花篝ノ章

2-1-1

 遠き日を いまに映すか 真澄鏡まそかがみ

 花なきあとも 面影おもかげに見ゆ



 蝉時雨が、盛りを過ぎゆく夏を引き留めるように、けたたましい音を立てて降り注いでいる。林を吹き抜ける風は、からりと乾いて、北国らしい涼やかさを感じるものの、一度ひとたび、木陰を出れば、陽射しは肌をあぶるほどに強く、じっとりと汗ばんでくる。

 もう少しだ。この山を越えれば、次の村に着く。首にかけた布切れでひたいぬぐうと、青年――縁斗よりとは、かついだ荷を背負い直した。としは二十の半ばほど。緩い癖のある焦茶こげちゃの髪を、頭の後ろで無造作に束ね、小柄で細身の体に、松葉色の衣をまとっている。

 山を登りきると、その先は急な下り坂になっていた。しばらく歩いて林を抜ける。すると、急に視界が開け、僅かに緑の穂をつけ始めたばかりの青々とした棚田が、一面に広がった。来し方に見た故郷の風景と重なり、縁斗は、ぐっと唇を引き結ぶ。故郷の村につかの間の帰還を果たした後、再び南方の国府に戻る途中であった。押し寄せる感傷に、縁斗は、しばし、棚田を見つめてたたずんでいた。

 ふと、風と稲のそよぐ音に混じって、笛のが、縁斗の耳をかすめた。伸びやかに澄んだ優美な音色。誘われるように、縁斗は歩みを向けた。

 畦道あぜみちを進んだ先、小さなほこらまつる広場に、人だかりができていた。朝の農作業を終えた村人たちが集まっている。

 人垣の向こうに、ふたりの影が見えた。

 ひとりは、縁斗と同い年くらいの青年。笛の音は、彼が吹いているものだ。深緋こきあけ単衣ひとえ黒鳶くろとびの上衣をまとい、真直ぐな長い髪を右肩の上で、真朱の組紐で緩く束ねている。すらりとした長い指と、涼やかな薄い唇が、滑らかに流麗な音色を奏で、まつげを伏せた姿は一枚の絵のように美しいたたずまいをしている。

 もうひとりは、十歳くらいの少年。浅緋の衣を纏い、背中にかかる髪を、青年と揃いの真朱の組紐で、うなじの上で束ねている。青年の笛に合わせて、少年は扇を手に、ひらりひらりと舞っていた。無垢でありながら稚拙さのない、清純な所作。

 縁斗は思わず息を呑んだ。あれほどけたたましく鳴り響いていたはずの蝉の声も遠くひそまり、呼吸さえ忘れるほどに、青年の笛に聴き入り、少年の舞に目を奪われていた。青年と少年の周りだけ、悠久の時の流れにいるような、静謐で清澄な空気に満ちている。優美な笛と優雅な舞。旅芸人だろうか……いや、そうは見えない。これまでの道中で、笛や舞を披露する旅芸人を何度か目にしたが、彼らの芸とは、雰囲気が異なっている。この青年と少年の芸は、縁斗が過去に一度だけ国庁の神事で目にしたことのある、奉納の舞に似ていた。

 笛の音が止む。舞が終わる。

 村人たちから、拍手と喝采が上がった。

「こんな辺鄙へんぴな村に、旅芸人が来るなんて珍しいねぇ。皆、山裾の、街道筋を通るもの。いやぁ、おかげで良いものを見せてもらったよ」

「兄ちゃんの笛も見事だったが、わっぱの舞も綺麗だったなぁ。ほれ、おやつに干しいいを甘くしたのをやろう」

 村人が、葉で包んだ干し飯を少年に差し出す。

 ところが、少年は、喜んで受け取るどころか、ぼんやりと虚空を見つめたまま、動かない。あんなに軽やかに舞っていたのが嘘のようだ。

 怪訝な顔をした村人に、青年が、すっと少年の前に出て、村人に頭を下げる。

「……その童、どっか悪いのかい?」

 気遣わしげに眉尻を下げた村人に、青年は小さく苦笑した。

「……ところで、この辺りの土地で、ここ二、三年の間に、災害に見舞われたり、何か変わったことが起きたりといったうわさを耳にされたことはありますか?」

 青年は、さりげなく話題を変えて尋ねた。

 村人たちは小首をかしげ、顔を見合わせる。

「そういえば……」

 一人が、ふと思い出したように、あごに手をる。

「人づてに聞いた話だが……この東の山向こうにある村が、先月、酷い大雨に遭ったらしくてな……川があふれて人も家も畑も流されたうえ、ついには山ごと崩れて、村ひとつ泥に埋まっちまったらしい」

「あぁ、そういえば、そんな話があったなぁ……うちの村は何もなかったのに……山ひとつ違うだけで恐ろしいものだよ」

「そりゃあ、あんた、うちらの神さんは、皆で丁寧におまつりしているもの。朝晩、欠かさずおそなえ物もしてさ。たたられるいわれはないよ」

 村人たちが、口々にささやく。

「……そうですか」

 青年は小さく微笑み、眼下に広がる棚田を見晴るかす。

「確かに、こちらの地主神は、とても穏やかに、健やかに在らせられる」

 慈しむように目を細め、これから訪れる秋の実りを祈るように手を合わせた後、青年は村人たちに向き直り、一礼した。

「行くのかい? 危ないよ。荒ぶった山には、ろくなことがない」

「承知しています……だからこそ、向かいたいのです」

「えぇ? 悪いことは言わないから、やめておいたほうがええと思うけども……」

「何かわけがあるんさね……わっぱも連れていることだし、行くなら本当に気をつけてな」

 困惑の表情を浮かべながらも、村人たちは彼らを案じつつ見送った。

 微笑を置いて、青年は少年の手を引き、東の山へと歩いていく。

「……おや、あんたも、旅人さんかい?」

 青年たちを見送った村人の一人が、縁斗に気づいて振り向く。

「はい……申し訳ありませんが、少々、竹筒に水を分けていただきたく……」

「今日は千客万来だねぇ。お安い御用だよ。ちょっと待ってな」

 村人はこころよく、水を汲んできてくれた。

 ありがたく受け取りながら、縁斗は少し気になって尋ねる。

「あの……さっき、ここで芸をしていた者たちは……?」

「さてね……ずっと南のほうから来たらしいよ。なんでも、この国中を、くまなく廻っているのだってさ」

 おかげで思いがけず良い芸を楽しめたよと、村人は笑った。

「……国中を、くまなく……」

 縁斗は、彼らの向かった東の山を見つめる。泥で埋まったという村のことも気になった。生き残った者は、いるのだろうか。もし、いるなら、水害の後に流行する疫病に苦しんではいないか。助けを必要としている者はいないか。もしかしたら、自分も何か役に立てるかもしれない――。

 唇を引き結び、縁斗は、彼らの後を追いかけた。

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