【短編】もうはなさない その手を

Edy

お題「はなさないで」

 仕事終わりに同僚のジョンと夕食に行き、バーでNFLを見ながら飲み直す。それは花乃子かのこにとって、いつものルーティンだったが今回は少し違う。ジョンと手をずっとつないだままだったからだ。


 ニューヨーク・ジャイアンツのスーパープレイで店中が沸き立ち、チームを応援する二人はそれ以上にテンションを上げる。そんな中、いつの間にか手を握りあっていたのだ。


 気づいた時は、アメリカ人だけあってジョンの手は大きいとか、温かいとか、包み込んでくれているみたいとか、思った。


 それもつかの間の事で、急激に恥ずかしくなり手を振りほどく。


 花乃子は日本の大阪で生まれ育ったか気の強い女だ。自分ひとりの力でどこまでやれるのか試したくて故郷を離れ、海を越えてニューヨークまで来た。百戦錬磨のビジネスマンに囲まれて働いている彼女だが、異性の免疫力はないに等しい。


「いつまで握っとんねん!」


 突然、手を振りほどかれたジョンは呆気にとられていた。


「急にどしたん?」


 ジョンは花乃子と話す時に日本語、それも関西弁で話してくれる。大阪で暮らしていたらしく、なんばグランド花月に入り浸っていたエセ関西人だ。


 花乃子にとって故郷の言葉で話せるのは、自分の立ち位置を思い出させてくれるようで、実家のような安心感を与えてもらえる。そして二人だけの秘密を持っている気がしていた。


 ジョンを憎からず思っているだけに、恥ずかしさが倍増する。


「なんでもない! 帰る!」

「なんや知らんけど送ってくわ」

「いらん!」


 花乃子は夜の街へ駆け出た。顔が火照っているのは酔っているだけではないと自覚している。こういう時は、さっさと風呂に入って寝てしまうに限る。そして花乃子はその通りにした。


 翌日、昼過下がりのオフィス。文字も会話も全て英語で、そんな環境にいると身も心も引き締められる。


 しかし今日の花乃子は気持ちを切り変えられずにいた。そんな浮ついた心も一本の電話で吹き飛ぶ。言いがかかりでしかないクレームはよくあることだが、相手はかなり怒っている。


 花乃子のボスなら厳しい言葉で対応して、さっさと切るだろう。それでも誠実であれと思っていた。花乃子を口汚く罵りだすまでは。


 怒りが沸々とわき上がり、一気に爆発させるため息を大きく吸い込む。


 その時、彼女のパソコンがメッセージを受信した。社内チャットの個人宛で送られてきた文言はひと言の日本語。


『はなさないで』


 送り主のジョンは向かい合わせのデスクにいて、パソコン越しに花乃子へサムズアップしている。


 主語がない言葉から、花乃子が思い浮かべるのは昨夜の出来事だ。恥かしさのあまり手を振り解いてしまったが、それがジョンを傷つけたのかもしれない。ということはジョンも憎からず思っていてくれているのか。


 いや、それならサムズアップなどしない。でも、そうだったら、うれしいかも。そんな考えで浮ついたせいかクレーム主への対応がおろそかになり、罵声がヒートアップする。それでも花乃子は上辺だけの返事をしながら頭をフル回転させた。


 はなさないで、とは別の意図があるのかもしれない。なぜなら平仮名だからだ。


 離さないで。放さないで。話さないで。読みは違えど意味は異なる。最初の二つから思い浮かべられるのは、やはり昨夜の出来事だ。手を離してほしくない、というのはわかる。放すな、はジョンをつなぎとめておいてほしいという意味ととらえられなくもない。少し苦しいが、それ以外思いつかなかった。


 ジョンがそこまで思ってくれているなら良い返事を返してもいい。花乃子はむしろそうしたいと思っていた。素直に応えられるかは別として。


 クレームが怒鳴る声を、春のそよ風のように感じながら花乃子の思考は止まらない。


 しかし問題が残っている。最後のひとつ、話すなとは?


 もしかすると、クレーム主の怒りに飲まれて話さないで、と言いたいのではないか。


 冷静になってみればタイミング的にそれが一番妥当だ。


 向かいのデスクに目を向けると、ジョンは真剣な顔で自分の仕事をしている。花乃子の動向が気になっているようすはない。


 危うく、ぬか喜びさせられるところだった。花乃子はそう自分を律する。すでに舞い上がっていた自分を棚に上げて。


 そして冷えた頭でクレーム主への対応を粛々と始めた。相手の欲しているものを探り、落としどころを見つける。会社にダメージがなく、クレーム主も納得して通話が終了した。


 花乃子は立ち上がり、とびっきりの笑みでサムズアップする。相手から前向きな契約の更新を受けたとボスに報告すると、オフィス中が拍手と歓声で埋め尽くされた。


 次々と労いの言葉を受け、ようやく落ち着いた花乃子はジョンに言った。


「さっきはありがとうな、ジョン」

「うまくいって良かったわ」

「そんでな、メッセージのことなんやけど」


 花乃子の中では、はなさないで、がクレーム対応についてだと結論づけていたが、もうひとつの意味を捨てきれないでもいた。そうだとしたら、ちゃんと答えないと誠実ではない。それでも真意を確認せざる得なかった。これは逃げているわけでも、照れているわけでもない。絶対に。


「あれ、冷静になれってことやんな? な? な?」


 花乃子は、いたって平静に話しているつもりだったが、間違いなく声は上ずっていた。


 それなりに勇気を出して尋ねたのに、ジョンの答えはひどく短い。


「え?」

「え、ってなんなん? そんなら『はなさないで』ってどういう意味?」


 問いつめるとジョンは眉を寄せてしまったが、パソコンを見て額に手を当てる。


「タイプミスや。ローマ字入力、難しすぎるわ」

「どういうこと?」

「『ん』のあとに『な行』の文字打つ時って『n』を三回押さなあかんやん。普通に打つより一回多いやろ。日本語に慣れてるつもりやけど、まだまだや」


 そういえば、ニューヨークに来たばかりの頃を思い出す。花乃子がローマ字入力と漢字変換をしているのを見てジョンはアメージングと驚いていた。


 アメリカ人は日本語の入力を、とても複雑に感じているらしい。


「まあ、『n』が足りんくなるのはわからんでもないけど、ほんまは何て送るつもりやったん?」

「もっかい送るわ」


 向かい合わせのデスクから、カタカタとタイプ音が聞こえた。ジョンが打ったメッセージはネットワークを駆け抜けて花乃子のパソコンに届く。


『はなさんないで』


 しかし、花乃子はそれを見ても意味がわからない。


「もっとわからんくなったわ。それに、これが正解なら『n』が二個も足りんやん」

「ツッコミ、キレッキレやな。花さんキレる寸前やったかやろ。せやから急いで打ったら、こんなんになってしもた。そんで補足交えて書くとこうやな」


 メッセージがまた届く。


『花さん、(キレるのは)ないで』


 そこでやっと意図がつかめる。これはクレーム対応についてのメッセージで正しい。


 間違いなく、ジョンの手を離してほしくなかった、なんて思われていなかった。全て花乃子の妄想が暴走した結果でしかない。それは恥ずかしさを生み、怒りでごまかす。


「紛らわしいわ! 昨夜のことかと思うやろ。……その……手を放すなって意味かと……」


 話しているうちに花乃子の恥ずかしさが怒りを上回る。そのせいで語尾がどんどん小さくなっていった。


 そんな彼女をジョンは笑う。


「それやったら『はなさないで』やなしに『はなさんといて』って書くし、仕事の電話してる時には送らんわ」

「言われてみたら、そうやなあ」


 いろいろ勘違いして空回りしたが、結果とて上手くいったのはジョンのメッセージがあったからだ。それがわかっているから花乃子は素直に頭を下げられる。


「勘違いさせんなって言いたいとこやけど、ありがとうな、ジョン」

「かまへんで」


 ジョンは爽やかな笑みを浮かべていたが、真剣な顔で身を乗り出す。そして花乃子にしか聞こえない声でささやいた。


「花さんさえ良ければ、また手を握ろか? そのかわり次は何があっても離させんで」

「う、うっさい!」


 まっすぐに見つめてくるジョンから逃げるように、花乃子はパソコンの影に隠れた。


 しかし、耳まで真っ赤になってる顔は、しっかり見られていただろう。

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