華凛、はなさないで

澤田慎梧

華凛、はなさないで

『――はなさないで――』


 それが、私の最も古い記憶の一つ。

 顔は朧げにしか覚えていないけれども、きっと凄い美人だったその人の、必死のお願い。

 私は多分、二歳か三歳で。だからきっと、その女の人は私のお母さんで。


 つまりは、それが唯一の、私の中のお母さんの記憶。


   ***


『――はい。ですから、「幼児期健忘」等とも呼ばれますが、人間が幼い頃のことを思い出せないのは、ごくごく自然な現象なんですね。脳の成長に従って記憶構造が再構成されて、古い記憶がうまく呼び出せなくなるわけです』

『なるほど。つまり、幼い頃の出来事を忘れてしまったわけではなく、フォーマットが変わってしまったからデータを引き出せないし、解析できない……というわけですか』

『ええ。少なくとも原因の一つはそれではないかと考えられています』


 テレビの中では、ナントカ大学のナントカ教授と国営放送の解説員が、そんな会話を繰り広げていた。

 土曜日の夜九時過ぎ。ちょっと遅い我が家の夕食時のことだ。


「そっかー。じゃあ、頑張ったら思い出せるってわけじゃないんだねー」

「……華凛かりんは何か、思い出したいことがあるのか?」


 誰ともなく呟いた私の言葉に、伯父さんが反応する。

 お箸に食べかけの一口カツを挟んだままなので、ちょっとお行儀が悪い。


「うん。ほら、前から言ってるじゃない。お母さんらしき人が私に『はなさないで』って必死に頼んでる記憶。せめて、お母さんの顔か、前後の状況くらいは思い出したいんだけど……」

「ああ、それか」


 自分で訊いておいて、伯父さんは一転興味がなさそうに食事を再開してしまう。どうも伯父さんは、私の母親という人の話となると、急に興味を無くすらしかった。

 まあ、私の母親と言っても、伯父さんにとっては血の繋がりのない人間だ。奥さん――つまり私の伯母さんの妹というだけの繋がりなので、元々興味が無いのかもしれない。


 母がいなくなったのは、私が二歳くらいの頃のこと。当時住んでいた街を襲った大地震による災害の最中、行方不明になったらしい。

 津波なのか、火事なのか、それ以外なのか。原因は不明だけれども、母は姿を消し、私だけが保護されたそうだ。

 それ以来、私は伯母夫婦の家にやっかいになっている、というわけだ。


(「はなさないで」って、やっぱり「離さないで」なのかな?)


 記憶の中の母の声は、鬼気迫るものがある。だからきっと、津波だか火事だかが迫っている中で、必死に私の手を掴んで「絶対に手を離さないで」と言った時の言葉なのだと思っている。

 「話さないで」という可能性もあるかもだけど、非常時に使う言葉とも思えない。例えば、静かにしてほしいという意味だったら「しゃべらないで」だとか「だまっていて」だろうし。


「華凛はちっちゃかったからね。仕方ないわよ」

「うん。でも、お母さんの写真も殆ど残ってないんでしょ? だったらせめて、顔くらいは思い出したいんだけど」


 伯母さんが慰めの言葉を言ってくれたが、それでどうにかなるわけでもない。

 せめて、伯母夫婦が母の写真の一枚でも残してくれていれば良かったのだけれども、全くないのだという。二人は被災したわけでもないのに。

 きっと、母とは仲が良くなかったのだと思う。

 ――と。


「華凛。お母さんのことを思い出したいという気持ちは理解するが、覚えていないものを無理に思い出そうとするのは、やめておいた方がいい」

「なんで? テレビでも忘れたわけじゃないって言ってるんじゃん。もしかしたら思い出すかも」

「テレビでは、こうも言っていただろう? フォーマット……つまり形式が変わってしまっているんだ。覚えていても、それを正しく理解できるとは、限らないんだ」


 そこまで言ってから、伯父さんは一口カツと残りのキャベツをかき込み、静かに咀嚼し始めた。

 食べる時に殆ど音を出さないのは、伯父さんの数少ない美点の一つだ。

 そのまま、ごくんと控えめに喉を鳴らしてから、伯父さんは再び口を開いた。


「こんな話がある。アメリカの高校生の少女が、ある日『幼い頃に父親から性的虐待を受けた』と告発した」

「ちょっとアナタ。華凛にそんな話――」

「大丈夫だよ伯母さん。私だってもう、そんな子どもじゃないし。それで? 伯父さん」


 伯母さんはちょっと過保護で私を子ども扱いするけれども、伯父さんはその逆だ。私にはちょっと早いかもしれない、「大人な」話も遠慮なくしてくる。

 もちろん、セクハラ的な意味ではなく。私を中途半端に子ども扱いはしないのだ。それも伯父さんの美点の一つだ。


「うん。その女子高校生は、謎の精神的不調でカウンセリングを受けていたんだ。その一環で催眠療法というものを行った」

「催眠って、あの、人間を自由に操ったりするやつ?」

「それはフィクションの話だな。どちらかというと、極度にリラックスさせたり、逆に集中した状態にしたりして、その人にとって自然な状態を作り出すことらしい」


 私の茶々にも嫌な顔一つせず、伯父さんは話を続けてくれる。これで頑固者じゃなければ、本当に良い「お父さん」なのだけれども。


「その催眠療法の最中、女子高校生はある記憶を思い出したんだ。まだ三歳か四歳くらいの頃、自宅の庭で父親と二人きりで遊んでいる時……父親にいかがわしいことをされた事実を」

「げっ、最低じゃんその親父。死刑!」

「死刑はともかく、本当だったら大変な罪だ。だが、この話の本筋はここからなんだ」


 伯父さんの言葉が真剣味を増していく。空気を読んだのか、伯母さんがそっとテレビの電源を切った。


「結果として、父親は無罪になった。何故だか分かるか?」

「ええっ? 証拠が足りなかった、とか? 小さな頃の記憶だけじゃ不十分だったとか」

「ああ。足りないどころか、父親が性的虐待をしていない証拠ばかりが出てきたんだ」

「ええっ……? なにそれ、だって女の子ははっきり親父にエッチなことされたって覚えてたんでしょ? なんで?」


 まさか、家族ぐるみで父親の犯罪を隠蔽したとかだろうか?

 そうなったら、なんとも胸糞の悪くなる話だ。

 ――けれども、伯父さんの答えは全く予想外のものだった。


「実はな、その女子高校生の記憶は……だったんだよ」

「は、はい~?」

「俺も詳しくは知らないが、初期の催眠療法にはよくあったそうなんだ。一部のカウンセラーが患者の精神的不調の原因を『幼い頃の性的虐待』と決めつけて、その記憶を思い出すように誘導することが」

「え、でも嘘の記憶なんでしょ? 思い出すもなにもないじゃん」

「普通はそうだな。だが、その偽の記憶が。それこそ、おぼろげな、うろ覚えの思い出をベースにして脚色されたものなら」

「……あっ」


 そこでようやく、私は伯父さんが言わんとしていることに気付いた。

 先程テレビで言っていたことを信じるのならば、幼い頃の記憶を思い出せないのは自然なのだという。

 逆に言えば、はっきりと覚えていると思い込んでいる幼い頃の記憶は、不自然なものである可能性が高い……ということにならないだろうか。


「幼い頃の記憶というのは、曖昧であやふやだ。自分でははっきり覚えていると思っていたことが、周りに確認してみると全然違った、なんてこともある。そして、あやふやな記憶というものは、容易く歪められてしまうものなんだ。だから――」

「もういいよ、伯父さん。無理矢理お母さんのこと思い出そうとしても、本当の記憶かどうか怪しいよって言いたいんでしょ?」

「そういうことだ。華凛にとっては辛いことだとは思うが――」

「だからいいって。その……私にとっては伯母さんがお母さんで、伯父さんがお父さんだし」

『華凛……!』


 ちょっと恥ずかしいことを言ったら、伯母さんも伯父さんも感動して泣き出してしまった。

 やめろよ、こっちが恥ずかしくなるだろぉ!


   ***


「華凛はもう寝たのか?」

「ええ、ぐっすりと。きっと今夜はいい夢を見れますよ」

「だと、いいんだが」


 華凛が床に就き、リビングには夫婦二人だけになっていた。姪の部屋は二階にあるので、一階にあるこのリビングの会話が聞こえるはずがない。

 だから二人は、ようやく気を抜いてタブーに触れた。


「このまま、忘れてくれればいいんですが」

「残酷だが、その方が華凛の為ではある、か。――いっそ、本当のことを話すという手もあるが」

「やめて! 絶対に話さないで!」

「声が大きい」

「ご、ごめんなさい……」


 夫婦の間に沈黙が落ちる。二人は、愛すべき姪の華凛に、絶対に知られてはならない秘密を抱えていた。


 華凛の母親はシングルマザーとして父親不明の娘を産み、育て、その最中に災害に見舞われた。それは事実だ。

 だが、彼女が行方不明だというのは、真っ赤な嘘だった。華凛の母親はこの十数年、ずっと同じ場所にいる。


「このまま一生、出て来ないことを祈ろう。もしもの時は……華凛は、私達の娘は、二人で守ろう」

「ええ。絶対に妹の手になんか渡さないわ」


 大地震による大津波、そして大火。あらゆる災害に襲われた華凛の母は、娘を連れて姉夫婦のもとへ身を寄せ――はしなかった。

 彼女は避難所に身を寄せつつ、娘を連れて壊滅した街中に出向き、あろうことか火事場泥棒を働いたのだ。


 その現場を、無人の街を見回りに来た数名の老人に見つかり――容赦なく口封じした。

 実に三人もの老人を血祭りに上げ、それを災害死に見せかけようとした華凛の母親だったが、程なくその罪は暴かれ逮捕された。


 避難所の人々の証言によれば、警察に逮捕される前、彼女は娘の華凛に向かって、こんな言葉を繰り返していたという。


『いい? あのことは絶対に誰にも話さないで。分かった華凛? 絶対によ。絶対に絶対に、誰にも話さないで――』



(了)

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