうか。インターネットで検索してみたんだけど、雰囲気とか分からなくてさ。コミケよりはおとなしめというか、おじさんが参加しても浮かなければいいなーって思っているんだけど、どうかな」

 「ぜんぜん大丈夫です。お客さんは基本、本を見に来てますし、文学バザールはその傾向が強いと思います。客側が本に飢えているというか、真剣な感じなのがいいです。私も初参加に文学バザールはいい選択だと思います」

 「そうか。ありがとう。相談してよかった」

 「うーん、ほかにオリジナル限定のコミフェスとか、評論オンリーのZINESもありますけど、そうですね。私は文バザを推します」

 「わかった。ありがとう」

 「あの、さっきは失礼なリアクションしちゃってすみませんでした」

 急に坂下が畏まったので、熊田は少し吹き出した。

 「いや、ぜんぜん失礼じゃない。おかげで話しやすかった。あー、あとね。印刷はまだ先なんだけど、みんなどれくらい刷ってるものなのかな」

 「人それぞれですね。私たちは新刊で50とかでした。何度も参加して、リピーターの方がつき始めて、継続して宣伝もして、その数字です」

 「そうか。じつは30くらいで考えていたんだ」

 「固いですね。けどよいと思います。やっぱり在庫のことも考えなきゃですし」

 「在庫?」

 「そうですよ〜。売れなかった本は次のイベントまで押し入れを占拠するんです」

 「なるほどな」

 熊田は笑った。そして今の坂下の仕事の能力は、そうした学生時代の創作活動がベースになっているのかもしれないと思った。

 「ありがとう。ちょっといつになるかは分からないけど、本ができて、イベントに参加するときが来たら教えるよ。もちろん来てくれという意味ではないが」

 「そうですねー。会場で会社の人と会うのは少し照れますよね。熊田さん、ほんっとに仕事とプライベート、切り分けてますもんね」

 「うん。それがポリシーでもあったんだが、今回はちょっと手探りすぎてね。坂下のプライベートに介入するのもどうかとしばらく考えていたんだけど」

 「あー、確かに。いえ本当に、新卒で入った会社で、そういうリテラリーの高い上司に恵まれてラッキーだったと思っております」

 「だろ?」と熊田が言うと、坂下は声をたてて笑った。坂下にしても久しぶりに創作の話ができて、どこか浮き立つような気持ちになっていた。熊田さんにこんな一面があったのは驚きだ。今日は酔ってるのだろうか。珍しくテンションが高く見える。その上司がおもむろにカバンからタブレット端末を取り出し、何やら操作を始めた。

 「あのな。こんな写真なんだ」

 「お、ついにご開帳ですね!」

 坂下は熊田からタブレット端末を受け取ると、両手で持って食い入るようにしばし見つめた。

 「これ、めくっていってもいいですか?」

 「うん。いいよ」

 坂下は1枚1枚、ゆっくり見ていた。熊田は急に恥ずかしくなって、「それくらいでいいよ」と言ったが、坂下は「ちょ!」と言って熊田を制止し、写真を見続けた。そして顔を上げ、言った。

 「熊田さん。50部刷っていいと思います」


 その日以降、坂下は何かと本作りのアドバイスをしてくれた。なんならレイアウトしてくれる友人がいるから頼めますよと言われたが、それは遠慮した。どういう指示を出せばいいのか分からなかったからだ。

 坂下は本作りはプレゼンテーションに似ていると言った。つまり企画書を、もとい本を読む人に何を伝えて、どうゴールさせるかが大事なのだと説明した。

 「熊田さんの本は写真がよいので、基本はそれだけでもいいんですけど、読者って結構、迷子になる人が多いんです。だから『この本はこうやって見てください』というガイドラインを、嫌味がない程度に、つまり『こう見ろ!』という強制にならないように、補ってあげるんです」

 「小説ではそんなことしないですよ。けど、それでも目次とか導入部分には気を使いますね」

 「熊田さんの本はご自身の記録でもあるわけですから、撮影場所、日時はキャプションで添えるとして、あとは何か感想というか、そのときどう思ったかを一文添えると、読者受けする本になると思います」

 「あー、でも何も書かないというのもストイックでかっこいいかなー」

 坂下は楽しそうだった。やりとりはすべてラインで行った。熊田は坂下のアドバイスのすべてを受け入れた。クライアントが坂下を信頼するのがよくわかった。

 漠然とした霞のなかにあった本の形が次第に明確に見えるようになってきた。レイアウトはパワポで作ることにした。判型はA4で横型にすることにした。春に走ったしまなみ海道の道中を、表紙は別として本文32頁で割る構成を考えた。

 パワポの操作には慣れていたので、レイアウトは比較的苦労せずに完成させることができた。甘えてはいけないと思いつつ、坂下に校正とインプレッションを頼んだ。プリンターは持っていなかったので、コンビニのコピー機で出力した。原稿を渡すと坂下は「1週間ください」と言った。

 「さっと見るだけでいいよ」

 「なら、見ません」

 坂下はきっぱりと言った。熊田は瞬時に反省した。

 「いや、すまん。頼む」

 「はい」

 熊田は坂下の本気具合に申し訳ないと思いつつ、ありがたいと思った。


 1週間後、2人は再び会社近くのファミレスで向かい合っていた。

 「何箇所か、キャプションの位置を揃えたほうがよいところがありましたが、ほとんど直すところはありませんでした」

 「そうか。ありがとう。あの、当然今日はご馳走するし、ほかにも何かお礼をさせてほしいんだが」

 「いえ。今日はありがたくご馳走になりますが、すごく楽しかったです。それに熊田さんの本の第一の読者になれたのが何よりのご褒美でした」

 「ええええ?」

 「本当です。真面目に言いますが、いい本だと思いました。いえ、すごくよかったです。私、しまなみ海道に行きたくなったし、このうどん屋さんにも絶対行きたいです。それに久しぶりに仕事以外の創作に携わって、楽しかったです」

 熊田は坂下の顔を見て、少し狼狽した。坂下の目が潤んだように見えたからだ。熊田は狼狽を隠すように、坂下から戻された原稿に目を落とした。丁寧な文字で「ココとココをソロエル」などと書かれていた。

 「これは助かるなぁ。やっぱり第三者の目が入ると違うよな。安心感がある」

 「そうですよね。校正はやっぱり大事です。って、私の校正も当然完璧ではないですけど」

 「そんなことないよ。いやほんと、助かったなぁ。そうだ、聞こうと思っていたんだけど、奥付に協力者として君の名前を入れたいんだが、本名は迷惑だよな」

 「じゃあ、『あおいかえるこ』にしてください。私のペンネームなんです」

 「そうか。あおいかえるこ。いい名前だね」

 「やめてくださいよー。絶対にここだけの話ですからね。あと! 絶対に検索しないでください」

 熊田は猛烈な好奇心に囚われたが、「わかった」と答えた。この約束は絶対に守ると心に誓った。

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