第4話 しまなみ海道へ

 いよいよ旅行の出発日になった。熊田にとって初めての輪行旅行だ。旅行そのものが久しぶりだった。かねてから、それこそ定年したら行こうと思っていた憧れの「しまなみ海道」に行くのだ。

 しまなみ海道は瀬戸内海を挟み、愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶまさに海上の道で、景観の良さや走りやすさからサイクリストの聖地と呼ばれている。

 この1か月の間、熊田はわくわくしながら日々を過ごした。休日は自転車を輪行用の袋に詰める練習を何度もした。近所の神社にお参りし、当日の晴れを祈願した。

 出発の1週間前から天気予報を見ないように過ごした。願掛けのようなものだが、事前に天気が悪いと知ったら気が滅入るし、晴れの予報だとし差し障りがあるような気がしたからだ。やや非科学的でもあったが、何をいわんや、熊田はすでに超常的な体験をしているのだ。一心に祈れば通ずるという奇妙な確信があった。とうとう熊田は当日になっても現地の天気を調べなかった。雨なら雨で、雨の中を走るまでだ。そのための装備も揃えた。

 出発は木曜の夜。退勤後に一旦、自宅に帰り、それから東京駅に向かう。まさか自転車とリュックを会社に持ってくるわけにもいかない。荷物が置けない訳ではなかったが、プライベートを職場に持ち込むのは熊田の主義に反した。

 明日の金曜は有給を取った。帰ってくるのは日曜日だから2泊3日ならぬ3泊3日の旅だ。まず東京からサンライズ瀬戸で香川県高松駅まで行く。それから別の電車に乗り換えて愛媛県今治駅に移動。そこからが自転車だ。大島、伯方島、大三島、生口島、因島、向島を橋づたいに走破し、対岸の広島県尾道がゴールとなる。全長はおよそ80㎞。熊田は予行演習として自宅から40㎞離れた東京湾まで走り、折り返して帰ってくるということをやってみた。かかった時間は昼食と休憩の時間を除くと5時間半。1日で走破できないわけでもなかったが、せっかくなので中間地点の大三島で一泊することにした。走るだけではなく、それぞれの島で観光もしたかった。

 2日目は尾道に着いた後、広島市へ移動。当初は尾道で一泊を考えていたが、何やらイベントがあるとかでどこのホテルも満室だった。広島に行くのは高校の修学旅行以来だから、それもよいと考えを改め、広島駅近くのホテルを予約した。尾道から広島まで、自転車で走れるだけ走って、疲れたら電車に乗ればいい。これが今回の旅のおおよその予定だった。 

 朝はそわそわしていたが、たまたまその日は忙しく、いつの間にか完全に仕事モードに切り替わっていた。メンバーの1人が発注ミスをしたため、代替の資材を手配するのにてんやわんやだった。坂下の的確なサポートのおかげで事なきを得ることができた。あわや残業かと冷や汗をかいたが、なんとか定時で退勤することができた。そうだ、何か土産でも買ってこよう。坂下だけというわけにもいかないから、チームのみんなへという体で。


 東京駅には午後9時に着いた。電車の出発時間は9時50分だから、まだ少し余裕がある。しかし駅弁屋の弁当はその多くがすでに売り切れており、選択肢は少なかった。熊田はそれでも吟味し、富山の「ぶりかまめし弁当」を買った。遥か富山の弁当がこうして東京で買えるというのはありがたいことだ。熊田はほかにビールを1本、日本酒を1本買って、出発ホームに向かった。

 サンライズ瀬戸はすでにホームにいた。きらきら輝いて見えた。かっこいいじゃないか。今回の旅のメインはしまなみ海道を走ることだが、この寝台列車で一晩過ごすのも十分なイベントだと改めて思った。

 熊田が取ったB寝台は人が寝るには十分なスペースだったが、自転車を持ち込むことは無理だった。事前の情報でわかってはいたが、実際に見て「これは無理だ」と納得した。車掌にひと声かけ、自転車はいわゆるデッキスペースに置かせてもらった。盗難防止と、固定する意味もあり、手すりと自転車をチェーンロックで結んだ。熊田のほかにもう1人、同じ目的の乗客がいるようだ。あとで通った際に、もう1台、同じような自転車があった。

 熊田は自室に入り、一旦ブラインドを閉め、備え付けの浴衣に着替えた。室内は必要なものがコンパクトに納められており秘密基地のようだと思った。コンセントに充電器を差し、スマホを繋ぐ。予備のバッテリーは用意したが、明日は酷使することになるだろうから、それぞれ満充電にしておかなければならない。それから買ってきたビールをあけ、3口ほど一気に喉へ流し込んだ。刺激が身体中を駆け抜けた。「これはたまらんな」と思わず言葉がこぼれた。

 そうこうしているうちに電車が動き出した。ブラインドを開けると、列車は東京駅を抜けるところだった。窓には大東京の夜景と同時に、自分の顔も反射されて映っていた。ふと視線を落とすと、足の裏の星形のあざも、やはりそこに映っていた。熊田は自分の生き方を変えたそのあざをじっと見つめた。

 

 昨日の夜は12時くらいに寝ただろうか。ビールを飲み、弁当を食べ、車窓を眺めながら日本酒を飲んだ。普段、日本酒は飲まないがとても美味しかった。ブラインドを下げ、毛布にくるまり横になる。意外にもあっという間に意識がなくなった。

 目が覚めると外は薄明というか、明るくなろうとしていた。時計を見ると5時半だった。いつもなら最低7時間は寝ないと寝た気にならなかったが、意外と頭はクリアになっていた。何より外の天気を見てテンションが上がった。よし! よし! 晴れだ!

 熊田は洗面道具をリュックから取り出し、部屋にロックをかけて洗面台に出かけた。揺れる列車のなかでヒゲを剃るのはなかなか難しかったが、それすら熊田には楽しく思えた。

 それからラウンジで温かいお茶を買った。うかつにも朝食を買うのを忘れていた。というか、高松駅に着いたらうどんを食べるつもりでいたのだ。お茶で空腹を紛らわせた。

 列車は瀬戸大橋を渡ったあと、間もなく高松駅に滑り込んだ。定刻通りの朝7時30分。今治に向かう特急いしづちが出るのが8時45分。一度改札を抜けて、うどんを食べに行く時間は十分にある。寝台列車のよいところは、現地で朝一番から活動できる点にあると熊田は知った。

 事前に調べておいた駅から歩いていけるうどん店に向かった。グーグルマップの星の数はさほど多くなかったが、有名店は人が並んでいる可能性が高い。自転車を組み立て、移動し、場合によっては並び、うどんを食べて戻る。もう一度自転車をしまって……というのは時間的に微妙に思えた。そこまで無理をせずとも、さすが「うどん県」を名乗るだけあって、朝7時半に開いているうどん屋が駅前に2軒もあった。どちらにするか少し迷ったが、赤提灯がぶら下がっている方に決めた。

 平日の8時前。店は混んでいるわけではないが、それなりに賑わっている。同じ列車で来たであろう人たちが多かったが、地元の方らしいおじいさんが食後に新聞を広げていたりもした。

 冷やしうどんの小を頼んだ。うどんはあっという間に提供された。ほかにおにぎりや天ぷらもあったが、あわよくばもう一杯食べたいと思い我慢した。トレーを持って着席する。どんぶりを持って顔に近づけると、それだけでもういりこだしの香りが感じられた。汁を一口すすると、濃いめのだしが口いっぱいに広がり、頭の中で「うまい!」と叫んだ。意外にも醤油の効いた汁だった。

 うどんはさほど太いほうではなかったが、箸でつまむと弾力を感じる。わずかな距離がもどかしいとばかりに一気にすすると、柔らかいような、それでいてコシのある麺が口のなかではじけた。うまい。これが香川のうどんか。格安スーパーで買うゆでうどんとはまるで違う。

 熊田は最初の1杯を都合4口で食べ切った。汁も残さず飲んだ。美味しさに感動した。この店であの星の数なのか。香川県人の舌はどうなっているんだ。うどん県、恐るべし。熊田は食べ終えたどんぶりを返却し、今度は温かい方のかけを頼んだ。店員の女性がおかわりをする熊田を見て少し微笑んだ。

 冷たいのと温かいのとでこれほどうどんの食感が変わるのかと熊田は再び驚いた。作るところを見ていたが、使っている麺は同じものだった。冷やしは冷水で締める。温かいほうは湯に通すだけの違いだ。温かいうどんはもちもち、ふわふわといった食感で、つるつる滑らかなのどごしも堪らなかった。人によってはぬるいと感じるようだが、汁が熱すぎないところも熊田の好みに合った。この店にはぜひまた来たいと思うと同時に、ほかの店のうどんも食べてみたくなった。

 熊田が駅に戻ると、自分が乗る予定の列車はすでにホームに到着していた。うどんを食べなければ1本早い列車に乗ることもできたが、遅らせた分だけの価値は十二分にあった。旅の最初でこれほど満足してしまったら、この後どうなってしまうのだろう。

 特急いしづちに乗り込むと、同じサンライズ瀬戸で来たと思わしき乗客がいた。女性だった。サイクリストであることはファッションでわかった。目が合い、お互いに会釈した。しかしそれ以上の会話はなかった。自分がそうであるように、向こうも誰かと触れ合うためにこの旅に来ているわけではないだろう。最高の対話はこのあとに待っているのだから。

 車窓から外を眺める。ほかと同じようでいて、やはりどこか違う街並み。おそらくご当地のチェーン店であろうスーパーマーケットやホームセンター。レストラン。電車の乗客に向けてアピールする看板にも地域色が出ている。家々の屋根の形や壁の色などにも特徴があるようだ。それらを観察するのが面白くて、今治につくまでのおよそ2時間。熊田は飽きもせず外を眺め続けた。

 思えば熊田の知る車窓というのは、会社と自宅を往復する電車から見える風景だけだったし、そもそも電車のなかでは、座れれば寝ていたし、立っているときはスマートフォンしか見ていなかった。

 電車の旅もいいな。と熊田は新しい楽しみを見つけたような気持ちになった。


 今治駅に着いた。リュックを背負い、自転車を担ぎ、駅を出る。天気は晴れ。ほぼ無風。絶好のサイクリング日和と言えるだろう。しかし駅前は思ってた以上に閑散としていた。時刻は午前11時。ピークの時間はすでにすぎているのだろうか。出発時間としては少し遅いのかもしれない。

 自転車を組み立てていると、列車で会釈をかわした女性が出てきた。お互いもう一度会釈をかわすと、今度は女性が話しかけてきた。

 「意外と人がいないものですねー」

 「そうですね。私もそう思いました。お昼も近いし、本気の人たちはすでに出発したあとなんですかね」

 「どうなんでしょうねー。平日はこんなものなのかもしれませんね。私はお昼を今治で食べたくて、この時間に合わせてきたんですけど」

 「どこか美味しいところがあるんですか?」

 「私、しまなみは2度目なんですけど、来島大橋の手前に、美味しいうどん屋さんがあるんですよ」

 「いいですねえ。香川の駅前で食べたうどんも美味しかった。ほかの店でも食べてみたいと思っていたんです」

 「しまなみは初めてですか?」

 「そうなんです。昔から来たい来たいと思っていて。今回が初しまなみです」

 「それじゃ今治駅の鯛めし弁当もおすすめですよ」

 「なんですそれ」

 熊田は俄然、興味をそそられた。

 「今治の名物みたいです。鯛のほぐし身をご飯の上に敷き詰めたお弁当です。瀬戸内海の鯛は有名ですから。そこの売店で買って、中の食堂でイートインもできるんですよ。私は前回食べました。そのあとうどんも食べたんですけど。ほんとこの辺、美味しいものばかりで困るんですよねー」と言って女性は笑った。

 「へー」と相槌をうち、熊田も笑った。そして同時に悩むことにもなった。どうだろう。弁当も食べて、さらにうどんも食べられるだろうか。満腹で自転車を漕いだ経験はない。しかしここを出てしまえばその弁当を食べる機会は失われてしまう。まず鯛めし弁当というものを見てみよう。それから……と、自転車を組み立てながら考えた。

 女性は自転車を組み立て終わり、熊田を見て「それじゃ、お気をつけて」と言って走りだすところだった。熊田は急いで声をかけた。

 「あの! すみません。そのうどん屋さん、なんて名前なんですか?」

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