屮挲莫

伊島糸雨

屮挲莫


 水槽を扱う時は素手でやれ、と先輩は言う。水が入っていようがなかろうが、真冬だろうがなんだろうが、例外はないと聞いて私はすぐに辞めたくなった。水槽を眺めるのが好きで、植物の世話が好きで、それらが偶然合致するからと誘いに乗ったのが間違っていた。指先が綺麗なのが自慢だったのに、ひと月も経つとあかぎれとさかむけで心まで荒んだ。ハンドクリームが手放せなくなり、絆創膏が常備品に追加された。

 それでも私が残ったのは、単に屮挲莫ささくれを扱えるのがここしかないからだった。希少で、気難しく、生育に極めて時間のかかる屮挲莫ささくれは、所有者が所有の事実を隠すほど貴重なものだ。たとえ、バイト先が寂れた下町のよくわからない路地にある草臥くたびれた観賞魚店でも、手が瞬く間にボロボロになろうとも、その一点だけで耐えていられた。先輩が続けているのも同様の理由らしく、この偶然だけは喜ぼうと思った。

「絶対に若芽には触れないこと」

 顔も見たことのない店長に代わって、先輩は私に忠告した。なんでも、屮挲莫ささくれの柔く滑らかな若芽は外部からの刺激にめっぽう弱く、ほんの少し接触しただけで立ち所に衰弱してしまうのだという。そこで、わずかでも危険を減らすために化学製品を介さない素手が良いと言うのだが、信憑性は正直怪しい。伝え聞く経験則の他には、それらしい言説すら届かなかった。

 大学のあと店に向かうと、先輩は決まって屮挲莫ささくれの水槽を眺めていた。所狭しと並ぶ他の水槽では色とりどりの金魚や熱帯魚がゆるやかに揺れ、薄暗い店内を仄青い光が照らしている。狭い自動ドアを潜って声をかける。先輩は「うん」と応えるのみで、私がエプロンをして戻ってくるまでじっとしている。たいして客が来るでもなく、時間のほとんどは二人で過ごす。ごく稀に来る客も店内をウロウロして水槽を眺めては去っていくばかりで、いったいどこから利益が出ているのか私には皆目見当がつかない。寡黙な先輩は必要な時しか口を開かず、私とて特段話題があるでもない。酸素を送り込む駆動音と泡沫の瞬きばかりが生きており、私は時々、自分がどこにもいないような錯覚を覚える。名前だけが先行し実態の定かでない屮挲莫ささくれも、いつまで経っても輪郭の曖昧な先輩も、忘れ去られたようなこの店も、あらゆるものが時間と空間の陥穽に取り残されている。それはまさしく、触れることのできない類のものだ。

 無闇矢鱈むやみやたらと触れるべきでなく、そっとしておくのが良いこともある。秘密、静謐、陰翳、幼年期。ひとたび干渉すれば崩れ去ってしまう安穏は、信仰される禁忌とよく似ている。相対する私たちに防護服はない。ありのままに曝け出された素肌だけが、関係を持たないことの意義を察している。

 先輩の手は例によって荒れ放題で、自分で労わる様子もないので、ことあるごとに私が直接ケアをしていた。さかむけは無理に剥がすべきでなく、放置するのも望ましくない。爪切りで端を落とし、ざらつく手を握ってハンドクリームを塗りつける。軋むスツールに浅く腰掛けながら、先輩はされるがまま、骨の浮いた指先を晒している。まるで屮挲莫ささくれのようだと私は思う。奇妙で、繊細で、その若芽の内に何か秘密を隠して見える。

「いつまで続けるつもりですか」

 訊ねると、先輩は緩く首を振って応える。その仕草の意味するところを私は正しく推察できない。ただ、他に答えようがないことだけは、不思議なほどすんなりと得心ができるのだった。

 屮挲莫ささくれの若芽があるうちは、水槽の掃除もろくにできない。背を伸ばし、蕾を膨らませ、花開いてようやく、私たちはそれを摘むことができる。屮挲莫ささくれの価値は永遠でなく、開花の後は路地裏の吐瀉物と相違ない。

「あと少し」

 硝子を透かす西日は水槽の青と混じり合い、光と翳の渦が先輩の横顔を切り出している。私は屮挲莫ささくれを眺める先輩を見つめている。零落する曲線は美しく、そうした無為の営みこそが、私たちを魅了してやまないのだと私は悟る。荒れた手を水槽の光に翳している。果実の香りは、崩れる時ほど甘いものだ。

 咲きかけていた屮挲莫ささくれひと株と、輪郭の曖昧な気配をひとつ。消えたのはそれだけで、それ以外の一切は何ひとつとして変わることがない。店は今もそこにあり、水槽の中では魚たちは揺蕩たゆたっている。屮挲莫ささくれは未だ醒めぬまま、私は何度でも空虚な水槽を見つめるだろう。

「若芽には、触れないようにね」

 空の水槽を持ち上げながら、いつかのように忠告する。屮挲莫ささくれを眺める後輩の、返される声の快活に私は笑う。

 荒れるに任せた指先は、今も確かに、疼いている。

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屮挲莫 伊島糸雨 @shiu_itoh

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