1-4-3

 ほこらから御統みすまるを取り出した母は、それを真尋の首にかけた。清めの水に濡れていた御統は、みるみる乾き、駆ける真尋の胸の上で、澄んだ音を奏でて揺れる。

 父たちが追手を阻んでくれているおかげか、真尋たちは敵に出くわすことなく、邸の裏手に辿り着いた。

「先に私が様子を見てまいります。無事に外へ出られたら、最寄りの家臣へ、助けを求めに行きましょう」

 護衛が、つるぎを手に、隠し扉を開く。

 注意深く、外へ出た、瞬間――

 風を切る鋭い音がして、護衛は仰向けに地面に転がった。

 胸に、深々と、矢が突き刺さっている。

「だ……め、です……囲まれ……て……」

 ただ一言、それだけ伝えて、護衛は動かなくなった。

 真尋は悲鳴も忘れ、目を見開いた。人が目の前で殺される瞬間を、真尋は生まれて初めて目にした。

 立ちすくむ真尋の手を、母が強く握って引く。

「真尋。こちらへ」

 月明かりを頼りに、邸の裏手を進む。

 建ち並ぶ蔵の一棟を開け、中に入った。

「ここに隠れるのです。真尋なら入れるでしょう」

 使われていないひつがあった。真尋の背丈なら、手足を縮めれば中に身を隠せる。

「母上は……?」

 震える声で、真尋は母を見上げる。

 母は微笑んだ。

「私は、別の場所に隠れます。良いですね、真尋。助けが来るまで、決して出てはなりませんよ」

 母の両手が、真尋の頬を包む。その手は、微かに震えていた。

 真尋は唇を引き結ぶ。

 守れるように強くなると、誓ったのに。

 今の自分は、まだ、子どもで。

 無力で。

 守られるばかりで。

「良い子でね、真尋」

 櫃の蓋が閉められる。

 瞳に雫が滲むのを、真尋は瞬きをして堪えた。

 息を殺し、真尋は必死で、祈る。

 神様。かみさま。

 どうか、父上と母上を、守ってください。

 皆を、守ってください――



+



 血だまりの広がる板敷に、敵も味方も、区別なく、折り重なるように倒れている。

「そろそろ諦めたらどうだ? 敵ながら、よくここまで抗い、持ち堪えたものだが……味方の者たちは皆死んだぞ。きさまも、その傷では、もう長くは動けまい」

 満勝が口角を上げる。北條の私兵たちが、朔弥を取り囲み、剣先を向けている。

「神に仕える身で……欲に心を喰われたか、北條」

 滲む血に衣を染めながら、朔弥は満勝をにらみ据える。

 鼻を鳴らし、満勝は口の端を歪めた。

「違うな。我らは神に仕える前に人の身。欲を喰らって生きるのが人だ」

 欲は生き甲斐、生きる意味、生きる実感なのだ。

「きさまは、みずから望んで手に入れたものはあるか? 望んだものが手に入る喜びは、なにものにも代えがたい美酒だ。それが、長年の悲願であれば、なおさら」

 満勝は喉の奥で笑った。朔弥は血の伝う手で、つるぎを握り直す。斬り合いの最中さなか、満雅の姿が見えなくなった。灯子と真尋を追ったのだろうか。どうか無事に逃れてくれと、剣を持つ手に力を込める。

「滅べ、南條」

 満勝が剣先を朔弥に向ける。それを合図に、朔弥を取り囲んでいた兵が、一斉に朔弥に斬りかかった。

 剣と剣のぶつかる音が激しく響く。振り下ろされる刃を防ぎ、素早くはじいて斬り払う。

 だが、全ては防ぎきれない。

 拮抗する刃。背後に迫る白刃がひらめく。

 刹那。

「朔弥……っ!」

 身に馴染んだ声が、朔弥の耳を打った。

 背中から斬りかかられたはずの刃は、朔弥に届かず、けたたましい金属音が響き渡る。

 朔弥の後ろに飛びこんだ人影が、朔弥に打ち下ろされた刃を、防いでいた。

「満継……!」

 相対していた兵をはじき、朔弥は振り返る。

 同時に満継も、相手の刃を退け、朔弥と背中合わせに立った。

「どうして……」

「うるさい!」

 朔弥の問いかけを、満継は遮った。

「なぜだろうな……なぜ私は、己が一族に刃向かうなど、しているのだろうな……おまえが全てを失えば良いと、呪ったことさえ、あるというのに…………それでも、私は……っ」


「親友を、見殺しにすることはできなかった……!」


 兵の刃が、ふたりに向かう。

 背中合わせに防ぎ、拮抗する。

 兵の一人を退しりぞけた満継に、次の刃が光を放つ。

「おまえは、本当に、一族の出来損ないだな」

 満勝の刃だった。唇を引き結び、満継は、それを正面から受けとめた。

「出来損ないで、構いません」

 満勝の刃を押し戻しながら、満継は満勝を睨みつけた。父に対する初めての反抗だった。

「こんなことを是とする一族に、私は、もう、認めてもらいたいとは思いません」

 あなたが私を軽蔑したように、私も、心底あなたを軽蔑する。

「人の道を外れた身で、神に仕えることなど、どうしてできましょうか!」

 満勝の剣を払う。よろめく満勝に向かって、満継は剣を振り被った。

 黒い影が一閃したのは、そのときだった。

「満継……っ!」

 朔弥の悲痛な声が、響く。

 胸から深紅をほとばしらせ、満継がくずおれる。

 満雅だった。返り血で、顔も衣も、しとどに濡れている。

「言っただろう、満継。蔵を出たら、おまえは、もう、北條の人間ではないと」

 冷ややかに、満継の亡骸なきがらを見下ろす。

「……最後まで、愚かな弟だった」

 その瞳が、ゆらりと、朔弥を見た。

 瞬きひとつ数える前に、満雅は俊敏に床を蹴り、朔弥に斬りかかる。

 満継の血に濡れた剣が、朔弥の剣と火花を散らす。

「諦めろ」

 一切の感情を押し殺した声で、朔弥に告げる。

「きさまの守るべきものは、もうない」


「きさまの妻は、はらの子もろとも、私が斬った」


 朔弥の呼吸が、止まる。

 見開いた瞳が、凍りつく。

 つるぎを握る手が、刹那、強張こわばる。

 その僅かな隙を、満雅はのがさなかった。

「終わりだ、南條」

 朔弥の胸を、白刃が貫く。

「清廉ゆえに滅ぶ……願わくは、私もそう在れたら良かった」

 ささやいて、朔弥の体から剣を抜く。散るくれない。最後の言葉は、朔弥に届いただろうか。

「よくやった、満雅。……しかし、南條め……随分と、しぶとく抗ってくれたな。ここまで手こずるとは……御統みすまるを手に入れたら、腹いせに、首を切り落として晒してやろうぞ」

 顔をしかめ、舌打ちし、満勝は足を振り上げると、血だまりに沈む朔弥の頭を踏みつけた。

「……おやめください、父上」

 満雅は思わず制止する。

「いくら敵でも、亡骸を足蹴にするのは、死者に対する冒涜となりましょう」

 息子にいさめられ、満勝は眉根を寄せて鼻を鳴らすと、当てつけのように、朔弥の体を蹴った。

御統みすまるを探せ」

 血だまりに立ち、満勝は命じた。

 御意、と家臣たちが四方に散っていく。

 満雅も目を伏せ、邸の奥へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る