第7話 生きた証を残すには
暑すぎる夏がようやく終わりを迎えるころ、熊田は20年住んでいた1DKのアパートから、1LDKのマンションに引っ越した。文字だけ見ると「L」が1つ追加されただけだが、LDK8畳+居間8畳、風呂トイレ別というのはかなりの進歩だった。
これまでの部屋に不満はないつもりだったが、新居に引っ越してみると、駐輪場が狭かったことや、廊下の電灯がつかなくなっていたことなど、ストレスだったことが思い出される。それらから解放された快適さを感じていた。
利用駅はこれまでと同じで、駅からの距離は徒歩8分。これも今までより5分ほど短い。これまで部屋は会社に行くまでの休憩場所であればいいと考えていた。もっと広い部屋に住みたいという欲求も当然あったが、それも「あとで」と思っていたのだ。
だがしかし、もう待つ必要はない。家賃は3万円高くなったが、それでも9万円。今までが安く抑えすぎていたのだ。
熊田はリビングの、これも新しく買ったソファに寝転がり、タブレット端末でしまなみ海道の写真を見直していた。便利なものだ。SDカードから取り込んで、グーグルのクラウドに保存しておけば、どの端末からでも見ることができる。それにしても3泊3日で1000枚も撮影していたのには自分でも驚いた。
やはりちゃんとしたカメラで撮影した写真はよく撮れていると思った。明るいところは明るいなりに、暗いところは暗いなりに、グラデーションがきちんと描かれている。つまり平面的ではなく、奥行きが感じられる。本当に俺が撮った写真だろうか。なかには自分の目で見た以上に印象的な写真もある。この写真はすべてオート設定で撮影したものだ。写真は腕が大事なのはもちろんだろうが、ある程度はカメラがカバーしてくれるのだなと感心した。
しかし自分が死んだあと、このデータはどうなるのだろう。死んで誰も管理しなくなったあと、十何ギガバイトのデータがサーバーにあり続けるのは迷惑というものではないか。そうすると死ぬ前にこういうデータは削除しなければならないはずだ。それとも一定期間、更新されないアカウントは自動的に削除されるのだろうか。最近は生前に死後の整理を行う「終活」も盛んだという。自分の場合、まさしく他人事ではない。
熊田は急に切ない気分に襲われた。この写真が自分以外、誰の目にも触れずに消えていくことが悲しく思えてきた。これまで仕事以外、すべて自分のなかで完結させて生きてきた。それで寂しいと思うことなどなかったのに……。死ぬのが怖いわけではない。自分の生きた証が何も残らないということが切ないのだ。
ふと坂下がいつか言っていたことが思い出された。たしかインターネットで公開されたある主婦のエッセイが、多くの人の共感を呼ぶ一方、逆に反感を持った人たちからブーイングが巻き起こり、大論争になっているというニュースが職場で話題になったときだ。
坂下が言うにはエッセイに限らず、自作の小説やイラスト、また写真などをインターネットで作品として公開する人たちがいるのだという。今回はそのひとつがよくも悪くも注目されたわけだが、確かにインターネットなら知り合いではなく、不特定多数の他人に向けて作品を公開できる。しかも大抵の場合は費用もかからず、匿名でできるのだ。坂下もやっているのかと聞いたら、「やってません。やっていても教えません」と笑いながら言った。それはそうかもしれない。
「昔ならブログもありましたけど無課金は広告が出るのが鬱陶しいんですよね。今ならnoteがいいと思います。絵ならピクシブっていうサービスもあるし、一番手っ取り早いのはエックスですよね。けどエックスはもうダメかも。何をアップしてもケチをつける人がいるし、インプレゾンビだらけになっちゃったし、健全でなくなったと思います」
やはり坂下はそういった創作的な活動をしているのかもしれない。だとしてもそれはプライベートの領域であり、他人が踏み込むべきものではない。
「あとは、ZINEとか」
「ZINE?」
「自費出版のことです。同人誌とも言いますね。自費出版と言っても今はオンデマンド印刷で安く作れますよ。カラーでも100冊で5〜6万くらい」
「詳しいな」
「あくまで……」と坂下は強めに区切り、
「私の話ではないですが、友達がそういう活動をしてるんです。即売会とかもあるんですよ」
「コミケってやつ?」と、横で聞いていた同じチームの後藤が口を挟んだ。
「そうです。コミケは何でもありですが、やはりマンガが多いですよね。友達が参加してるのは文学オンリーのやつです。結構面白いんですよ」
その話はそれで終わったが、熊田は改めてZINEというものに興味が湧いてきた。自費出版といえばお金がかかるものと思っていたが、5〜6万なら出せないこともない。そもそもどうやって本が作れるのか想像もつかないが、本という形になれば、それはデータのように消えてなくなってしまうものではない。自分の生きた証としてこの世に残していけるのだ。
熊田はソファから起きて、部屋の机に移動した。ノートパソコンを開き、「ZINE 作り方」とキーを叩いた。
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