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 母の奏でる笛のが、澄んだ雨上がりの大気の中を、伸びやかに流れていく。鏡のように磨かれた板敷を、真尋の小さな足が、軽やかに舞っていく。母に教わった扇舞せんぶだ。巫術の修練と同じくらい、真尋は舞の稽古が好きだった。

「とても上手に舞えるようになりましたね、真尋」

 母は微笑んだ。母は舞の名手で、一族随一の舞い手と謳われていた。

「特に今の舞は見事でした。お手本になれそう」

 母の言葉に、真尋は顔を輝かせた。弟妹が生まれて、兄になったら、たくさん、弟妹たちの手本になりたいと思っていた。巫術も、剣術も、舞踊も。

「早く弟妹に会いたいです」

 生まれてくるのは、弟だろうか、妹だろうか。いずれにしても、とても楽しみだ。

「もうすぐ生まれますよ。桜が花の盛りを迎えるのと、どちらが先かしらね」

 母は優しく目を細め、真尋の頭を撫でた。庭の桜は、まだ蕾だけれど、それでも日々少しずつ膨らんでいる。

「桜に祝われて、幸せが生まれてくるようで、すてきです」

 もういちど舞おうと、真尋が扇を持ち直したとき、使用人が父の帰宅を告げた。

 母とふたりで、門の前で出迎える。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 父は変わらず穏やかに微笑んでいたが、その瞳にはこころなしか、悲しみのかげが見えた。

「なにかありましたか?」

 さとく気づいた母が、父を気遣う。

 父は目を細め、緩く首を横に振った。

「いや、大事ない。……それより、真尋」

「は、はいっ」

 不意に呼ばれ、真尋は、ぱっと顔を上げて、父を見上げる。

「この後、また少し出かけるが、真尋も連れていきたい。巫師として、真尋に教えたいことがある」

「っ、はい!」

 思わず背筋を伸ばして、真尋は大きく返事をする。巫師として教えたいこと……それは、一体、なんだろう。真尋の胸が、小さく跳ねた。

 くらを付けられたままの馬が、小さくいなないた。

 やしきの外には、霧が立ち始めている。

 雨上がりの冷えた風が吹き渡り、庭の桜の枝を揺らしていた。



+



 真尋を一緒に馬に乗せ、父は都の外れに向かった。建ち並ぶ邸は、次第に小さく、粗末になり、空き家と見られる建物も目につくようになった。

 あばら屋となった邸の前で、父は馬を止めた。

「真尋」

 馬を降り、朽ちかけた門をくぐりながら、父が静かに口を開く。

巫師ふしは本来、神をまつり、荒魂あらみたまを鎮め、和魂にぎみたまに還す務めを果たす者だ」

「はい」

「だが、ときに、人の魂も、荒魂のようになることがある」

 それが、のろいだ。

 強い情念が、呪となり、災厄をもたらすことがある。呪を清めるのも、巫師の務めのひとつだ。

「……怨霊……」

 小さく呟き、真尋は父の衣の端を、きゅっと握る。

 あばら屋の中は薄暗く、よどんだ空気が立ちこめている。抜けかけた床板を踏むと、軋む音に驚いた鼠が、床下を走り去っていった。

 すくみかけた真尋を落ち着かせるように、父は真尋の肩を抱き、優しく引き寄せた。

「そう、怨霊だ。私たちがそれを清めれば、呪われた者は救われる」

 だが……と、父は僅かに目を伏せ、歩調を緩めて、続ける。

「呪った者を救うことは、できない」

 それが、荒魂と怨霊の違いだ。

 鎮められた荒魂は和魂に還り、神として存続するが、清められた怨霊は黄泉よみへと送られ、人として存続することはない。たとえ呪い手が生きていた場合でも、魂は失われ、やがて身を亡ぼしていく。

「……ここだ」

 邸の最奥、傾きかけたふすまを、ゆっくりと、父は開けた。

 真尋は小さく、息を呑む。

 ささくれた畳の上に、色せた衣が広がっていた。その下に、さらさらと、白い灰のようなものが散っている。

「怨霊となった者の遺体は、骨も残らず崩れて滅ぶ」

 父が、そっと、亡骸なきがらの前に、膝を折った。真尋も、父の隣にひざまずく。

「今朝、この者の怨霊を、私は清めた。消滅する刹那、この者の記憶を、垣間見た。この家は、この者が呪った相手から、酷く冷遇されていたらしい。呪いながら自害した結果、その魂は怨霊となってしまった」

「……悪いことをした人が呪われても、清めなければならないのですか……?」

 膝の上で、真尋は、きゅっと手を握りこむ。父は静かにうなずいた。

「怨霊の自我は、次第に失われていく。呪いの対象を取り殺した怨霊は、次は周囲の命を奪い、果ては国中に広がってしまう。呪いの連鎖で、新たな怨霊も生まれるだろう。……私たちにできることは、怨霊を清め、それ以上の罪を止め、苦しみを終わらせることだけだ」

 願わくは、どうか安らかに。

 目を閉じ、手を合わせると、父はとむらいのことばを唱えた。真尋も父にならい、祈る。

 開け放たれたふすまから吹きこむ風が、崩れた骨を、灰のようにさらっていった。



「父上」

 暮れなずむ帰路、馬に揺られながら、真尋は父を見上げた。

「誰も呪わずに生きることは、難しいのでしょうか」

「……そうだな」

 馬の手綱を引きながら、父が、そっと真尋の瞳を受けとめる。

「なにも呪わずに生きられたら、それはとても、幸せなことだろう」

 誰かを呪いたくて呪う者はいない。呪わずにいられないから呪うのだ。

 父も、なにかを呪ったことがあるのだろうか。自分も、いつか誰かを呪うことがあるのだろうか。真尋の背中が、ぞくりと冷える。

「真尋」

 様子を察したのか、父は、ひときわ柔らかな声で、続ける。

「私には、真尋と灯子がいる。春になれば、さらに家族が増える。真尋たちがいる限り、私が、なにかを呪うことはないよ」

 真尋たちがいるから、なにも呪わずに生きていられる。

「っ……私もです……!」

 真尋は少し甘えて、父の胸に寄りかかった。

 冷えていた背中が、陽だまりのように温かくなる。

「……ただ、気をつけろ、真尋」

 真尋の頭を撫でて、父は小さく呟くように言った。

「巫力を持つ者は、感情が魂に作用しやすい。怨みに限らず、強い情念がのろいとして発現してしまうこともあるのだ。だから、常に心を穏やかに鎮め、清めておくよう努めなければいけない」

 それも真尋たちがいるからできることだ、と父は笑った。

 陽の光を浴びて咲く、桜の花のような微笑だった。

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