昔と今とささくれと。

透々実生

昔と今とささくれと。

 ……確か、小学生の頃だったか。

 私の指には、いつもささくれができていた。そう、あの爪の生え際辺りの皮が剥けているアレだ。

 原因は主に乾燥や肌荒れ、栄養不足なので、対策すればささくれは起きにくくなる。実際、今の私は肌荒れ対策にクリームを塗ったり、ビタミン補給サプリを毎朝飲んだりしてるお蔭で、殆どささくれを見なくなった(無論、それでも少しはできる。昨今の医薬品系CMのトレンドに乗っ取れば、ささくれは99%削減できたと言えるだろう)。

 だけど、小学生の時分は毎日の様にささくれができていて、10本中8〜9本に発生したように思う。まあ、それだけなら良かった。

 ある時、スクールカーストで言うなら一軍クイーンビーに当たる吊り目のクラスメイトからこう言われたのを機に、学校生活は一変することとなる。


「まあ、ささくれだらけ! なんてなのかしら!」


 ……今もそうかは分からないが、当時は「ささくれができる人は親不孝者」という根も葉もない噂が、まことしやかに流布していた。特に小学生なんて、そういった噂に飛びつきやすい。噂を科学的に解明しようとする子なんてまれだし(どころか類稀なる才能だ)、大体大した力もない癖して上ばかり立ちたがる子には、その真実性などどうでも良かった。

 他者を何かしらの形で貶められさえすれば、噂も嘘も何でも使う。コイツは将来ロクな大人にならないんだろうな、とその時は思っていた。

 さておき、私には言い返す論拠があった。その当時私は家事を手伝っていて、全く親孝行をしていないという訳ではなかったのだ(それが親孝行かというと微妙だが、子供ができる孝行なんてたかが知れている)。

 だけど、当時の私は彼女に言い返せなかった。彼女は校長の娘だったのだ。逆らったりいじめたりすれば、何をされるか分かったものではない(同様の理由で、先生も何もできなかった。今思えば少し可哀想だったかも)。彼女は、それを後ろ盾に中心に居続けた。「私に逆らうと、お前も学校を辞めさせるぞ」と根も葉もない主張で周りを従わせていたのだ。

 従って母親にも言わなかった――片親シングルマザーで忙しく働く母に、これ以上心配も心労もかけたくなかったのだ。

 ――かくして、か弱き(実際、か弱き)私は、一軍クイーンビーにより三軍ターゲットにされた。抵抗する術も、助けを求める先もいなかった。

 私はその境遇を否定したくて、ささくれができる度、必死にハサミで切り取っていた。それでもささくれは出続けたし、いじめは続いた。しまいにはささくれを引っこ抜かれたこともあった。

 ……不意に、当時いじめられていた時、ごめんなさいと言い続けていたことを思い出した。何も悪いことしていないのに、何に対して謝っていたのかは、今になっても分からない。けど、幾ら考えても分からないのだろう、とも思う。


***


 ――心の奥底で腐りかけた嫌な思い出が、腐臭の様に立ち昇ってきたのは、今になってささくれができたから……ではない。もうささくれができたとて、最近は記憶の解像度も下がったのか、はっきり思い出すこともなくなった。


 もっと直接的だ。

 思い出が甦ったのは、目の前から、あの吊り目の一軍女クイーンビーが歩いて来ていたからだ。


 毎日いじめられていたからだろうか、彼女の人相は脳裏にこびり付いていた。まるで靴で踏ん付け、へばりついたガムの様に。

 そんな彼女の権威は今も健在なようで、位置的にも雰囲気的にも中心に立ち、OL達と談笑している。

 ――そう。そうだった、と。1つ記憶が鮮明になると、芋蔓式に他の記憶も鮮明になってゆく。

 結局彼女は父親校長を後ろ立てとしたために、ついぞ小学生の時は追い落とされることがなかった。どころか、立ち回りが上手いのか根回しが上手いのか、校長の後ろ盾がなくなった中学校になってからも、その権威は衰えなかった。常に中心に立ち続け、横暴に権威を翳し続けた。

 一方の私はと言えば、中学生になっても三軍に甘んじた。いじめられ続け、ただひたすら耐え忍ぶのみ。今も私は、居ても居なくても変わらない量産型OLでしかない。

 結局のところ、元より彼女には力があって、私には無かっただけの話だ。

 そう。ただそれだけの話。なのに、それだけで片付けたくはなかった。

 納得できる筈がなかった。

 いや、納得したくなかった。

 何で、私をいじめたコイツが。

 何で、私は今。

 ――気付けば心がささくれ立っていた私は、彼女のことを睨みつけていた。私の無意図的な視線に気付いたのか、彼女がこちらを一瞥する。

 吊り目の彼女に睨み返された気がして、慌てて目を逸らす。

 ごめんなさい、と心のささくれを切り取る様に呟き、小走りにその場を去った。


 この時私は、不意に、何に対しても謝っていないのだと悟った。ただ、「自分に危害を及ばさないで下さい」という懇願の言い換えなのだと。子供の時にはそういう語彙が無いから、「ごめんなさい」としか出力されないのだと。

 ……私には、力が無い。

 改めて、そう悟った瞬間だった。


***


 嫌な記憶を思い出してしまった。

 その記憶に棲まう、嫌なヤツと遭遇もした。

 そしてソイツは記憶の中と変わらず集団の中心に立っていて、私は昔と変わらず集団の辺縁に佇んでいた。

 そう、昔と変わらず。

 私に力なんて有りはしなかった。

 ささくれだって、昔と変わらずだ。指にできていたささくれが、今は心にできただけの話。

 何も変わっていない。

 何も、変わっていないんだ。

 ……マンションの一室の前に立ちながら、溜息をついた。

 ドアを開ける前に、再度、口を少し大きく開ける。腹を窪ませる様に息を吐き、自分の中のドス黒い感情を追い出す。それから新鮮で静謐な夜の空気を吸い込む。まだ少し冷えた春の空気が心地良い。

 これで大丈夫。今日こそは、大丈夫。

 鍵を開けてドアを開く。居間の方から「おかえり〜」と気の抜ける様な優しい声。私の母だ。御年既に60歳、まだまだ元気にパートで働く、脳も足腰もしっかりしたお年寄りになっていた。

「ただいま〜」

 黒い感情を排した、努めて明るい声で母に返す。靴を脱ぎ、鞄をそっと床に置いて、リビングへ。

 そこには、皺の少し増えた母。じっと、目を凝らす様にして私を見る。

「……どうしたの、お母さ――」

「また、

 ドキッとした。その瞬間顔に出てしまったのか、母は確信したように目尻を下げ、悲しそうな笑みを浮かべた。


 ……昔からそうだった。

 母は、自分がいじめられると必ず何かを察知する。小学生当時の私は、母に心配も心労もかけたくないから言わなかったが、そんなことなど母にはお見通しだった。

 ちなみに当時は今よりももっとバイタリティがあって、校長の娘にやられたことを白状すると、単身学校に突っ込んで行った。それからというもの、いじめは少しトーンダウンした。多分、彼女は校長に諭されたのだろう。

 しかし、今にして思えば、その時から彼女は校長の後ろ盾を意識しなくなったように思う。校長という後ろ盾はいつか崩れてなくなる。それに子供ながら危機感を覚えた彼女は、ありとあらゆる権威を守る手段を行使したのでは。

 ……今日は、よく過去のことを思い出したり、考えたりする日だ。


 目尻を下げた母は「おいで」と手招きした。気恥ずかしさを覚えた私は一瞬躊躇ったが、母に歩み寄る。

「あんたも大人になったからね。本当は、自分のことは自分で処すもんさ。ただ――」

 そう言って母は。

 私の手を優しく握った。

「こうやって、慰めることはできるからね。いつでもアタシに相談するんだよ」

 まるで、痛みを包み込むように。

 あの時と同じだ――ささくれを引き抜かれて痛みに泣いた小学生の時と同じ。あの時も、「痛いの痛いのとんでけ」と言って慰めてくれたっけ。それから般若の形相を浮かべて学校に向かって行ったな。

 あの時の母が、ヒーローに見えた。

 顔も知らない父の様に、頼もしく見えた。

 今は皺が増えて背丈も少し小さくなったけど、それでも母に対する印象は、昔から変わらない。

 私を女手1人で育ててくれた、母。

 ここで私は、ロクに親孝行ができていなかったな、と思い直した。勿論、家事手伝いは今もやっているが、それはただの家事手伝いだ。子供ならそれでも良かったが、大人になったらそればかりではいけないだろう。

 多分、どれだけやっても孝行なんてし切れない。育ててくれた恩を全部返すなんて、心情的に不可能だ。

 それでも、できる限りの感謝は伝えなきゃ。

 でないと、またささくれができるかもしれない。それで母を心配させたくはないしね。

 私は気恥ずかしさを捨て、一息に言う。


「ね、お母さん、いつもありがとう」

「……どうしたんだい、急に」

「ううん。言いたかったの。ちゃんと」

「…………そうかい」


 その時の気恥ずかしそうにする母の顔を、きっと忘れないでいよう――そう思った。


「……あのさ、お母さん。今度旅行に行こうよ」

「旅行! 良いね。1回一緒に京都とかに行ってみたかったんだよ――」

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