緋桜帰葬
ソラノリル
花嵐ノ章
一
1-1
嘆く夜さへ 朝は知らずや
薄雲に
傷ついた左肩を、ぼろぼろの右手で押さえながら、青年がひとり、歩いていた。
――こんなはずではなかった。
悔恨と自責が、青年の胸を内側から焼き焦がすように、ごうごうと渦巻いていた。
初めて部隊長に任ぜられたのに。意気揚々と繰り出した遠征だったのに。
「……私も、ここで、
都へ帰ることもできずに。
ぐっと奥歯を噛みしめる。足を止め、振り返り、今しがた抜けた林を見据える。
枯れた木々の向こうから、
雪原の中央で、青年は荒魂と対峙した。血に濡れた手を震わせながらも、努めて呼吸を整え、音を立てて
「……掛けまくも
「……やはり、私の力では……」
血の
このまま荒魂に呑みこまれるなら、それでも構わない気がした。部隊は全滅し、
自棄になった心地で、青年が目を閉じかけたときだった。
ふっ、と、頭上を、光が
遥か後方から、
――鎮まりたまえ。
凛と澄んだ声が響く。それは、耳に届く音ではなかった。紡がれる祝詞。神に、そして魂に語りかける、
目を見開き、青年は振り返る。
雪原から続く丘の上に、すらりと
――清めたまえ。
澄んだ水の
温かな赤い光の中で、荒魂の
「……
丘の人影を見つめ、青年は呟いた。細めた黒い瞳には、沁みるような安堵と信頼の光があったが、その陰の奥底に、青年自身は認めまいとしている、
青年のまなざしをよそに、人影は、ひらりと馬に飛び乗ると、こちらに向かって、丘を駆け下りてきた。後ろに、家臣たちだろう、数騎の影を
「
人影――朔弥が、青年の名を呼んだ。馬から降り、青年に手を差し伸べる。
差し伸べられた朔弥の手を、満継は取った。朔弥に支えられながら立ち上がる。胸の奥に焦げつくような劣等感を滲ませながら、自分を助けてくれた親友の厚意を、礼とともに微笑んで受ける。口角に力を込めて。微笑が苦く歪まないように。
「そなただけでも、無事で良かった」
満継の話を聞いた朔弥は、静かに目を伏せ、しばし満継の家臣たちを悼んだ後、いっそう柔らかなまなざしを満継に向けた。
この地方の地主神が荒ぶり、満継を隊長とする部隊が派遣された。しかし結果は見ての通り、朔弥が助けに入らなければ、満継は今、生きてはいない。
「……おまえも、遠征の
朔弥の馬に揺られながら、満継は半ば独り言のように呟いた。満継が隊を率いて都を
「いや、私は視察からの帰りだ」
馬の手綱を緩やかに引きながら、朔弥が答えた。
この国の各地に国府を定め、直轄する庁を置く計画を、朝廷は進めている。国庁が完成すれば、そこには
「……地方に人員を
満継が嘆息して言葉を落とすと、朔弥が小さく苦笑する気配がした。
「朝廷の理想は理解できる。地方の神が荒ぶったとき、その
流れるように穏やかに、朔弥は言った。こころなしか
なぜ、彼と自分は、こんなにも違うのだろう。
目を落として
神を鎮め清める者――巫師は、
だが――
南條の嫡流である朔弥が、順当に高い巫力を有しているのに対し、北條の嫡流である満継の巫力は、直系の者にあるまじき低さだった。どれだけ修行を重ねても、追いつけない、並べない。決して越えられない生来の壁が、満継の眼前に
圧倒的な巫力を備え、強力な術を自在に使いこなしながら、常に微笑を絶やさず、穏やかで、誰にでも分け隔てなく慈愛に満ちたまなざしを注ぐ朔弥は、家臣からの信頼も厚く、南條家の中で尊敬と称賛の光を浴びている一方、北條家の中で満継は、冷たい陰の下にいる。巫力は弱く、ろくに術も使えない。常に自信なく背を丸め、誰とも目を合わせることができない。向けられる視線は、諦めと蔑みと、憐れみ。北條家の人間ではない朔弥だけが、幼い頃から変わらず温かく接してくれているが、満継にとっては、そんな朔弥の不変の優しさが、ありがたくも、ときに余計に辛かった。朔弥と同い年でなければ、幼馴染でなければ、親友でなければ、こんなにも、胸を
なぜ、自分は……。
朔弥のように、なれないのだろう。
朔弥のように、なれなかったのだろう。
朔弥のように生まれたかった。
朔弥のように生きたかった。
「満継」
柔らかな朔弥の声が降る。今はまだ遠い春の風のように、温かな響きで。心から自分を気遣ってくれているのが分かる。
やめてくれと、叫びたかった。
いっそ、助けないでほしかった。
あのまま
そうしたら……。
彼の微笑は、止むだろうか。
美しく整った、彼の面持ちは歪むだろうか。
思い描くべきでないと、振り払おうとして、それでも夢想は、この上なく
彼が微笑を向けるもの、慈しむもの全てを失ったなら、どんな顔をするだろう。
陽だまりの中心から陰の底へと引きずり下ろしたなら、どんな瞳をするだろう。
朔弥から全てを奪いたいと思った。
かけがえのない親友なのに。
大切な存在だと、失いたくないと、心から思っているのに。
彼の絶望を、
そんな自分を、満継は誰よりも殺したかった。
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