1-3-3
午後になって、雨は止んだ。しかし陽は射すことなく、薄曇りのままだ。
雨に洗われ、空気はひんやりと澄んでいた。
ひとけのない橋の上、僅かに
今朝、父に、巫師とは別の道に進ませてほしいと、願い出た。たとえ末席でも、今からでも、官吏となることを望むことはできないかと。しかし父は許さなかった。一族から巫師以外の者を世に出せば、北條家は、巫師たる力のない者を抱える家と見なされる。たとえ飼い殺しであっても、北條の家に生まれた者は巫師でなければならなかった。
「満継?」
不意に名を呼ばれ、満継は顔を上げた。橋の向こうから、朔弥が、こちらに向かって歩いてくる。
この辺りは、下級貴族の
「どうした? 浮かない顔をしている」
朔弥が
「……おまえこそ、なんで、こんなところに……?」
「私か? 少し所用があってな。その帰りだ」
満継の問いかけに答え、朔弥は軽く首を傾けて、満継の顔を覗きこむ。気遣いの色を浮かべた微笑。活気のない自分を、心配してくれているのだ。
思えば、いつも、声をかけるのは……声をかけてくれるのは、朔弥のほうからだ。幼い日、初めて出会ったときも、そうだった。邸に居場所がなく、あてもなく外を歩いていた満継が、偶然、南條家の邸の近くを流れる川の傍を通ったとき、川辺で独り遊んでいた朔弥から挨拶をしてきたのが、友人になるきっかけだった。
なぜ、彼は、自分と友人になろうと思ったのだろう。友人になりたいと、思ってくれたのだろう。一緒に遊べる、
「……なぜ、私は……」
朔弥の顔をまともに見られず、満継は視線を
「……おまえと、こんなにも、違うのだろう……」
胸の内で、ずっと張りつめていた堰が、内側からみしみしと軋んでいく。
「満継……?」
朔弥の声が、微かに揺れる。
「……私には、なにもない……」
朔弥から顔を
「おまえは……一族から期待され、当主の地位に立ち……気立ての良い
分かっている。朔弥には、それだけ優れた力があったのだ。自分には
「おまえばかりが、与えられていく……私が、どれだけ努力しても得られないもの、手に入らないものを、お前は、その身に、与えられていくのだ……手に入れていくのだ……」
怒涛のように押し寄せる感情に、胸が苦しくて、上手く息ができない。彼は、今、どんな顔をしているだろう。彼は、ずっと綺麗なままなのに、自分ばかりが妬み、
「おまえの隣で、私は、ずっと、つらかった……! おまえと共にいると、惨めでたまらなかった……っ!」
心を、吐き出す。満継を蝕み続けた感情を、彼に向かって、投げつける。
「朔弥、私は……っ」
「おまえに、なりたかった……っ!」
叫び、
「……満継」
少しの沈黙の後、朔弥が、そっと、口を開いた。声の響きは柔らかく、軽蔑の色も嫌悪の色もなかった。
「私は、そなたの思うような、優れた人間ではない」
「っ……謙遜するな! 余計に惨めになる」
思わず朔弥を睨みつける。視線はぶつからなかった。彼は目を伏せ、淡く微笑んでいた。己の感情を抑えるための微笑だった。
「謙遜ではない。げんに私は、今、そなたという大切な友人を失いかけている」
朔弥の言葉に、満継は、虚を突かれたように目を見開いた。
朔弥は静かに続ける。
「確かに私は恵まれている。そなたの言う、そなたの望むものを手に入れる努力を、私は、なにひとつしていない」
「……しかも、それは私が優れた人間だから手に入ったのではない。優れた人間ではないのに、手に入ってしまったのだ」
袖の陰で、朔弥の手が、
「だからこそ、私は、恵まれ得たものを失わないための努力をしなければならない」
期待に応え、義務を果たし、どんなときも歩みを止めず、顔を上げていなければならない。重い期待と大きな義務を双肩に負いながら、それを感じさせることなく、颯爽と歩み、優雅に振舞っていなければならない。常に微笑み、悩みも、苦しみも、表に出してはならない。
「皆の前に立つ私は、ただの
彼は、ずっと、皆の望む南條朔弥で在ろうとした。失わないための努力は、手に入れるための努力と違い、自らの意志で投げ出すことができない。逃げられない。降りることのできない舞台で、舞い続けなければならないのだ。
「私は……先代である父も、母も、早くに亡くした。手本にする者がいないまま、十五で当主になり、十七で夫になり、十八で父になった。全てが手探りで……自分なりに考え、良き当主、良き夫、良き父で在ろうと努めてきたが……私は、本当に、これで良いのか。私は、正しく、当主をやれているだろうか。夫をやれているだろうか。父をやれているだろうか。……今も自問してやまない」
朔弥の瞳が、ふっと瞬きを打った。夜の湖水のように静かな瞳が、満継を映す。
「満継……そなたと共にいるときだけは、私は南條家の当主でも、夫でも、父でもない、ただの私として過ごすことができた。そなたは私の良き友だと……そう、思っていた」
だが……と、朔弥は小さく笑った。それは、満継が遠目に見ていた、美しく整えられた微笑ではなかった。困り果てたような弱々しい苦笑。満継は、はっと吐息を飲みこむ。
「そなたにとって、私は、良き友ではなかったのだな」
自分は、彼の、何を見ていたのだろう。
彼が一族の者たちに見せる表情と、満継に見せる表情は、こんなにも違うのに。違ったのに。
「そなたの気も知らず、無神経な振る舞いをして……すまなかった」
朔弥は静かに頭を下げた。
傘の
待ってくれ、と呼び止める言葉は、喉に張りつき、
伸ばすべき手も強張り、彼の袖を掴むこともできなかった。
謝るべきは、自分のほうなのに。
冷たい後悔が、全身を凍りつかせていく。
彼と親しんでいる時間が安らぎだったのは、自分も同じだったのに。
多くの者たちの上に立てる彼を、友人として誇りに思う気持ちに、嘘はなかったのに。
朔弥という友人の存在が、満継にとって、大きな幸いであったのに。救いであったのに。
「……おまえと親友でいられる資格が……私には、もうないのだ……朔弥」
崩れるように膝をつく。霧の混じった雨上がりの風が、満継の衣を冷たく湿らせていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。