緋桜帰葬

ソラノリル

花嵐ノ章

1-1

 の赤に 月の青では かなはぬと

 嘆く夜さへ 朝は知らずや




 薄雲にふるわれた淡い朝陽の射す冬空の下、白いしろい雪原に、ふたつの色が落ちていく。ひとつは黒。重く踏みしめられた足跡が、薄い雪の紗を穿うがち、黒い地肌をのぞかせている。もうひとつはくれない。足跡の後ろを追って、一滴、一滴、僅かに雪を融かしながら、染みを広げていく。

 傷ついた左肩を、ぼろぼろの右手で押さえながら、青年がひとり、歩いていた。としは二十の半ば頃。背こそさほど高くはないが、よく鍛えられ引き締まった体つきをしている。青藍せいらん単衣ひとえ黒橡くろつるばみの上衣。束ねていた長い黒髪は、半ば解けて乱れ、汗の伝う頬に張りついている。荒く乱れた息は、しかし、傷の痛みによるものだけではなかった。

――こんなはずではなかった。

 悔恨と自責が、青年の胸を内側から焼き焦がすように、ごうごうと渦巻いていた。

 初めて部隊長に任ぜられたのに。意気揚々と繰り出した遠征だったのに。おのれの力では及ばなかった。帯同した家臣の命が全て喪われてしまった。

「……私も、ここで、しかばねになるのか……」

 都へ帰ることもできずに。

 ぐっと奥歯を噛みしめる。足を止め、振り返り、今しがた抜けた林を見据える。

 枯れた木々の向こうから、うごめく黒い影が現れた。大きさは十尺を優に超え、いびつひるに似た姿をしている。この先の村里を襲い、百人余りの命を奪った――荒魂あらみたま。この辺り一帯の土地におわす地主神が、荒ぶり、災厄となったもの。それは、触れるもの全てを腐らせながら這い進み、未だ残る生者へと――青年へと向かう。

 雪原の中央で、青年は荒魂と対峙した。血に濡れた手を震わせながらも、努めて呼吸を整え、音を立てててのひらを合わせると、固く印を結ぶ。

「……掛けまくもかしこ瑞穂みずほの神……禍事まがごと、罪、けがれうるわ大御神おおみかみの地に有らんをば、清めたまえ、鎮まりたまえと、申すことを聞こし召せと、畏み畏み申す……っ!」

 祝詞のりとを唱え、手を掲げる。青白い光が幾重いくえにも、帯のように荒魂を包む。しかし、それは一瞬ではじかれ、青年の口の端から血がこぼれた。破られた術は、術者に返る。鎮めの術は一種の調伏ともいえ、失敗した際に身に受けるのは呪詛返しに等しい。

「……やはり、私の力では……」

 血のしたたる雪原に膝をつく。荒魂あらみたまの這い寄る気配が、すぐ傍まで迫っていた。

 このまま荒魂に呑みこまれるなら、それでも構わない気がした。部隊は全滅し、おのれの無力さが浮き彫りになったのみ。こんなざまで都に帰ったところで、なんになる。

 自棄になった心地で、青年が目を閉じかけたときだった。

 ふっ、と、頭上を、光がぎった。鮮やかな赤い光。青年は、はっと顔を上げる。

 遥か後方から、まばゆく赤い光の帯が、青年を飛び越え、弧を描き、荒魂へ向かう。それは瞬く間に荒魂を包み、動きを止めた。


――鎮まりたまえ。


 凛と澄んだ声が響く。それは、耳に届く音ではなかった。紡がれる祝詞。神に、そして魂に語りかける、まこと巫者ふしゃの声だった。

 目を見開き、青年は振り返る。

 雪原から続く丘の上に、すらりとたたずむ人影があった。遠目で顔は判らない。だが、青年には、それが誰なのかが分かった。なぜ、と、青年の喉がかすれた声を吐く前に、人影が、静かに、荒魂あらみたまに手を差し伸べるように、印を結ぶ。


――清めたまえ。


 澄んだ水のおもてが光の円環を描くように、静かな響きが波を打つ。荒魂を包む赤い光が、ひときわ明るさを増し、白に近づく。眩しさに、青年は目を細めた。

 温かな赤い光の中で、荒魂のまとっていた黒いすすのようなものが、墨が水に溶けるようにがれ、霧散していく。やがて中から白く輝く鹿のような輪郭が現れると、それは一声、高く鳴くように喉をらした。黒いひるの姿だった荒魂から、白い鹿の姿をとった和魂にぎみたまへ。形を変えた地主神は、静かにきびすを返すと、大きく跳び、林の向こうに消えていった。

「……朔弥さくや

 丘の人影を見つめ、青年は呟いた。細めた黒い瞳には、沁みるような安堵と信頼の光があったが、その陰の奥底に、青年自身は認めまいとしている、ぬぐいきれない仄暗い嫉妬と憂恨もたたえていた。

 青年のまなざしをよそに、人影は、ひらりと馬に飛び乗ると、こちらに向かって、丘を駆け下りてきた。後ろに、家臣たちだろう、数騎の影をともなって。

満継みちつぐ

 人影――朔弥が、青年の名を呼んだ。馬から降り、青年に手を差し伸べる。としは青年と同じ二十の半ば。すらりと高い背に、深緋こきあけの単衣、黒鳶くろとびの上衣。長い黒髪を、右肩の上で、真朱しんしゅ組紐くみひもで緩く束ねている。さらさらと清流のように流れる漆黒の髪は、もつれることも乱れることも知らず、滑らかな白い頬を優美に引き立てている。瞳は黒曜石に似て、どこまでも深く澄みきっている。涼やかな切れ長だが、冷たい印象を欠片も与えないのは、まなざしが慈しみに満ちていて、温かく柔らかな光をたたえているからだろう。つくづく、荒々しさとは無縁の男だ。朔弥――南條なんじょう朔弥は、青年――北條ほうじょう満継の、幼馴染にして唯一の親友だった。

 差し伸べられた朔弥の手を、満継は取った。朔弥に支えられながら立ち上がる。胸の奥に焦げつくような劣等感を滲ませながら、自分を助けてくれた親友の厚意を、礼とともに微笑んで受ける。口角に力を込めて。微笑が苦く歪まないように。

「そなただけでも、無事で良かった」

 満継の話を聞いた朔弥は、静かに目を伏せ、しばし満継の家臣たちを悼んだ後、いっそう柔らかなまなざしを満継に向けた。

 この地方の地主神が荒ぶり、満継を隊長とする部隊が派遣された。しかし結果は見ての通り、朔弥が助けに入らなければ、満継は今、生きてはいない。

「……おまえも、遠征のめいを受けていたんだな」

 朔弥の馬に揺られながら、満継は半ば独り言のように呟いた。満継が隊を率いて都をった日、朔弥はまだ都にいた。その後に、朔弥にも荒魂あらみたまを鎮める命が下ったのか、と。

「いや、私は視察からの帰りだ」

 馬の手綱を緩やかに引きながら、朔弥が答えた。

 この国の各地に国府を定め、直轄する庁を置く計画を、朝廷は進めている。国庁が完成すれば、そこには巫師ふしも駐在することになっていた。その中で、北方の地に置く第一の拠点が、まもなく竣工するらしい。その視察のめいを朔弥は受けたのだ。

「……地方に人員をけるほど、巫師の数は多くないのに」

 満継が嘆息して言葉を落とすと、朔弥が小さく苦笑する気配がした。

「朝廷の理想は理解できる。地方の神が荒ぶったとき、そのたびに都から巫師を派遣していたのでは、どうしても後手に回り、時間も有してしまう。各地の拠点に巫師が常駐できれば、地主神を日頃からまつり、和魂にぎみたまに保つことができるかもしれない。たとえ荒魂あらみたまとなったときにも、今よりずっと早く鎮め、犠牲も抑えられる……そのためにも、我々、巫師の一族は、多くの後継が育つことを求められているのだ」

 流れるように穏やかに、朔弥は言った。こころなしかうれいを帯びた声音に聞こえるのは、巫師だった家臣を喪った自分の感傷だろうか。

 なぜ、彼と自分は、こんなにも違うのだろう。

 目を落としてうつむき、満継は朔弥に気づかれないよう、独り、唇を噛む。

 神を鎮め清める者――巫師は、こころざせば誰でもなれるものではない。絶対の素質として、生まれ持った巫力ふりょくが必要だ。巫力がなければ、巫術は使えない。そして、強い巫力の多くは、血脈によって受け継がれる。その最高血統とうたわれているのが、満継が属する北條家と、朔弥が属する南條家だった。さらに、直系の者ほど総じて巫力は強く、遠戚になるほど弱くなることも、一族内での序列を堅固なものにしていた。

 だが――

 南條の嫡流である朔弥が、順当に高い巫力を有しているのに対し、北條の嫡流である満継の巫力は、直系の者にあるまじき低さだった。どれだけ修行を重ねても、追いつけない、並べない。決して越えられない生来の壁が、満継の眼前にそびえている。先代を流行病はやりやまいで亡くし、唯一の嫡子であった朔弥は、一族の期待を一身に受け、若くして南條家の当主になった。十代で部隊長を務め、満継より遥かに多くの任務をこなしながら、これまでに一人も家臣の犠牲を出していない。対して満継は次男であり、跡継ぎの声がかかる見込みはなく、よわい二十も半ばを迎えた此度こたびの遠征で、やっと念願の部隊長に任ぜられながら、隊員を全員犠牲にしてしまった。せっかくの好機だったのに。部隊長に任命されて、やっと努力が認められたのだと、期待をかけてもらえたのだと、思ったのに。胸に自信を灯して、無事に任務を完遂させて、堂々と顔を上げて、都に帰還して、家の前に立てば皆に笑顔で迎えてもらえる……そんな未来を夢みていたのに。それが叶うのは自分ではない。どこまでも、朔弥だ。

 圧倒的な巫力を備え、強力な術を自在に使いこなしながら、常に微笑を絶やさず、穏やかで、誰にでも分け隔てなく慈愛に満ちたまなざしを注ぐ朔弥は、家臣からの信頼も厚く、南條家の中で尊敬と称賛の光を浴びている一方、北條家の中で満継は、冷たい陰の下にいる。巫力は弱く、ろくに術も使えない。常に自信なく背を丸め、誰とも目を合わせることができない。向けられる視線は、諦めと蔑みと、憐れみ。北條家の人間ではない朔弥だけが、幼い頃から変わらず温かく接してくれているが、満継にとっては、そんな朔弥の不変の優しさが、ありがたくも、ときに余計に辛かった。朔弥と同い年でなければ、幼馴染でなければ、親友でなければ、こんなにも、胸をむしりたくなるほどの嫉妬も劣等感も自己嫌悪も覚えずに済んだだろうか。

 なぜ、自分は……。

 朔弥のように、なれないのだろう。

 朔弥のように、なれなかったのだろう。

 朔弥のように生まれたかった。

 朔弥のように生きたかった。

「満継」

 柔らかな朔弥の声が降る。今はまだ遠い春の風のように、温かな響きで。心から自分を気遣ってくれているのが分かる。

 やめてくれと、叫びたかった。

 いっそ、助けないでほしかった。

 あのまま荒魂あらみたまに呑まれて、死んでしまえたら良かった。

 そうしたら……。

 彼の微笑は、止むだろうか。

 美しく整った、彼の面持ちは歪むだろうか。

 思い描くべきでないと、振り払おうとして、それでも夢想は、この上なくかんばしい香炉から立つ煙のように、心にまといつき、仄暗く甘美な享楽に酔わせていく。

 彼が微笑を向けるもの、慈しむもの全てを失ったなら、どんな顔をするだろう。

 陽だまりの中心から陰の底へと引きずり下ろしたなら、どんな瞳をするだろう。

 朔弥から全てを奪いたいと思った。

 かけがえのない親友なのに。

 大切な存在だと、失いたくないと、心から思っているのに。

 彼の絶望を、こいねがわずにいられない。

 そんな自分を、満継は誰よりも殺したかった。

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