第5話 後悔するなら食べてから
結局、熊田は駅で鯛めし弁当を食べ、女性に教えてもらったうどん屋でうどんも食べた。後悔どころか、大変満足した。鯛めし弁当もうどんも、そしてうどん屋の天ぷらも美味しかった。
サンライズ瀬戸で食べた「ぶりかまめし弁当」も美味かったが、今治駅の鯛めし弁当もまた傑作であった。鯛というのはこんなに美味しいものなのか。考えてみれば鯛という魚をまともに食べたことなどなかったかもしれない。弁当はシンプルな見た目であったが、味は奥深かった。付け合わせのれんこんの酢漬けや卵焼きもしみじみ美味しいと思った。量はほどほどだったものの、このあとうどんも食べるつもりの熊田にはそれもありがたかった。
時間はまだ12時前。熊田はいよいよというか、ようやくしまなみ海道へペダルを漕ぎ出した。道路に出ると、たしかに「尾道」と書かれた青い線がひかれている。気をつけなければならないのは、尾道へのブルーラインのほか、四国一周ルートのブルーラインもあることだ。書かれている文字もきちんと確認しなければならない。
教えてもらったうどん屋には30分弱で到着した。駐車場は満車に近い状態だった。
入口に近づくと早くもだしの香りが漂っている。期待できそうだ。入口に写真付きのメニュー表がある。トレーを取って、入口で注文するスタイルだ。かけ、しょうゆ、ざる、ぶっかけ、釜揚げ、釜玉の6つ。それぞれに大と小がある。温と冷を選べるものもある。入口から外に4、5人ほど溢れて待機列ができていたが、進むのが早い。決めきれないまま自分の番が来てしまい、熊田は瞬間的に「しょうゆの小、冷たいほうで」と注文した。それから順にレジまで進むが、途中に天ぷらやおにぎりなどのサイドメニューが並んでいる。熊田はちくわ天とみずいかと書かれた天ぷらを取り、別皿に乗せた。会計は合わせて1000円もしなかった。安い。
讃岐うどんの「しょうゆ」とは、水気を切ったうどんにだししょうゆを垂らして食べるメニューだ。これが抜群に美味かった。うどんは太めで、コシがある。固いというのではなく、もっちりしているというか、噛むと最初にやや抵抗があって、それがやがてぶつんと切れる。食感が心地よく、その後つるつるの麺が喉を駆け抜ける。醤油だけで食べるのはどんなものかと思ったが、まったく問題なく、美味しかった。
そしてみずいかの天ぷらにも感動した。みずいかがどういうイカかわからないが、ホタルイカよりも少し大きいくらいのイカが3匹まとめて揚げられている。身は柔らかく、そしておそらくワタだと思われるが、ほのかな苦味があり、熊田はたちまちビールが飲みたくなった。当然、我慢した。
これはいい店を教えてもらった。あの女性が再訪したくなるのも納得だ。こういう出会いは旅ならではのものだろう。熊田もまた来たいと思った。店からしまなみ海道の本当のスタート地点、来島海峡大橋は目と鼻の先だ。つまりしまなみ海道に来るなら、この店に立ち寄るのは何も問題ない。残念ながら今回はもうお腹いっぱいになってしまったが、次はぶっかけと釜玉を食べようと心に誓った。
店を出て、ブルーラインに沿って自転車を漕ぎ出す。まもなく「来島海峡大橋」という標識が見えてきた。しまなみ海道には6つの島があるが、各島は橋で結ばれている。つまり渡し船などを使わずに行き来できる。そして各橋には車道とは別に、自転車用の傾斜の緩やかなスロープが用意されている。おそらく脚力の弱い人でも問題なく登れるだろう。さすがサイクリストの聖地。とはいえさすがに平地のようなスピードは出ない。
ペダルを踏むごとにゆっくりと景色が変わってくる。やがてスロープを登り切り、来島海峡大橋の上に出た。そして熊田の目に空、島、海が一体となった、絵画のような景色が飛び込んできた。来た。来た。俺はついにしまなみ海道に来た。見てくれ、この景色を。なんという素晴らしさだ。こんなもの写真や映像で見たってわかるわけがない。風が気持ちいい。空も海も輝いている。最高だ。最高だ!
熊田は自転車を歩道の端に寄せ、自転車に跨ったまま欄干に手をかけた。しばし呆然と眼前の景色を眺めた。4月の風が、上り坂で熱くなった体に気持ちよかった。この景色を知らぬまま俺は死ぬところだったのか。よかった。定年まで待たなくて本当によかった。なんなら遅過ぎたくらいだが、それはもう考えても仕方がない。とにかく俺はこの絶好のコンディションの中、今ここにいるのだ。
熊田は思い出したようにカメラを取り出しシャッターを切った。しかしこの美しさをどれだけ記録できるものだろうとも思った。
午後5時。熊田は大三島の宿にチェックインしたあとすぐ風呂に入り、それから散歩に出かけた。宿は島の東側にあるから、海に沈む太陽は見れないと思うが、夕日に染まる海を見てみたかった。
歩きながら今日の道程を振り返った。最初の大島は、しまなみ海道の推奨ルートだと島の内陸を走ることになる。少しだけルートを外れ、外周ルート=海沿いを走ってみた。最高に気持ちがよかった。展望所というところがあり、渡ってきた来島海峡大橋をまさしく展望することができた。ほかのサイクリストも大勢立ち寄っており、賑わっていた。彼らは熊田とは反対側の尾道からきて今治に向かう、つまりゴール間際の人たちだった。
次は「は・か・た・の・塩!」というコマーシャルで有名な伯方島だ。道の駅に寄り、ビーチで海を眺めながら塩ソフトクリームを食べた。甘さのなかに塩味を感じるのは不思議な気がしたが美味しかった。ソフトクリームを食べるのも久しぶりだ。下手をしたら学生のころ以来かもしれない。俺という男は、本当に今まで生きていながら死んでいたようなものじゃないか。
いや……少なくとも会社には貢献してきたわけで、クライアントから感謝されることもあるわけだから、それは言い過ぎか。両親に嫁さんを見せたり、孫を抱かせたりすることはできなかったが、最初に父親を、次いで母親を見送り、墓も建てた。そこまで自分を卑下する必要はない。倹約が当たり前になって、それが苦痛ではなかったというだけだ。しかし、もう以前のようには戻れないと思った。
大三島に上陸したとき、時刻は午後3時半になっていた。宿には5時ごろチェックインすると伝えていたから、このまま向かうには少し早すぎる。熊田は宿の前を通り過ぎ、島の中央に位置する大山祇神社に行くことにした。何しろこれまで自宅と職場の往復しかしてこなかった男だから、寺社仏閣のことなど何もわからない。それでも大山祇神社の境内に入ると、どこか敬虔な気持ちに包まれた。いや、清潔で美しい場所だと思った。
総門をくぐると、参道というには広い空間が広がっていた。たしか真ん中は神様が歩く道だったはずだと思い、脇に寄りつつ先に進んだ。神門までかなり距離がある。神門の手前には樹齢2600年という楠の御神木がその枝を広げていた。その姿はなんとも荘厳で、熊田は思わず手を合わせて拝んだ。
神門を潜ると目の前に本殿があった。午後4時を過ぎ、遅い時間だったせいか熊田のほかに参拝客はいなかった。こういったものに疎い熊田でも、二礼・二拍・一礼の作法くらいは心得ていた。5円というのも申し訳ないので100円を賽銭箱に投げ入れ、この旅の無事を祈願した。そしてふいに「こういう場所ではあの死神に気持ちや言葉が届いたりするのだろうか」という気持ちが沸き起こってきた。
心のなかで「死神さん。よかったらもう一度、目の前に出てきてくれませんか。私はあなたに感謝してるんです。ありがとう」と唱え、もう一度手を合わせ、目を閉じて拝んだ。すると、頭上で何かが「チン」と音を鳴らした。熊田は驚いて頭上を見上げたが、しかしそこには何もなかったし、それ以上何も聞こえなかった。たまたまだったのかもしれないし、幻聴かもしれない。それでも熊田は、今のは死神の返事だったのだろうと思った。
しばらく歩くと海、というかクルーズ船が発着する港に出た。夕日で空が真っ赤に染まり、その下で島々は黒く塗りつぶされシルエット状になっていた。波が岸壁を打ち、軽くちゃぷちゃぷと音を立てていた。想像していた何倍も美しかった。この感動を残せるものなら残したいと思い、何度もシャッターを切った。あるカメラマンのユーチューブチャンネルで見たのだが、デジタルカメラはフィルムの枚数を気にしなくていいのだから、いちいち撮った画像は見直さない、家に帰ってから確認すればよいという話をしていた。熊田もそれに習い、撮った写真をその場で見直すようなことはしなかった。
景色を見て、シャッターを切って、また景色に目を戻す。目に映る景色の、なんという完璧な瞬間なのだろう。まさしく、この一瞬が永遠なのだ。
宿に戻ると、晩御飯が待っていた。宿は民宿で、それはつまり旅館やホテルほど高級ではないという意味だが(もっとも熊田はそのどちらとも経験はなかったが)、提供された料理は質、量ともに熊田を満足させた。出てくる料理のすべてが感嘆するほど美味しかった。
まず刺身だ。マグロ以外はすべて地物だという。キス、鯛、サヨリ、アオリイカ。マグロと鯛以外は、名前は聞いたことはあっても実物はどんな形をしているのかわからない。しかし味は感動的に美味しかった。
天ぷらも美味しかった。とくに鯛の天ぷらは「塩でどうぞ」と言われたが、塩と天ぷらがこれほどに合うものだとはついぞ知らなかった。うますぎる。
次に鯛の兜煮が出てきた。骨まで柔らかく食べることができた。そういえば今治駅で話をした女性が「瀬戸内の鯛は有名」と言っていたが、凄まじすぎる。言ってはなんだがこの宿の宿泊料でこれが食べられるというのはどうなっているのだ。何かの間違いじゃないのか。
香の物と一緒に盛り合わせられていた、小さな鯵の南蛮漬けも気の利いた味だった。素晴らしい仕事だ。
最後は鯛と浅利の炊き込みご飯だった。これ以上、俺をどうしようと言うのだ。当然美味い。美味いに決まっている。釜に残ったおこげすら残さず、きれいに平らげた。今日1日、美味いものづくしだったが、瀬戸内海は最後の最後まで俺を満足させてくれた。
食べることに夢中で酒は最初に頼んだビール1本だけだったが、急速に眠くなってきた。部屋に戻るとすでに布団が敷いてあった。最後の気力を振り絞り歯を磨くと、灯りのスイッチを切るように意識をなくして寝た。
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