言葉と手

亜夷舞モコ/えず

言葉と手

 僕が彼女に課したたった一つの願いは、

「話さないでくれ」――だった。

 

 僕は自動車の試乗事故で声を失った。

 そして、彼女の命も。

 少し前に発明されたばかりだという自動車があんなにも不安定なものだとは思わなかった。

 車体は、僕の妻の体を押し潰し、殺した。

 燃料の油には火が付き、僕の喉を焼いた。

 僕は、喋れない。

 彼女は、いない。

 そんな絶望の時を、一人の女が打ち破った。

 女は東洋から来たと言い、薬を求めてイーストエンドにやってきた僕を呼び止めた。怪しげな甘い匂いをさせた、若い女だった。顔の下半分をベールで覆い、しっかりと顔は見せていなかったが。


「あなた、死に惹かれてますね」

「……」


 答える気にはならなかった。

 そもそも答えられないけど。

 薬に溺れた狂人の一人だと思ったからだ。


「大切な人を亡くされた……」


 その一言で、僕は彼女の胸倉をつかむ。


「おや、情熱的なお方」

「……」

「その命、呼び戻せるとしたら?」


 僕は手を離した。

 反魂の術、というらしい。

 東洋の魔術で。

 筆談で、彼女に尋ねる。


『代償は?』

「私への対価ならお金を、彼女のという意味では……彼女は話ができません」

『話ができない?』

「口を開けば、口から彼女の魂は再び解き放たれ、その体は再び土くれに戻るでしょう。それをお守りくださるよう」


 僕は彼女の言葉を信じ、妻を生き返らせることを望んだ。

 僕が喋れないんだ。

 彼女が口を開く必要はない。

 互いに文字で会話すればいい。

 魔術師への対価で、財産の殆どを持っていかれても、彼女がいるだけで幸せだった。

 


       ◇


 

 わたしが戻ってみれば、彼の生活は変わっていた。彼は話せなくなっていて、生活は質素になっていた。

 いくつかの会社の経営権も手放したみたい。

 でも、彼は幸せそうに笑っていた。

 彼は言う。


『海を渡らないか?』


 新天地を求め、アメリカへ。

 二人で旅立たないかという。

 わたしには、意見はない。異論もない。


『あなたに着いて行く』


 彼はほほ笑んで、出国の準備を始めた。




 

 反魂の術で呼ばれた時、魔術師はこう言っていた。

「あの人は、死に惹かれている」

「もしも守ってあげられるなら、あなただけだ」

 わたしは、その言葉がずっと気がかりだった。



 

 そして、わたしの不安の通りのことが起きてしまった。大西洋を渡る船が、事故により沈んでしまったのだ。

 逃げ遅れた私たちは、救命ボートに置いてゆかれ、冷たい夜の海に取り残される。

 二人で必死に泳いで、大きな板を見つける。

 それでも、ずっと海の中にいては死んでしまうだろう。

 わたしは、もう死んでいる。

 このままずっと生き続けてしまうんだろうか。彼もいないのに?


「おーい。誰かいないかー」


 沈没に巻き込まれないよう離れていたボートが戻ってくる。

 でも、彼はしゃべれない。

 喉を開いても、かすれた息が漏れるだけだ。

 そうか。

 このためだったんだ。

 自分の存在意義を、理解する。

 わたしは、彼の目を見つめる。

 震える体、冷たい血が回る脳で必死にその意味を理解したんだと思う。

 彼は、首を横に振った。

 それでも、

 彼との決まりを破ってでも、

 彼を失いたくはない。

「ここよ! ここにいるの。夫はしゃべれなくて、でも助けてあげて」

「おい、聞こえたか。船を向こうへ」


 わたしは、その声を聞いて安心する。

 そして、彼の耳に最後の言葉を残す。


「絶対に板を離さないで」

 あと、

「できればわたしの手も最後まで握っていてくれない?」


 彼は強く頷いてくれた。

 水の音が少しずつ近づいてくるうちに、わたしの意識は少しずつ遠くなって――


 

       ◇


 

 最後の言葉の通り、僕は彼女の手を握っていた。彼女の手を離さなかった。

 いや、離したくなかった。

 彼女の手が土に戻って、海に溶けて行ってもずっと握っていた。


 僕が助けられ、再び意識を取り戻した時病院のナースが言った。

「大切なものなんですよね。すっと握っていて、大変だったんですよ」

 ベッドの横のカウンターに光るものが置いてあった。

 彼女の指輪……。

 握っていたのは、左手だったね。

 絶対に放さないよ。


 シーツに、雫が零れた。

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言葉と手 亜夷舞モコ/えず @ezu_yoryo

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