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 真尋の瞳におのれの姿が映ったとき、朔弥は、己の魂が怨霊と化してしまったことを知った。自分が、どれだけの人間を手にかけたのかも。

 あぁ、でも、真尋は無事だ――

 朔弥は安堵する。真尋が生きている。ただそれだけが、救いだった。

――すまない、真尋。

 朔弥は真尋から離れる。怨霊となった者の自我は、長くはもたない。いずれ己も自我を失い、真尋に襲いかかるだろう。そうなる前に、消えなければ。

 朔弥は自身に、怨霊を清める術をかけた。

 赤い光が、朔弥を包む。

 ずっと、守ってやりたかった。

 寂しがりで寒がりな息子を。

 頭を撫でて、抱きしめて。

 安心と希望を与えて。

 健やかな笑顔を、守り続けていたかった。

 朔弥の魂が、黄泉よみへと流れていく。

 安らかな闇が、朔弥を迎える。

 灯子は、もう、先に逝っただろうか。

 すまない、灯子。そなたを、私は守れなかった。

 生まれてくる子も死なせてしまった。

 朔弥は目を閉じる。黄泉の闇が、朔弥を覆い、沈めていく。

 ふと、まぶたの先に、光を感じた。

 ほのかな赤い光。

 朔弥は、そっと、目を開ける。

 静寂に満ちた闇の中に、微かに、声が響く。

――父上、母上。

 真尋の呼ぶ声だ。真尋が呼んでいる。泣きながら、父と母を呼んでいる。

 声とともに、赤い光が強くなる。それは闇の中、一筋の光となって朔弥に届いた。

――真尋。

 戻れるのか。

 還れるのか。

 もう一度、妻と子と共に暮らせるのか。

 この呼び声に応えれば。

 真尋のもとへ行けるのか。

 泣き止ませてやれるのか。

 抱きしめて。

 頭を撫でて。

 笑って。

「っ……真尋!」

 応える。

 光の先に、手を伸ばす。

 ただひたすらに、父でありたかった。

 子のための父で、ありたかった。



 微かに夜風が頬を撫で、朔弥は目を開けた。まだ乾ききらない、血に濡れた板敷の床が、目の前に広がっている。自分は今、倒れているのか。強張こわばった腕を、そろそろと引き寄せ、身を起こす。

 静かだった。雲間から、傾きかけた月の光が、白々と射している。

 かすみのかかっていた意識が、次第に晴れてくる。

 そうだ、自分は、北條家の者に斬られて――

「っ、真尋……!」

 はっと顔を上げ、視線を巡らす。

 かたわらに、真尋は座りこんでいた。

「真尋!」

 夢中で息子を抱きしめる。

 すまなかった。怖い思いをさせて、つらく悲しい思いをさせて……だが、もう、大丈夫だ。もう一度、皆で暮らそう――

「……真尋?」

 異変を感じ、朔弥は真尋を見た。真尋の瞳は、ぼんやりと虚空を見つめている。 顔にも表情がない。体は確かに温かく、生きているのに、そこには、なんの意志も宿っていない。

「……まさか……」

 朔弥は真尋の胸もとを見る。

 千切れた御統みすまるの糸が、えりもとに垂れ下がっていた。

「……御統を……使ったのか……真尋……」

 朔弥は茫然と呟く。喜びの衝動は熱を収め、代わりに広がった冷静さが、残酷な結果を知らしめていく。

 朔弥の体に、胸を打つ拍動はなかった。

 真尋と自身の状態を、朔弥は悟った。

 幼い真尋の力では、蘇りの術は、不完全だった。

 御統を使った代償に、真尋は命こそ保ったものの、その身は魂を失っていた。

 そして朔弥は、魂こそ還ったものの、その身の命は失われたままだ。

「……真尋……」

 真尋の体を抱きしめる。体は温かく、胸の音も伝わってくるのに、真尋の両手は垂れたまま、朔弥の背中にまわることはなかった。まるで人形のように。

「……すまない、真尋……」

 真尋の手を握り、朔弥は立ち上がる。

 心を失っても朔弥のことは分かるのか、朔弥が手を引けば、真尋は、ぼんやりとついてくる。

 月明かりの下、朔弥は真尋と共に、灯子を探した。

 灯子は蘇らなかった。

 術が不完全だったからかもしれない。

 真尋の声が届かないほど、黄泉の深くに逝ってしまっていたのかもしれない。

 あるいは聡明な彼女のことだ。真尋の呼び声に、応えなかったのかもしれない。

「……灯子」

 桜の木の下に、灯子は、手折られた花のように倒れていた。

 最後まで、胎の子をかばいながら。

「……すまない……」

 抱き上げ、抱きしめる。

 詫びる言葉を繰り返し、朔弥は肩を震わせた。



 夜空が次第に藍を薄めていく。

 妻と胎の子をとむらい、朔弥は真尋を連れ、夜が明ける前にやしきを出た。

 親しんだ都をあとにする。

 国は広く、あてもない。途方もない旅が始まる。

 だが、行かなければならなかった。

 散り散りに飛び去った御統の玉は、落ちた先で荒魂あらみたまを生みかねない。

 探し出し、再び連ね、封印しなければ。

「真尋」

 呼ぶ。表情はなく、瞳も合わず、言葉を発することもない。それでも朔弥が歩き出すと、その後ろに、真尋も続く。


 黎明の光が、遠く滲んでいた。

 唇を引き結び、朔弥は決意を秘めた瞳で、前を見据えた。


 真尋の手を引き、朔弥は歩む。

 御統を封印するため、そして、真尋の魂を取り戻し、みずからを葬るために。

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