二
1-2
抱く
雨は注げど 袖は濡らさじ
夜の
都の大路に、
上級貴族の
帰還の知らせは事前に伝わっていて、邸の門前には使用人たちが集まり、総出で迎えてくれた。
「視察からの、ご無事のお戻り、なによりでございます」
「皆、変わりないようで安心した。北の地に珍しい菓子があったから、あとで皆に配ろう」
「まぁ……それはそれは……朔弥様はいつも……ありがたき幸せにございます……」
使用人たちは目を輝かせ、笑顔で深々と礼をした。朔弥も微笑み、門をくぐる。
「父上!」
庭の向こうから、澄んだ幼い声が響いた。朝の修練の途中だったらしい、浅緋の
「おかえりなさい」
真尋の後ろに、ゆっくりと静かに続くのは、妻の
「ただいま、真尋。灯子も、大事はなかったか……?」
真尋の頭を撫でながら、朔弥は灯子の体を
「
「身重の妻と幼い息子を邸に置いているのだ。本当は、もっと早く戻りたかったくらいだ」
「はいはい。では今夜、真尋とお腹の子に、北の地のお話を聞かせてやってくださいな」
和やかに、穏やかに、微笑みが咲く。
吹く風は、まだ冷たく厳しく、冬の名残があるけれど、注ぐ光は温かく明るく、春の陽射しの色をしていた。
+
「この
北條家に帰還した満継に、最初に浴びせられたのが、父の叱責だった。
満継の父――北條
「やはり、おまえを部隊長に取り立てたのは間違いであった。……はじめから期待などしていなかったが……まったく、くだらぬ親心に血迷った私が愚かだった……殉職した家臣たちの遺族へ施す保障だけでも、どれだけの財が必要か分かるか? おまえは本当に、我が一族に損益しか生まぬな」
「……申し訳ございません」
「もう良い。下がれ」
満継の顔など見たくもないとでもいうように、満勝は
深く一礼して、満継は
「どの
「つくづく一族の面汚しよ」
「あれで本当に北條の血を引いているのか」
障子越しに、使用人たちの
帰る場所は、この
「おかえり」
自室の障子を開けようとして、ふと後ろからかけられた声に、満継は振り向いた。
「おまえだけでも、無事で良かった」
笑みのかたちに、満雅は目を細める。
――そなただけでも、無事で良かった。
言葉は朔弥と同じであるのに、声の温度は、まるで違う。春の陽のように温かかった朔弥の声とは違い、満雅のそれは、冬の水のように冷たい。優しい言葉を被った嫌味。微笑の奥には、毒と刃が込められている。
「……兄上……」
満継の喉が、ひゅ、と狭まる。口の中が渇き、握りこんだ
「よく生きて戻ってくれた」
おめおめと逃げ帰った恥知らずめ。
「挽回の機会は、これからもある」
いったい何度、恥の上塗りを重ねるのか。
「おまえも私と同じ、貴重な本家の嫡流だからな」
一族の恥め。
「……ときに、満継」
扇の先を、ついと揺らして、満雅は、すっと微笑を収めた。
「あの男……南條家の当主と、随分と親しいようだが、まさか本当に友人などではあるまいな」
「えっ……」
思いがけない兄の言葉に、満継は目を見開く。
「南條家は、我ら北條家にとって、最大の政敵。
すっと扇の先が、満継の喉もとに伸びる。小刀のように、冷ややかに。
「
「……お言葉ですが、兄上」
ぐっと
「彼は、恩に着せるような人間ではありません。それに彼は、真に私の親友――」
「黙れ、この愚弟が」
低めた声で、満雅が遮る。
「北條と南條は、この国の神々を
満継を睨みつけた満雅は、そこで激情を抑えるように息を吐き、満継から離れた。
「……友人と思っているのが、おまえだけではないと良いがな……あやつがおまえに付き合っているのも、友人のふりをしているだけ……こちらの内情を探るため、あるいは、出来の悪いおまえを傍に置くことで、優越感に浸り、おまえを引き立て役にしているだけかも知れぬぞ。確かにあやつは人当たりが良いが、だからこそ、警戒すべきだ。外面が良い人間ほど、腹の内で何を考えているか分からない」
静かに言い捨てて、兄は
「……それでも」
「彼は、そんな人間では、ありません……」
去り行く兄の足が、刹那、止まる。
「……もし、あやつが本当に、おまえが言う通りの……裏表のない、良心ばかりの人間なら……」
ふっと、微かに、
「人の欲に
振り向かないまま、兄は言った。静かな声に棘はなく、どこか寂しげで、悲しげな色をしていた。
+
昼間は
湯浴みを終えてすぐ、真尋は寝所に飛びこみ、上掛けを
もう独りで眠れる
「私も、いつか、雪を見てみたいです」
父の話を聞いて、真尋は目を輝かせた。北の地では、冬になると、空から白い氷の欠片が花弁のように降るという。それは辺り一面に積もって、昼は
「花と言えば、北の地に咲く桜は、白いそうですね」
真尋の隣で、母も声を
「そうだな、この地の桜と違って、咲き終わると花弁が散る。一斉に咲き、一斉に散るから、まさに雪の
「……花弁の雪……」
真尋は、ほう、と感嘆の息をつく。真尋の知る都の桜は、濃い緋色で、咲き終わると
「私も、大きくなって、任を受けるようになれば、北の地を訪れることができるでしょうか」
「そうだな……」
父は微笑んで、真尋の頭を、ぽんと撫でた。それから、少し悪戯っぽい色を瞳に浮かべて、目を細める。
「ただ、寒いぞ。都の冬とは比べものにならない。寒がりの真尋に耐えられるかな」
「そっ……それは……」
もごもごと言い
父と母のあいだで、真尋は温もりに包まれ目を閉じる。
このまま、ずっと、温かいままでいたいと思った。
父がいて、母がいて、もうすぐ生まれてくる弟妹がいて、皆で温もって笑って、独りで凍えて泣くことなんて知らないままで。
この幸せが、この先もずっと続くのだと、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。