2話
僕の家に二人で帰宅すると、由季菜は僕のことは忘れてしまっていても、この家で生活していたことは覚えていたようだった。僕に対しては戸惑うような態度を取ったが、家にはすぐに馴染んでいた。
夜になって、それまで僕らは一緒のベッドで寝ていたけれど、由季菜にとって初対面の男と眠ることは無理だろうと思ったので、僕は違う部屋で眠ることにした。
それぞれの寝室の前で「おやすみ」「・・・おやすみなさい」と言うと、僕は部屋のドアを開けた。
その時、背後から声が聞こえた。
「
聞き間違いかと思って、僕は驚いて振り向いた。だってそれは僕の本名、彼女が忘れてしまったはずの名前だった。
「由季菜・・・?」
様子を窺うと、僕の名をつぶやいた彼女は急に目を見開いた。その顔は恐怖に怯えていた。
記憶喪失が治ったのだと思った。僕の事と、忌まわしい事件のことを思い出したのだと思った。しかし、動揺しながら「あ・・・」と呟いた後、由季菜は突然表情を変えた。恐怖の面持ちは消え、ぼんやりとした顔で視線を彷徨わせている。その間の時間は僅か5秒程だった。
由季菜ははっきりとした表情を取り戻した後、取り繕うように笑った。
「・・・ごめんなさい、私、いま何か言いましたっけ?」
本当に状況が飲み込めなくて笑顔で誤魔化しているようだった。記憶が戻ったのは一瞬だけだったのだ、と僕は思った。
「ううん、何も。疲れただろうから、早く寝た方がいいよ。おやすみ」
由季菜に挨拶をした僕は後ろ手で部屋のドアを閉めると、その場に座り込んだ。両手で顔を覆い、短く息を吐き出した。自分の罪というものをここまで色濃く感じたのは人生で初めてだった。
それから由季菜は一日に5秒程、記憶を取り戻す瞬間があった。僕を恐怖の眼差しで見つめ、またすぐに元の状態に戻る。常に一緒に居るわけではないからその現場を目撃しない日もあったけれど、一日中二人で居る日は必ずと言っていい程遭遇するので、おそらく毎日、僅かな時間記憶を取り戻しているのだろうと思った。
一ヶ月、そういった状態が続き、毎日やってくるその5秒は僕への罰に感じた。由季菜は徐々に僕へ慣れていき、元の生活を取り戻しつつあったが、日毎訪れるその5秒間が僕に自分が犯した罪を忘れさせまいとした。
記憶を取り戻すタイミングはまちまちだった。休日、一緒に映画を見ている時に突然ソファーから立ち上がったり、夕食を向かい合って食べている時に箸を取り落としたり、大学に行く彼女を玄関まで見送った際に、ドアを開けながら「行ってきます」と笑顔で言った彼女の表情が直後硬直したりと様々だった。
それでも、その5秒間を除けば僕らの生活は順調だった。何せ、彼女が事件の事を思い出すのはほんの一瞬なのだ。それでこの生活に支障が出るはずもなかった。
ある日僕が居間で自分のスマートフォンをいじっていると、突然電波が届かなくなり、ネット環境にアクセスできなくなった。自分の携帯の問題なのか携帯会社の問題なのか確認したくなった僕は、隣に居た由季菜に「ネット繋がってる?」と聞いた。ちょうど彼女もスマートフォンを操作していた為聞きながら覗き込むと、由季菜は驚いたように肩をすくめ、携帯の画面を僕に見えないようにした。僕が不思議そうにまばたきすると、由季菜は「あ・・・」と言った後、「私は大丈夫だよ」と返してきた。彼女の行動に関して、携帯はプライバシーの塊だから僕はあまり気にしなかった。むしろ自分の行動が軽率だったと反省した。由季菜は携帯で漫画をよく読んでいるので、少女漫画でも読んでいて見られたくなかったのだろうと思った。
事件から二ヶ月程経った日、共に休日だった僕らはソファーに並んで座り、僕はパソコンで大学の講義に関する調べ物をしていて、由季菜は読書をしていた。静かだが平穏な時間が流れていた。いつもと変わらない休日のひと時。そのはずだった。
けれど突然由季菜がはっとしたように文庫本をテーブルに置き、そのまま何か少し考えるように固まった。ああ、また思い出したんだな。いつも通りのはずだった。しかし由季菜は大急ぎで傍に置いてあった自分のバッグを漁ると、クマのぬいぐるみのキーホルダーに取り付けられた鍵を取り出した。それは彼女が使っているこの家の鍵だった。僕が何事かと様子を窺っていると、由季菜は悲しみと決意のようなものが混ざった顔で僕を振り返り、鍵を僕の手に押し付けた。そして今にも泣き出しそうな顔で「自由になって」と僕に告げると、スマートフォンとバッグを手に取り部屋を駆け出して行ってしまった。残された僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。
由季菜が部屋を出て行く瞬間、彼女の手元から見えたスマートフォンの画面に、「家を出て行く」と書いたメモ書きの写真が見えた。一回5秒間のフラッシュバックでは何も出来ないだろうと思っていたが、彼女は毎日の5秒間の積み重ねの中で記憶を繋げていって、自分がここに居てはいけないという結論に至ったのかもしれなかった。
携帯の画面に「家を出て行く」と表示させておいたのは、いざ出て行った後また記憶が失くなっても、無事に家出を完遂する為だったのだろう。短いフラッシュバックの中で待ち受けをその画面にしたはいいものの、普段は何のことだかよく分からなかったに違いない。
僕は急いで家の外に出た。必死に辺りを見回したが、若いカップルらしき通行人と、犬の散歩をしている女性が居ただけで、由季菜の姿は見えなかった。家の周りをあちこち捜してみたが、彼女を発見することはなかった。由季菜は今、何故自分が家出をしているのか分からないまま、必死に走っているのかもしれなかった。
彼女が今日記憶を取り戻してから鍵を僕に押し付けるまでの時間は、いつもの5秒間よりいくらか長かった。記憶が蘇った時間が多かったことが彼女の悲壮な決意を実行に移させた。それが何だかとても皮肉に思えて、近くにあったアパートの柵に寄り掛かった僕は、額を抑えて俯くと「ごめん、ごめん」と呟き、覆った手の下からひとすじの涙を流した。
5秒間の再会 深雪 了 @ryo_naoi
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