1-3-3

 午後になって、雨は止んだ。しかし陽は射すことなく、薄曇りのままだ。

 雨に洗われ、空気はひんやりと澄んでいた。

 ひとけのない橋の上、僅かに水嵩みずかさの増した川面を、満継は見下ろしていた。

 今朝、父に、巫師とは別の道に進ませてほしいと、願い出た。たとえ末席でも、今からでも、官吏となることを望むことはできないかと。しかし父は許さなかった。一族から巫師以外の者を世に出せば、北條家は、巫師たる力のない者を抱える家と見なされる。たとえ飼い殺しであっても、北條の家に生まれた者は巫師でなければならなかった。

「満継?」

 不意に名を呼ばれ、満継は顔を上げた。橋の向こうから、朔弥が、こちらに向かって歩いてくる。

 この辺りは、下級貴族のやしきが多く、満継の顔を知っている人間は少ない。特に、この橋は、都の外れに近く、人通りが滅多にないので、満継は邸に居づらいとき、よくここに来ていた。だから、まさかここで、朔弥に出くわすとは思わず、満継は少し驚いた。

「どうした? 浮かない顔をしている」

 朔弥が垂衣たれぎぬを上げ、満継の隣に並ぶ。

「……おまえこそ、なんで、こんなところに……?」

「私か? 少し所用があってな。その帰りだ」

 満継の問いかけに答え、朔弥は軽く首を傾けて、満継の顔を覗きこむ。気遣いの色を浮かべた微笑。活気のない自分を、心配してくれているのだ。

 思えば、いつも、声をかけるのは……声をかけてくれるのは、朔弥のほうからだ。幼い日、初めて出会ったときも、そうだった。邸に居場所がなく、あてもなく外を歩いていた満継が、偶然、南條家の邸の近くを流れる川の傍を通ったとき、川辺で独り遊んでいた朔弥から挨拶をしてきたのが、友人になるきっかけだった。

 なぜ、彼は、自分と友人になろうと思ったのだろう。友人になりたいと、思ってくれたのだろう。一緒に遊べる、としの近い巫者の子どもが、他にいなかったからだろうか。こんな、なんの取柄とりえもない自分と、成人してもなお友人でいてくれるのは、なぜなのだろう。憐れみだろうか。情けだろうか。彼が向けてくれる友好の心は、至極、ありがたいはずなのに、彼はあまりにも眩しくて、自分が惨めでたまらなくなる。自分も、彼のように、美しく顔を上げてみたかった。期待と尊敬の光の中を、颯爽と歩いてみたかった。自分を頼る者たちに、優雅に手を差し伸べてみたかった。そんなこと、自分は、これまでに一度もない。蔑みと諦めの陰の下、醜く唇を噛みうつむくばかりだ。

「……なぜ、私は……」

 朔弥の顔をまともに見られず、満継は視線をらし、半ば独白のように呟いた。

「……おまえと、こんなにも、違うのだろう……」

 胸の内で、ずっと張りつめていた堰が、内側からみしみしと軋んでいく。

「満継……?」

 朔弥の声が、微かに揺れる。途惑とまどいの色を浮かべてもなお、その響きは、満継を気遣う優しさをいささかも欠いていない。いっそ、いつか兄が言ったように、朔弥が心の内では満継をさげすみ、優越感にひたるために友人のふりをしているのであったなら、どれだけ良かっただろう。朔弥と真に友人であることを、心を支える柱にしてきたはずなのに、今は、その柱が、満継の胸に重くしかかっている。満継の心を潰さんとするほどに。

「……私には、なにもない……」

 朔弥から顔をそむけ、満継は言葉を吐いた。内側から湧き上がる激情に、軋み続けた心のせきが、とうとう破れ、押し流されていく。

「おまえは……一族から期待され、当主の地位に立ち……気立ての良い許婚いいなずけと、仲睦なかむつまじい夫婦めおとになり……健やかで利発な子にも恵まれた……私には何もない……なにひとつない……」

 分かっている。朔弥には、それだけ優れた力があったのだ。自分にはかなわない、どれだけ望んでも叶わない、生まれ持った才の差だ。

「おまえばかりが、与えられていく……私が、どれだけ努力しても得られないもの、手に入らないものを、お前は、その身に、与えられていくのだ……手に入れていくのだ……」

 怒涛のように押し寄せる感情に、胸が苦しくて、上手く息ができない。彼は、今、どんな顔をしているだろう。彼は、ずっと綺麗なままなのに、自分ばかりが妬み、うらやみ、内側から汚れていった。そんな自分の汚さ、醜さを、今、泥のように、彼に浴びせている。そんな自分自身にも、嫌悪した。だが、胸から一度ひとたびあふれた激情は、止まらなかった。止められなかった。

「おまえの隣で、私は、ずっと、つらかった……! おまえと共にいると、惨めでたまらなかった……っ!」

 心を、吐き出す。満継を蝕み続けた感情を、彼に向かって、投げつける。

「朔弥、私は……っ」


「おまえに、なりたかった……っ!」


 叫び、わめき、顔を伏せる。目を閉じる。あぁ、これで、とうとう彼にも見限られるだろう。背を向けられるだろう。それでも、もう良いと、自棄になった。

「……満継」

 少しの沈黙の後、朔弥が、そっと、口を開いた。声の響きは柔らかく、軽蔑の色も嫌悪の色もなかった。

「私は、そなたの思うような、優れた人間ではない」

「っ……謙遜するな! 余計に惨めになる」

 思わず朔弥を睨みつける。視線はぶつからなかった。彼は目を伏せ、淡く微笑んでいた。己の感情を抑えるための微笑だった。

「謙遜ではない。げんに私は、今、そなたという大切な友人を失いかけている」

 朔弥の言葉に、満継は、虚を突かれたように目を見開いた。

 朔弥は静かに続ける。

「確かに私は恵まれている。そなたの言う、そなたの望むものを手に入れる努力を、私は、なにひとつしていない」

 みずから欲しいと求めて手に入れたものではなかった。

「……しかも、それは私が優れた人間だから手に入ったのではない。優れた人間ではないのに、手に入ってしまったのだ」

 袖の陰で、朔弥の手が、こぶしをつくる。

「だからこそ、私は、恵まれ得たものを失わないための努力をしなければならない」

 期待に応え、義務を果たし、どんなときも歩みを止めず、顔を上げていなければならない。重い期待と大きな義務を双肩に負いながら、それを感じさせることなく、颯爽と歩み、優雅に振舞っていなければならない。常に微笑み、悩みも、苦しみも、表に出してはならない。

「皆の前に立つ私は、ただの張子はりこの虎。見かけ倒しの臆病者に過ぎない。そなたの瞳に、私が、優れた人間のように映っているなら、その私は、ただのはりぼてだ」

 彼は、ずっと、皆の望む南條朔弥で在ろうとした。失わないための努力は、手に入れるための努力と違い、自らの意志で投げ出すことができない。逃げられない。降りることのできない舞台で、舞い続けなければならないのだ。

「私は……先代である父も、母も、早くに亡くした。手本にする者がいないまま、十五で当主になり、十七で夫になり、十八で父になった。全てが手探りで……自分なりに考え、良き当主、良き夫、良き父で在ろうと努めてきたが……私は、本当に、これで良いのか。私は、正しく、当主をやれているだろうか。夫をやれているだろうか。父をやれているだろうか。……今も自問してやまない」

 朔弥の瞳が、ふっと瞬きを打った。夜の湖水のように静かな瞳が、満継を映す。

「満継……そなたと共にいるときだけは、私は南條家の当主でも、夫でも、父でもない、ただの私として過ごすことができた。そなたは私の良き友だと……そう、思っていた」

 だが……と、朔弥は小さく笑った。それは、満継が遠目に見ていた、美しく整えられた微笑ではなかった。困り果てたような弱々しい苦笑。満継は、はっと吐息を飲みこむ。

「そなたにとって、私は、良き友ではなかったのだな」

 自分は、彼の、何を見ていたのだろう。

 彼が一族の者たちに見せる表情と、満継に見せる表情は、こんなにも違うのに。違ったのに。

「そなたの気も知らず、無神経な振る舞いをして……すまなかった」

 朔弥は静かに頭を下げた。

 傘の垂衣たれぎぬを下ろし、歩き去っていく。

 待ってくれ、と呼び止める言葉は、喉に張りつき、かすれた息にしかならなかった。

 伸ばすべき手も強張り、彼の袖を掴むこともできなかった。

 謝るべきは、自分のほうなのに。

 冷たい後悔が、全身を凍りつかせていく。

 彼と親しんでいる時間が安らぎだったのは、自分も同じだったのに。

 多くの者たちの上に立てる彼を、友人として誇りに思う気持ちに、嘘はなかったのに。

 朔弥という友人の存在が、満継にとって、大きな幸いであったのに。救いであったのに。

「……おまえと親友でいられる資格が……私には、もうないのだ……朔弥」

 崩れるように膝をつく。霧の混じった雨上がりの風が、満継の衣を冷たく湿らせていった。

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