第6話 広島で思ったこと

 2日目も3日目も快適に旅は進んだ。

 2日目は大三島から生口島に渡り、斜面に広がるレモン畑の景色を楽しんだ。その次の因島では、新たな名物として開発されたという「はっさく大福」を食べた。はっさくといえば「大きなみかん」だと思うが、そんな汁気のあるものを大福にできるのだろうか。しかしこれがまた驚くべき美味しさだった。お土産に買って帰りたかったが、日持ちしないとのことで諦めた。最後の向島はほぼ内陸を走ったが、ところどころで咲いている藤の花がきれいだった。そして向島と尾道は橋で結ばれておらず(正確には、橋はあるが遠かった)、渡し船で渡った。わずか5分の航路だったが情緒を感じる時間だった。

 尾道では駅の駐輪場に自転車を置き、千光寺公園と呼ばれるちょっとした山に登った。山というか丘というべきだろうか。斜面は急だったが、奥のほうまで民家が建てられており、迷路のように道が入り組んでいた。そこはあくまで生活の場であるのだが、その風情の良さからちょっとした観光スポットになっているという。なるほど、どこを見ても絵になる場所だと思った。さらに、そこかしこに猫がいて、昼寝している様子はなんとも可愛らしかった。

 頂上にはロープウェーの駅があった。ロープウェーがあるとは気がつかなかったが、ロープウェーに乗ったら見られない景色をたくさん見れたので、自分の足で登ってきたことに後悔はなかった。なかでも頂上の手前で振り返ったときの、尾道の街並みと瀬戸内海の島々が融合した展望は深く心に残った。

 下山したあと、駅の並びにあったラーメン店で尾道ラーメンというものを食べた。これも喝采を叫びたくなるほど美味しかった。意外にも濃いめの醤油ラーメンだった。麺が細めなのも好みにあった。スープの表面に刻んだ背脂が浮いていたが、不思議とくどくなく、むしろすっきりした後味に思えた。

 それから少し迷ったが、コンビニでビールを買い、港まで歩いて海を眺めながら飲んだ。これでもう今日は自転車に乗れないが、それよりもこの瞬間を楽しみたかった。青い空。青い海。輝く島。そよぐ風。ときより聞こえる海鳥の鳴き声。所詮自分は観光客だ。だがしかし、なんと調和の取れた時間と空間なのだろう。熊田は妙にセンチメンタルな気分になったが、むしろその郷愁を噛み締めて味わった。

 本来は竹原あたりまで走るつもりでいたが、自転車を輪行袋にしまい、広島駅までの切符を買った。山陰本線で三原駅まで。そこから呉線に乗り換えて広島駅に向かう。これだとほとんど海に沿って移動することができる。はたして、車窓からの景色は熊田を大いに満足させた。

 広島に着くと、すでにチェックインが可能な時間になっていた。熊田はホテルにチェックインを済ませ、部屋で荷物をほどき、まずシャワーを浴びた。潮風に当たったせいか、顔の皮がこわばっていた。汗を洗い流すと、それまで来ていたサイクルジャージではなく、ジーンズとTシャツに着替え、夕食に出かけた。

 広島といえばやはりお好み焼きだろうか。しかし昨晩食べた刺身の味が忘れられなかった。昨日はビールだったが、あれは絶対に日本酒が合うだろう。それならば居酒屋だ。そう思い歩を進めると、ホテルからすぐの場所に感じのいい居酒屋があった。

 熊田にとって感じがいいというのは、騒がしくなく、それでいてうらぶれた感じがしない……ようするに清潔感があることが大事だった。今、目の前にある店はまさにそういう店だった。おそらく地元の方が通う店ではなかろうか。店先に掲げられたメニュー表を見ると、価格も良心的に思われた。よし、ここに決めた。

 そこで思わぬ再会があった。今治駅で会話をかわした女性が、自分のあとに店に入ってきたのだ。


 熊田が店に入ったとき、店は営業を始めたばかりなのか先客はいなかった。店の主人であろう親父のほか、バイトと思われる若い女性がいて、2人から「いらっしゃい」、「いらっしゃいませ」と声をかけられた。やっぱり感じのいい店だ。熊田は勧められたカウンターに腰掛け、頭上に貼られたメニューを見渡した。手始めに刺身の盛り合わせと日本酒をオーダーした。彼女が入店してきたのはその時だった。

 女性は最初、熊田の顔を見て「あれ?」という顔をした。熊田も「え?」と驚いた。2人とも数瞬、とまどいを隠せなかった。熊田はどこか悪いことをしたような気持ちになった。彼女にとっての大事な時間を自分という珍入者が邪魔してしまったのではないかという気になったのだ。

 しかし女性は次の瞬間笑顔になり、「今治駅でお話した方ですよね」と言った。熊田の「ええ、はい、そうです。驚きました。いやほんとに」と答えた。

 店の主人が「お席どうします?」と言った。女性が「ご迷惑でなければ……」というので、熊田も「どうぞどうぞ」と答えた。店主は熊田と1つ席を空けた隣に女性を促した。熊田はちょうど良い距離感だと思ったし、店主のそういう気遣いを心地よく感じた。

 「この近くにお泊まりなんですか」と彼女は言った。

 「はい、隣ではないですけど、もうすぐそこの」

 「あ、もしかしてクラウンホテルです?」

 「あたりです。え、貴方も?」

 「いえ違うんです。前回はクラウンホテルでした。けど今回は別のところに。あそこ安いけど綺麗でよいホテルですよね」

 「そうですね。そう思いました」

 「今回は開拓のつもりで別のホテルを取りました。そこも綺麗でよいホテルですが、クラウンホテルより値段のランクが高くて……。これならクラウンで十分だったなって」

 「けどそれ、比べないとわからないですもんね」

 女性は佐藤と名乗った。熊田も名乗った。2人の自己紹介はそれで終わりだった。

 

 「しまなみ海道、どうでした?」

 「よかったですね。なにしろ天気に恵まれました。海は綺麗だし、食べるものは美味しいし、ちょっとね……うん、とても満足しましたね」

 「ですよねー。私、前回はあまり天気がよくなかったです。季節は今頃だったんですけど、結構寒くて。それに比べて今年は最高だったー!」

 と言って、佐藤は生ビールを気持ちよさそうにあおった。何歳くらいの人だろう。熊田よりはずっと若いだろうが、坂下よりは年上だろう。40くらいだろうか。いや、年齢などどうでもいい。振る舞いとか、話し方が嫌じゃない。積極的だがうるさくないのがいい。この人はいい人だ。今度は熊田から話題をふってみようと思った。

 「しまなみ、よかったです。尾道もよかった。佐藤さんもそのルートだったんですか?」

 「いーえ。じつは途中からとびしまに移ったんです」

 「とびしま?」

 熊田が言うと、佐藤は少し得意そうに笑って言った。

 「そうなんです。大三島から東に向かうと生口島でしょ? あそこのレモン畑、綺麗ですよねー。あ、それで大三島の西の先に宗方港っていう港があるんですけど、そこからフェリーで岡村島という島に渡るんです。そこから先がとびしま海道。今回はそっちルートできました」

 「へぇ、とびしま海道!」

 熊田は佐藤に話の続きを促した。

 「しまなみもよかったけど、とびしまもよかったです。大崎下島という島に御手洗という地区があって、金田一耕助の世界っていうか、ようするに昭和初期の古い街並みが残ってるんです。そこを走るの、気持ちよかったですよー」

 「へぇ。いいですねぇ」

 熊田にとって「金田一耕助の世界」というのがどういうものかわからなかったが、「古い街並み」というのにはそそられた。御手洗地区というのは、町そのものが保存区域として保護されているのだという。

 それからしばらく佐藤との会話は弾んだ。鯛めし弁当が美味しかったことも、教えてもらったうどん屋に行ったことも伝えると、佐藤は「行ってくれたんですねー!」と喜んだ。

 熊田はあまり自身のことは話さなかったし、それは佐藤も同じだった。お互いに聞きもしなかった。熊田は佐藤の大人な対応をありがたいと思った。やましい気持ちは起こらなかった。いや、本当は少しそんな気持ちにもなったが、そんなことで今のこの楽しい時間を台無しにしたくなかった。

 佐藤は前回この店に訪れて、ほかに浮気する気になれずに再訪したと言った。

 「お刺身、どうです?」

 「いや、美味いです。広島の酒もうまいですね」

 「ですよね。すみません、私も日本酒ください。それとアラの煮付けと、タイのお刺身もお願いします」 

 熊田も追加でアラの煮付けとカキフライを頼み、日本酒をおかわりした。アラの煮付けは昨夜の兜煮に負けず劣らず美味しかった。カキフライは粒が大きく、外はサクサクで、牡蠣そのものは汁が溢れるほどジューシーだった。

 熊田は2合目を飲み終えたところで会計を済ませた。この店が気に入って再訪した佐藤も、自分だけではなく店の人との会話を楽しみたいだろう。楽しい時間をいつまでも引っ張るのは格好悪く思えたし、人前で泥酔するつもりもなかった。

 「私、今回が久しぶりの旅行だったんです。おかげでいい思い出が作れました。お先に失礼します。道中、お気をつけて」

 「こちらこそ楽しかったです。熊田さんもお気をつけて。私、また広島に来ますし、またどこかで会いましょう」

 熊田は店を出てから、改めて変な気持ちを起こさないでよかったと思った。コンビニに寄って地元の日本酒を買ったが、部屋に戻るとそのまま寝てしまった。

 最終日は午後3時の新幹線で東京へ帰る。コンビニで買った弁当とカップ味噌汁で朝食を済まし、9時まで部屋でテレビを見ながらのんびり過ごした。

 それから原爆資料館に行った。最近リニューアルしたらしく、館内はきれいで、最新の映像技術で表現された原爆の被害シミュレーションも興味深く見ることができた。

 展示されているパネルをひとつひとつ読む。全部を見ていては時間が足りないことはわかっていたが、どうしても読み飛ばすことが出来なかった。原爆のことは知っているつもりでいたが、つもりでいた自分が恥ずかしいと思った。人は殴られれば痛いと思う。それを横で見ていれば痛そうだと想像する。しかし伝え聞いただけならどうだろう。さらにそれが何十年も前に起きたことなら? 「むかしむかし」で始まるおとぎ話と同様に聞いていなかったか。いや、たぶんそのように聞いて済ましていた。

 しかし資料館の展示は、それが「むかしむかし」などではなく、過去と現在が地続きでつながっていることを物語っていた。今は公園となったこの土地で、生きて生活していた人がいた。その証がここにある。熊田にはそれがとても尊いものに思われた。

 時間はいつの間にか午後1時になろうとしていた。ようやく半分見終わったところだった。

 熊田は残りの展示を駆け足で見る気にはなれなかった。今日はここまでにして、また来よう。

 広島駅近くのお好み焼き屋で遅めの昼食を取ると、新幹線の出発の時間まで1時間を切っていた。熊田は慌てて自転車を輪行袋に収納し、駅ビルに駆け込んだ。広島土産といえば紅葉まんじゅうが定番なのだろうが、あれは少し甘すぎるように思えた。ふと瀬戸内海のレモンをフューチャーしたスナック菓子が目に入った。お土産にしては安すぎるように思えたが、試食した限りではとても美味しいと思った。これをチームメンバー分買い、新幹線の改札に向かった。ホームについたのは発車時刻の20分前。熊田は缶コーヒーを飲みながら新幹線の到着を待った。

 こんな旅があと何回できるだろう。少なくとも広島にはもう1度来なければならない。そのときはとびしま海道を経由して来ようと思った。

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