屮挲莫
伊島糸雨
屮挲莫
水槽を扱う時は素手でやれ、と先輩は言う。水が入っていようがなかろうが、真冬だろうがなんだろうが、例外はないと聞いて私はすぐに辞めたくなった。水槽を眺めるのが好きで、植物の世話が好きで、それらが偶然合致するからと誘いに乗ったのが間違っていた。指先が綺麗なのが自慢だったのに、ひと月も経つとあかぎれとさかむけで心まで荒んだ。ハンドクリームが手放せなくなり、絆創膏が常備品に追加された。
それでも私が残ったのは、単に
「絶対に若芽には触れないこと」
顔も見たことのない店長に代わって、先輩は私に忠告した。なんでも、
大学のあと店に向かうと、先輩は決まって
先輩の手は例によって荒れ放題で、自分で労わる様子もないので、ことあるごとに私が直接ケアをしていた。さかむけは無理に剥がすべきでなく、放置するのも望ましくない。爪切りで端を落とし、ざらつく手を握ってハンドクリームを塗りつける。軋むスツールに浅く腰掛けながら、先輩はされるがまま、骨の浮いた指先を晒している。まるで
「いつまで続けるつもりですか」
訊ねると、先輩は緩く首を振って応える。その仕草の意味するところを私は正しく推察できない。ただ、他に答えようがないことだけは、不思議なほどすんなりと得心ができるのだった。
「あと少し」
硝子を透かす西日は水槽の青と混じり合い、光と翳の渦が先輩の横顔を切り出している。私は
咲きかけていた
「若芽には、触れないようにね」
空の水槽を持ち上げながら、いつかのように忠告する。
荒れるに任せた指先は、今も確かに、疼いている。
屮挲莫 伊島糸雨 @shiu_itoh
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