第3話 チケットを手に入れろ

 熊田は朝起きた時から緊張していた。1か月後に旅行を予定しているのだが、その行きの鉄道チケットの販売が午前10時に始まるのだ。東京と香川を結ぶ寝台特急「サンライズ瀬戸」。今や日本で数少なくなった寝台特急であり、非常に人気がある。連休に絡めた日などは発売開始10分〜15分ほどでチケットが完売になるという。ユーチューブには「必ずゲットするテクニック」などという動画もあった(参考にした)。

 厳しい争奪戦にならないよう、電車に乗る日は連休に絡まない平日に設定したが、油断はできない。しかも午前10時と言えば仕事をしている時間だ。うまく買えるだろうか。ちょうど10時に電話がかかってきたり、上長から話しかけられでもしたら……などと考えると、気持ちが落ち着かなかった。

 こんなにそわそわした気分になるのはいつぶりだろう。それまでの熊田の人生は仕事と家の往復で完結していた。それはある種、完璧な循環で、楽な生き方でもあった。しかしその輪の外側にある楽しみを熊田は知ってしまった。今、自分を包んでいるそわそわも、言い換えればうきうきしているのであり、興奮状態にあるとも言えた。

 チケットは無事購入することができた。事前に購入サイトのユーザー登録を済ませ、発売開始の3分前にログイン。発車日時や乗車駅、降車駅、希望の寝台(熊田はB寝台「シングル」を狙っていた)をチェックし、10時ジャストに「予約」ボタンを押す。昨日までに何度も予行演習をしたステップだ。いくつかの確認事項をクリアし、最後に支払い方法を選択する。これも事前にクレジットカードの登録を済ませておくことが重要だった。ここでもたもたすると、選んだはずのチケットが「すでにありません」などと表示されたりする。つまりチケットを無事に入手できるかどうかは「先に決済を済ませた順」であり、迅速な手続きが勝敗を決めるのだ。

 合計で4〜5分ほどの戦いだったが、どっと疲れた。1日分の仕事を済ませたような気持ちだ。脇の下に軽く汗をかいているのに気づき、自分に失笑がこぼれた。その様子を目ざとく見つけた、斜め前に座っている坂下が「何かいいことでもあったんですか?」と声をかけてきた。

 「いや、別に。なんだよ、よく見てるな」

 「あー、すみません。ただちょっと珍しいと思って」

 坂下はそれ以上の追求をしてこなかった。坂下のよいところだ。注意力が高く細かいことに気がつくが、必要以上の介入はしてこない。坂下が入社したのは6年前だったか。自分のチームに配属され、それからずっと同じチームだった。はきはきしていて1年目から「できる子だな」という印象だった。実際にクライアントからの評判もよく、仕事の成績もいい。今は自分の部下というポジションにいるが、間もなく昇進するだろう。その力は十分にある。タイミングによっては後々自分の上司になるかもしれない。

 自分は今以上の役職につく気にはなれなかった。自分の仕事と並行して他人をマネジメントするのは現在の人数が限界だと思う。さらに役職をあげて、複数チームのマネジメントが自分にできるかと考えると、それは疑問だった。熊田は常々「マネジメントほど難しい仕事はない」と思っていた。適当に数字を設定し、部下の尻を叩いて済む仕事であるはずがない。最大効率を考え、チームの最適化を計り、なるべく少ない労力で、可能な限り大きな利益を追求する。マネジメントにはそれに特化した才能が必要なはずだ。

 しかし世の中は「プレイング・マネージャー」というものをありがたがる傾向にあるようだ。ようするに実務もして、同時にマネジメントも完璧にこなせというのだ。それは理想論という以上に、絵に描いた餅だろう。かつて一流のプレーヤーであり、同時に監督も務め、これまた一流の結果を残した野村克也という野球選手がいたが、それは天才だからできたことだ。そういう稀有な、特殊な才能を一般化して要求しても意味がない。その先には破綻が待っているだけだと思う。同じ会社に30年以上勤めてこれたのは、この会社がそこをわかっているからだ。プレーヤーとしての熊田を評価してくれている。本来はリーダーという役職も辞退したかったが、年齢と経験から最低限の責任としては仕方がないだろう。

 熊田は余計な考えを振り払うように冷めたコーヒーを一口飲み、仕事を再開させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る