1-3-2

 日ごとに春めいていた空が一転、薄墨色うすずみいろの雲に覆われ、朝から冷たい霧雨の降る日だった。

 北條家の本家に、満雅は呼ばれた。当主である父――満勝の部屋のふすまを開ける。

「急ぎの用件と、うかがいましたが……」

「ああ。喜べ、満雅。好機の知らせだ」

 御簾みすの向こうで、満勝が笑う。

すめらぎの御身がかんばしくないのは、おまえも知るところだろう」

「はい」

 満雅はうなずいた。今朝から、皇のもとへ何人もの薬師くすしせわしなく出入りしている。

やまいか、のろいか、薬師と巫師、双方が見立てることになった。侍従は南條を呼ぼうとしていたが、偶々たまたまそこに私が居合わせたのだ」

「っ、それでは……!」

 思わず顔を上げた満雅に、満勝は笑みを深めて頷く。

「正体こそまだ知れぬが、皇の御身をむしばんでいるのは呪であった。これは、またとない好機だ。私が話を通し、清めの術を我ら北條家に任せていただくことにした。術の準備が整い次第、共に向かうぞ、満雅」

 皇にかけられた呪を清め、ご快復なされば、北條の名は一気に持ち上がる。

「必ず成功させるぞ」

「はい、父上」

 鋭い眼光で笑う満勝に、満雅は目を伏せ、一礼した。



 父の部屋を出ると、ふすまの先に、弟――満継が立っていた。満雅を見上げ、びくりと肩を強張らせる。

「申し訳ありません……私も父上にお話があって……立ち聞きするつもりは……」

 慌てて弁明しながらも、満継の目には、仄暗い嫌悪の影が差している。冷ややかに見下ろしながら、満雅は微かに笑った。

すめらぎの容体が悪いことを、好機だと喜ぶ……浅ましいものだと、私も思うよ」

 口の端に自嘲めいた苦さが浮かぶのを、満雅は扇でさりげなく隠した。満継の脇を擦り抜け、淡々と廊下を歩いていく。物言いたげな満継の視線を背中に感じたが、満雅は振り返らなかった。

 当主である父から能無しと見なされ、まつりごとから外された弟。力を持たぬがゆえに無垢なままでいられる満継を、心の中でうらやましく思う自分がいる。そして、そんな自分を、満雅はいましめ続けていた。

 いっそ、弟が、巫力を全く持たずに生まれていれば良かったのに。巫力を持たぬ者として、文官や武官の道に進めれば良かったのに。巫術を僅かながらでも使えるせいで、巫師の道を諦めることもできない。弟が、人一倍、修練を重ねていることを、知らない兄ではなかった。

 満継は満雅にとって、呆れるほどに愚かで、憎むほどに羨ましく、憐れむほどに愛しい弟だった。



+



 冷たい雨の降る朝、南條のやしきを一人の男が訪ねてきたのは、真尋が午後の勉学に勤しんでいたときだった。真尋の勉強を見てくれていた父が、使用人に呼ばれ、席を立つ。客間に通すよう指示をして、父は軽く衣を整えた。

「すまない、真尋。少し、行ってくる」

 すっと背筋を伸ばし、穏やかでありながら凛とした雰囲気をまとって、父は部屋を出ていった。仕事の顔だ、と真尋の胸が小さく拍動を打つ。

 朝廷の人間以外が、仕事のことで邸に来るのは珍しい。しかも急な来訪だ。

 何事だろう……。

 父の背中を追いかけて、真尋は、こっそり、客間に向かった。

 足音を忍ばせて、ふすま越しに、中の様子をうかがう。

「身の程をわきまえず、申し訳ありません……北條家の派閥に身を置きながら、南條様を頼るなど……」

 年かさの男の声が聞こえた。真尋はよく知らないけれど、一族以外の人々の中で、南條家と北條家のどちらを支持するか、割れているらしい。

「私は構いません。そもそも、盟友になるならともかく、対立するための派閥など、私は無用と考えています。助けが必要なら、派閥の垣根にかかわらず、力になりたい」

 父が鷹揚に微笑んで答える。話を聞かせてくださいと促され、男は平伏しながら口を開いた。

「末の娘が、ここしばらくせっているのです。馴染みの薬師に長くせておりましたが、日に日にやつれ、ついには起き上がることもできなくなりました。これはやまいではなくのろいではないかと、薬師にさじを投げられ……巫師の方に頼むようにと。しかし、私の家は、北條家の派閥に身を置きながら、力が足りず、当主様の覚えがめでたくないのです。先日、北條家を訪ねたところ、門前払いをされてしまい……途方に暮れ、わらにもすがる思いで、南條様のもとへ、お願いに上がった次第でございます。どうか……南條家の巫師様を、どなたか、お一人、お頼み申し上げたく……」

 緊張と恐縮に声を震わせながら、男は話した。

「……承知しました」

 部屋に満ちる張り詰めた空気を、父の静かな声が、ふっと緩める。

「家臣を派遣するまでもない。よろしければ、今から私が伺いましょう」

 さらりと出された提案に、男が驚愕の声を上げる。

「そ、そんな……っ、当主様に、ご足労いただくわけには……っ」

「幸い、今日、私の体はいています。あなたにとっても、南條家を頼ったことを知られる人間は、少ないほうが良いでしょう。外の目が気になるなら、青の単衣ひとえを着て伺っても、私は構いません」

 黒の上衣の内にまとう衣の色は、一族で異なり、北條は青、南條は赤を身につける。色は一族の誇りであり、父が纏う深緋こきあけは、真尋の憧れだった。

 それなのに父は、必要とあらばそれを脱ぐことも構わないという。まして自分のためではなく、相手のために。

「い、いえ! それはさすがに、申し訳が立ちませぬ……!」

 男が上擦うわずった声で低頭する。父が小さく苦笑する気配がした。

「では、すぐに伺いましょう。ご息女が今この時も苦しんでおられるのです。親として、こうしている間もさぞ時間が惜しいでしょう」

 ふすまの向こうで、父が促すように席を立つ気配がした。何度も礼を言いながら、男も立ち上がる。

 真尋は急いで柱の陰に隠れた。

 しかし父には見通されていたようで、

「真尋」

 柔らかな声で、呼ばれた。そこに咎める色はなく、おずおずと柱から顔を出した真尋に、父は微笑みながら言った。

「そういうわけだから、他言無用だ。少し私用で出てくると、皆には伝えておいてくれ」

 ひらりと衣をひるがえし、父は邸を出ていった。垂衣たれぎぬのついた傘を被り、冷たい雨の降る中を、少しもいとわずに。

 見送りながら、真尋は唇を引き結ぶ。

 父のようになりたいと、心から思った。

 父の背中は真尋にとって、憧れであり、しるべでもあった。

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