1-2

 抱く吾子あこに 降るは花ぞと 誓ひてし

 雨は注げど 袖は濡らさじ



 夜のとばりを押し上げて、遠い山のから黎明の光が打ち広がる。夜陰の下で色彩を欠いていた風景が、朝陽に照らされ、色づいていく。おごそかで冷たい冬の夜の空気が緩み、和やかで温かな春の朝のきざしが滲む。川辺に並ぶ梅や桃の木々のつぼみは、まだ固く閉ざされ沈黙しているものの、あと半月もすれば、こぞって芽吹きを歌うだろう。

 都の大路に、ひづめの音が、軽やかに響く。高らかに鳴く鶏の声が、今日も朝を迎えられた喜びを、世界に叫ぶように聞こえていた。

 上級貴族のやしきが建ち並ぶ中心部の手前、都の南側に位置する川沿いの地に、豪奢ではないが細部まで洗練され、手入れの行き届いた邸が、ひっそりと建っている。朔弥が当主を務める、南條家の邸だ。

 帰還の知らせは事前に伝わっていて、邸の門前には使用人たちが集まり、総出で迎えてくれた。

「視察からの、ご無事のお戻り、なによりでございます」

「皆、変わりないようで安心した。北の地に珍しい菓子があったから、あとで皆に配ろう」

「まぁ……それはそれは……朔弥様はいつも……ありがたき幸せにございます……」

 使用人たちは目を輝かせ、笑顔で深々と礼をした。朔弥も微笑み、門をくぐる。

「父上!」

 庭の向こうから、澄んだ幼い声が響いた。朝の修練の途中だったらしい、浅緋の単衣ひとえ桃染ももぞめ括袴くくりばかま穿いた少年が、木剣を手に駆けてくる。真尋まひろ――今年で七つになる、朔弥の息子だ。

「おかえりなさい」

 真尋の後ろに、ゆっくりと静かに続くのは、妻の灯子とうこだ。としは朔弥より二つ上で、撫子なでしこ色の単衣ひとえに、呂色ろいろの上衣をまとっている。蘇芳すおうは愛しく膨らみ、添えられたたおやかな手は、内に宿る次の命を優しく守っていた。

「ただいま、真尋。灯子も、大事はなかったか……?」

 真尋の頭を撫でながら、朔弥は灯子の体をいたわるように肩に手を添える。夫婦めおとになって十年も経とうとしているのに、灯子に触れる朔弥の手は、硝子細工でも扱うように丁寧だ。灯子の微笑に、慈しむような苦笑が加わる。

やしきは、このとおり、平穏無事です。私も、この身に子を授かるのは、二度目ですもの。子をはぐくむ体の勝手は分かっています。あなたこそ、予定より、ずっとお早いお戻りではありませんか……慣れない北の地、遠方の視察で、さぞお疲れでしょうに……どれだけ速く馬を走らせてくださったのやら……」

「身重の妻と幼い息子を邸に置いているのだ。本当は、もっと早く戻りたかったくらいだ」

「はいはい。では今夜、真尋とお腹の子に、北の地のお話を聞かせてやってくださいな」

 和やかに、穏やかに、微笑みが咲く。

 吹く風は、まだ冷たく厳しく、冬の名残があるけれど、注ぐ光は温かく明るく、春の陽射しの色をしていた。



 +



「このれ者が」

 北條家に帰還した満継に、最初に浴びせられたのが、父の叱責だった。

 満継の父――北條満勝みちかつは、北條家の当主であり、よわい六十を超えてもなお壮健で、巫術の腕もさることながら、まつりごとにも深く食いこみ、朝廷でも影響力をもつ人物で、一族内で逆らえる者は一人もいない。

「やはり、おまえを部隊長に取り立てたのは間違いであった。……はじめから期待などしていなかったが……まったく、くだらぬ親心に血迷った私が愚かだった……殉職した家臣たちの遺族へ施す保障だけでも、どれだけの財が必要か分かるか? おまえは本当に、我が一族に損益しか生まぬな」

「……申し訳ございません」

「もう良い。下がれ」

 満継の顔など見たくもないとでもいうように、満勝は御簾みすの向こうで顔をそむけ、広げた扇を縦に振った。

 深く一礼して、満継はうつむいたまま、部屋を出る。

「どのつら下げて帰ってきたのだか」

「つくづく一族の面汚しよ」

「あれで本当に北條の血を引いているのか」

 障子越しに、使用人たちのささやき声を聞きながら、自室へ続く渡殿わたどのを歩いていく。

 帰る場所は、このやしきしかないのに、ここに自分の居場所はない。

「おかえり」

 自室の障子を開けようとして、ふと後ろからかけられた声に、満継は振り向いた。としの離れた兄――満雅みちまさが、渡殿の先の柱に寄りかかり、閉じた扇を口もとに当てて微笑んでいる。深縹こきはなだ単衣ひとえに、烏羽色からすばいろの上衣。満継と同じ、緩いくせのある黒髪を、乱れなく結い上げ、整えている。満継よりも背が高く、肩幅も広い。既に妻をめとり、自身の邸を構えている身で、普段はあまり実家へ顔を出さない。満継の帰還に合わせておもむいたのだろう。

「おまえだけでも、無事で良かった」

 笑みのかたちに、満雅は目を細める。

――そなただけでも、無事で良かった。

 言葉は朔弥と同じであるのに、声の温度は、まるで違う。春の陽のように温かかった朔弥の声とは違い、満雅のそれは、冬の水のように冷たい。優しい言葉を被った嫌味。微笑の奥には、毒と刃が込められている。

「……兄上……」

 満継の喉が、ひゅ、と狭まる。口の中が渇き、握りこんだこぶしの内に汗が滲む。

「よく生きて戻ってくれた」

 おめおめと逃げ帰った恥知らずめ。

「挽回の機会は、これからもある」

 いったい何度、恥の上塗りを重ねるのか。

「おまえも私と同じ、貴重な本家の嫡流だからな」

 一族の恥め。

「……ときに、満継」

 扇の先を、ついと揺らして、満雅は、すっと微笑を収めた。

「あの男……南條家の当主と、随分と親しいようだが、まさか本当に友人などではあるまいな」

「えっ……」

 思いがけない兄の言葉に、満継は目を見開く。

「南條家は、我ら北條家にとって、最大の政敵。幼子おさなごの頃ならともかく、成人してまで交友を続けているのは、敵の内情を聞き出すに有用かと、今まで黙認してきたが……」

 すっと扇の先が、満継の喉もとに伸びる。小刀のように、冷ややかに。

此度こたびのことは、目に余る。身内の命を救われ、将来、恩に着せられる憂慮の種を抱えることになるとは……こうなれば、さすがに話は別だ」

「……お言葉ですが、兄上」

 ぐっとこぶしを握りしめ、満継は言葉を返す。自分のことなら、いくら侮辱されても受け容れるが、そこに親友を含められるのは、兄であっても許せない。

「彼は、恩に着せるような人間ではありません。それに彼は、真に私の親友――」

「黙れ、この愚弟が」

 低めた声で、満雅が遮る。ひたいを近づけ、鋭い眼光で満継を見下ろして。

「北條と南條は、この国の神々をまつる二強の巫覡ふげきの氏族。だが、元を辿れば、北條は南條から分かたれた一族……いわば南條の分家の末裔なのだ。分かるか? 満継。二強とはいえ、北條の巫力は、南條にはかなわない。巫師としてすめらぎから第一に信頼されているのは、昔も今も南條だ。だから我々北條は、巫覡としての力が劣る分、まつりごとに力を入れ、今の地位まで上り詰めたのだ。だが、まだ足りない。此度こたびの北方の国庁視察……一番に声がかかったのは南條だった。二強と言われながら、北條は所詮しょせん、二番手……このままそれに甘んじているわけにはいかない。父上も私も、日々、一族の地位を押し上げるために尽力している。それなのに、おまえは何だ。ひとり、腑抜ふぬけた顔をして、かすのような巫力で、術もろくに使えない。果ては政敵の当主を、親友だなどとほざく……私が今まで、どれだけ腹に据えかねてきたか……今この時、どれだけ、はらわたが煮えくり返っているか……ぬるま湯で寝ぼけたおまえには、分からぬだろうな」

 満継を睨みつけた満雅は、そこで激情を抑えるように息を吐き、満継から離れた。

「……友人と思っているのが、おまえだけではないと良いがな……あやつがおまえに付き合っているのも、友人のふりをしているだけ……こちらの内情を探るため、あるいは、出来の悪いおまえを傍に置くことで、優越感に浸り、おまえを引き立て役にしているだけかも知れぬぞ。確かにあやつは人当たりが良いが、だからこそ、警戒すべきだ。外面が良い人間ほど、腹の内で何を考えているか分からない」

 静かに言い捨てて、兄はきびすを返した。良心を信じず、誰にも心を許すことがない……父の右腕として、常に一族の利益を第一に考え、誰にも足を掬われぬよう気を張って……ぶつけられた兄の言葉は、兄の生きる世界の厳しさを、そのまま表したようでもあった。満継の知らない、謀略が渦巻くまつりごとの世界。

「……それでも」

 うつむき、絞り出すように、満継は一言だけ、言葉を返した。

「彼は、そんな人間では、ありません……」

 去り行く兄の足が、刹那、止まる。

「……もし、あやつが本当に、おまえが言う通りの……裏表のない、良心ばかりの人間なら……」

 ふっと、微かに、あざけるような、それでいて、うらやむような、笑みを含んだ吐息をこぼして、

「人の欲にまみれることも、人の業に汚れることもなく、ただ神々と対峙する巫覡でいられるというのは、巫者として、どれほどの幸せであろうな。……どれほどの、力であろうな」

 振り向かないまま、兄は言った。静かな声に棘はなく、どこか寂しげで、悲しげな色をしていた。



 +



 昼間は火桶ひおけがいらないほどの陽気であったが、夜になると、まだ冷える。

 湯浴みを終えてすぐ、真尋は寝所に飛びこみ、上掛けをかぶった。寒がりなこともあるが、寝る前に父が話してくれるという、視察の土産話を早く聞きたかった。

 もう独りで眠れるとしだけれど、今夜は特別に、父と母と、久し振りに川の字になって寝る。

「私も、いつか、雪を見てみたいです」

 父の話を聞いて、真尋は目を輝かせた。北の地では、冬になると、空から白い氷の欠片が花弁のように降るという。それは辺り一面に積もって、昼はまばゆきらめき、夜も月や星の光に照らされて、ほんのりと明るく灯って見えるらしい。水が冷えると固まって氷になるというのも、真尋は興味津々だった。温暖な地に置かれたこの都では、雪が降ることはまれで、水が凍ることもまずない。真尋は生まれてこの方、雪も氷も見たことがなかった。

「花と言えば、北の地に咲く桜は、白いそうですね」

 真尋の隣で、母も声をはずませた。

「そうだな、この地の桜と違って、咲き終わると花弁が散る。一斉に咲き、一斉に散るから、まさに雪のごとしだ」

「……花弁の雪……」

 真尋は、ほう、と感嘆の息をつく。真尋の知る都の桜は、濃い緋色で、咲き終わるとがくごと、花の形を保ったまま落花する。

「私も、大きくなって、任を受けるようになれば、北の地を訪れることができるでしょうか」

「そうだな……」

 父は微笑んで、真尋の頭を、ぽんと撫でた。それから、少し悪戯っぽい色を瞳に浮かべて、目を細める。

「ただ、寒いぞ。都の冬とは比べものにならない。寒がりの真尋に耐えられるかな」

「そっ……それは……」

 もごもごと言いよどみ、上掛けに顔を埋めると、父は笑って、再び真尋の頭を撫でた。

 父と母のあいだで、真尋は温もりに包まれ目を閉じる。

 このまま、ずっと、温かいままでいたいと思った。

 父がいて、母がいて、もうすぐ生まれてくる弟妹がいて、皆で温もって笑って、独りで凍えて泣くことなんて知らないままで。

 この幸せが、この先もずっと続くのだと、幼心おさなごころに信じていた。

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