5秒間の再会
深雪 了
1話
ソファーで隣に腰掛けていた彼女が動きを止めたのを見て、あ、来たな、と思った。
左に居た“僕”の顔をばっと振り返るように見て、目を見開く。表情の種類は、恐怖。そして食い入るように僕を見つめて何かを考えていたが、5秒程経った頃、その瞳から急にふっと力が抜ける。自分は今何を考えていたのだろうという顔をする。そうやってしばらく不思議そうにしていたが、由季菜はそれまでしていた動作——ティーカップの紅茶をかき混ぜて飲むという行為を再開した。
僕の本来の名前は河寺
しかし一日の中でほんの僅かな時間だけ、それらを急に思い出すことがある。
僕を見て、一瞬時が止まったような顔をして、また元の表情に戻る。僕を思い出して、また忘れる。その繰り返しだった。
辛くないと言えば嘘になる。河寺
由季菜とは一年前——僕達が十九歳の時に交際を始めたが、それからしばらくして由季菜が母親から虐待を受けていた事を知った。僕の家でくつろいでいる時に見つけた、不自然な場所に出来た大きな痣を指摘したら打ち明けてくれた。
彼女が教えてくれたことは、由季菜はずっと母親と二人暮らしだということ。常時虐待を受けている訳ではないけれど、母親の気に障ることをしてしまうと殴られたり、ひどい時は丸イスを頭に振り下ろされたりしたこと。湯を張った浴槽に顔を突っ込まされたこともあったそうだ。
話を聞いてすぐに、僕は由季菜を僕の家に住ませることにした。もう由季菜も大人だし、距離さえ取れば大きな問題は起きないだろう。・・・最初はそう思っていた。
しかし由季菜の母親は、虫の居所が悪くなる度に由季菜に電話を掛けてきて、彼女を怒鳴り散らした。その頻度は決して少ないものではなく、週に二、三度電話が来ることも珍しくなかった。
僕の家にやって来た頃の幸せそうだった由季菜は段々と疲弊していった。表情は沈んでいることが多く、いつ母親から電話が掛かってくるかと怯えていた。
そして、一ヶ月前。僕が家を一日空けていた日に、由季菜は母親に呼び出された。当然、何の用事だろうかという疑問と、またストレスの捌け口にされるのではないかという恐怖が彼女にはあった。しかし母親に従わなかった場合、どんなひどい仕打ちをされるか分からないという恐怖の方が上回った由季菜は生家を訪れた。
そこで彼女を待っていたのは、数ヶ月ぶりの母親からの折檻だった。部屋の整理整頓をしていたら、由季菜の卒業アルバムが落ちてきて手をかすり、軽い怪我をしたそうだ。そのことで母親は大声で由季菜を罵り、挙句の果てにその卒業アルバムの角で由季菜の頭を何度も打った。床に倒れた彼女に蹴りも入れていたという。気が済んだ母親にやっと解放され逃げ帰ってきた彼女は、少し前に帰宅していた僕に泣きながら縋り付いた。最初は驚き、憤りを覚えながら話を聞いていた僕だったが、時間が経つにつれて静かに今後の事を考え始めた。
“——由季菜の母親を消さなければ。——”
その日の夜、僕の隣で泣きながら眠る由季菜を横目に、僕はそう決心した。この決断が別の歪みを招いてしまうとは思っていなかったし、由季菜をとても大事に思っていた僕は、長年彼女を傷つけて人生をめちゃくちゃにした母親が許せなかったのだ。
僕が由季菜の母親を消したことは、警察にはもちろん、由季菜にも知られないようにしないといけなかった。実行の日、由季菜の生家に行き呼び鈴を押して母親が出て来たところを家に押し入った僕は、まず母親を包丁で刺殺した。由季菜が受けてきた仕打ちを考えると何度も滅多刺しにしてやらないと気が済まなかったが、強盗の犯行に見せかけたかったので何とか我慢した。そして家の中を物色するかのように色々な引き出しを開けて部屋を荒らし、見つけた通帳と財布を鞄にしまった。もちろんこれも強盗の仕業に見せる為の手段であり、後々交番の前にでもこっそり置いておくつもりだった。
けれど、予想外の事が起きた。部屋をあらかた荒らし、そろそろ退散しようと思って玄関に向かった時、突然家のドアが開かれた。
そこに立っていたのは由季菜だった。有り得ない誤算だった。彼女が今日ここに来るなんて聞いていなかった。僕も驚いたけど、由季菜も驚いて僕を見つめた。そしてすぐに、足元に転がる血を流した母親を見つけると、彼女は口元を両手で覆い、目を見開くと叫び声を上げた。僕はすぐに、ごめん、落ち着いて、こうするしかなかったんだと由季菜をなだめた。けれど由季菜は蒼白な顔面のままその場に座り込み、明らかに冷静さを失っていた。僕は震える彼女の腕をずっとさすっていた。
由季菜は玄関の壁に背中を預けたまま、「・・・ごめんなさい、・・・ごめんなさい・・・」と呟いていた。僕はとにかくこの場から早く離れなければと思い、由季菜に声をかけ、もつれ足の彼女の手を引いて家を出ると、近所の公園に入りベンチに座った。僕が背中を支えないと崩れ落ちそうな由季菜は依然として放心したまま「ごめんなさい」と言っていたが、ある時急に恐怖で固まっていた彼女の顔がふっと弛緩した。肩からは力が抜け、うつむきがちだった顔が更に下がり、瞳からは生気が無くなった。その目には何も映していないかのようだった。何事かと思い僕が何度か名前を呼ぶと、やっとその声が届いたらしい彼女は僕を振り返り、こう言った。
「どちら様・・・ですか?」
その言葉を聞いた僕はすぐに事態を飲み込み、ああやってしまった、と思った。実家の玄関で、目の前の惨状に耐えきれなかった彼女の脳はおそらく家で見た事を封印してしまったのだ。
「僕」のことも、事件と深く結びついているので脳の奥底に仕舞ってしまった。これは僕の憶測でしかないが、由季菜が「ごめんなさい」と言っていた事を考えると、きっと優しい彼女は自分のせいで母親が殺され、また僕が母親を手にかけざるをえなくなったと思ってしまったのだろう。そのショックと呵責に耐えきれなくなった彼女は記憶を手放してしまった。
他人になりすまさなければならないと決断した時の苦しみは今でもよく覚えている。
「僕は萩ノ井
とっさに浮かんだ小学校時代の同級生の名前を口にした。僕をぼんやりと見つめていた由季菜は首を横に振った。
試しに由季菜の名前や通っている大学のことなどを聞いてみると、彼女は全て覚えていた。本当に、先刻目にしたものと、僕のことだけを忘れてしまったようだった。
念のため由季菜を病院に連れて行った。病院で事情を説明するためには警察へも連絡しなければいけなかった。僕としては少しでも遅いタイミングでの事件発覚を望んだが、こうなってしまった以上仕方がなかった。僕は由季菜が実家に赴いた際に母親を発見し、錯乱した彼女はまず僕に連絡をして僕が駆け付けたと説明した。実家から公園へ向かう間のことも由季菜は覚えていなかった為、彼女が疑問を覚える余地は無いようだった。
病院で新たにわかったことは無かった。やはり由季菜はほとんどの記憶を持っていたけれど、事件のことに関しては聞かれても困った顔をするだけだった。
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