1-4-1

 は落ちて 月に濡れたる 花嵐はなあらし

 誰が望むや 舞ふ緋ぞ悲しき




 夜風に乗って、梅の香が、ほのかに流れてくる。

 口の広い、純白の大きな水瓶みずがめを、真尋は落とさないように慎重に抱えた。今日は自分が運びたいと言ったのだから、失敗するわけにはいかない。

 父に続いて、廊下を歩く。父と母と真尋しか立ち入らない、やしきの最奥へと進む。

 かんぬきのかかった板戸を何枚か越えた先、白砂の敷き詰められた中庭のような開けた場所に出る。その中央に、小さな白木のほこらがあった。父にならって一礼し、祠の前に立つ。扉を開けると、青銅の水盤があり、縁まで水をたたえていた。水は、ほのかに五色に輝いている。水そのものが光っているのではない。水盤の底に沈められたものから放たれた光を透しているのだ。

 水瓶を抱えなおし、真尋は一歩、前に進む。真尋の巫力に反応して、光は、より強くなった。水盤の底には、五色の勾玉を環状に連ねたものが、静かにたたずんでいる。御統みすまる――南條家が代々まつってきた神具だ。

 清めの水を、そっと水盤に注ぎ入れる。日に二度、水を入れ替え、祝詞のりとを唱えて祀り、御統を鎮め続けるのも、南條家の務めのひとつだ。

御統みすまるは、神具として使われることはないのでしょうか」

 儀を終え、元来た廊下を歩きながら、真尋は尋ねた。

 御統は、ひとつひとつの玉が、神の依代よりしろになっている。強い巫力を持つ者が御統を使いこなすことができたなら、この世のことわりくつがえし、死者を蘇らせることさえ叶うという。

「御統が使われないように戒めるのも、私たち南條家の務めだ、真尋」

 父は静かに答えた。真尋は眉根を寄せ、首を傾げる。

「強い力で、たくさんのことができるようになるのは、良いことではないのですか?」

「できるからといって、して良いこととは限らない。私たちは神ではないし、巫覡である前に、人の身だ。人として生きる以上、人の道を外れてはいけない」

「……難しいです」

 でも……と、真尋は少し考えて、続けた。

「御統を使いたくなるようなことが起こらないのが、幸せで、それがずっと続けば良いのにと、思います」

 真尋の言葉に、父は目を細め、真尋の頭を撫でた。

「そうだな……切なる願いは、人の力では叶わない、絶望から生まれるものも多い」



+



 咲き始めた沈丁花じんちょうげの香りが、夜の静寂しじまに漂う。

 夕餉ゆうげの後、満継は独り、私室で文机に向かっていた。

 朔弥に送るふみをしたためようと、筆を取る。

 彼とは、もう友人ではいられない。

 だが、一言、謝りたいと、思った。

「……なんだ……?」

 庭の向こう、本殿の側がにわかに騒がしくなり、満継はいぶかりながら部屋を出た。

「……これは、一体……?」

 広間に、武装した家臣たちが、続々と集まっていた。

 ただならぬ雰囲気に、満継はふすまの陰に立ち尽くす。

「ここにいたのか、満継」

 不意に、横から声がかかった。父だった。その後ろに、兄も控えている。

「父上……これは、何が起きているのですか? 何を、なさろうとしておられるのですか?」

 嫌な予感がした。今まで薄々と感じていた、一族の野心の炎。いつか、こういう日が来るのではないかと、考えたことがないと言えば噓になる。だが、そんなことが起こるわけがないと、心の中で打ち消していた。信じていた。信じていたかった。

「下剋上だ。我ら北條の悲願を、ついにげるときが来た」

 口角を上げ、父が告げる。恐ろしい可能性から目をそむけ、信じようとしていた、平穏な日々の連鎖が、焼き切れていく。燃え落ちていく。

 立ちすくむ満継に、父はおもむろに、一振りのつるぎを差し出した。

「おまえにも、挽回の機会をやろう、満継」


「このつるぎで、南條朔弥を斬れ」


 父の言葉が、巨大なほこのように、満継の胸に突き立つ。

 茫然と見開いた目で、満継は剣を見つめる。言葉は出なかった。声も出なかった。喉がすぼまり、舌が張りつき、唇が戦慄わななく。

 この剣を取れば、父に認めてもらえる。

 兄にも、見直してもらえる。

 この剣を取れば。

 朔弥を殺せば――

「……満継」

 父の顔から、笑みが消えていく。

 失望と諦めの陰に、沈んでいく。

 満継の手は、動かなかった。

「……満雅」

 満継から視線を外し、父が短く兄に命じる。

「事が済むまで、これを蔵にでも放りこんでおけ。邪魔をされては面倒だ」

「はい」

 兄が淡々とうなずく。冷ややかな瞳が、すっと満継に距離を詰めた。

「っ、あ……」

 鳩尾みぞおちに、鈍い衝撃を受け、満継はよろめいた。続いて二度、三度、こぶしと膝が打ちこまれる。くずおれる満継を、兄は素早く拘束した。

「……兄上……父上……っ」

 こんなことは間違っていると、考え直してほしいと、かすれた声で呼びかける。

 だが、背を向けた父は振り返ることなく、連行する兄の足も止まりはしなかった。

 奥歯を噛みしめ、顔を伏せる。肩を震わせ、身をよじる。そんな満継を、兄は表情を消した瞳で見下ろした。そして、感情を抑えた声で、耳打ちする。

「最後にひとつ、兄弟のよしみで選ばせてやろう。天窓の格子が外れた蔵に入れてやる。……だが、蔵の外に出たなら、おまえは、もう、北條の人間ではないと思え」

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