その5







 昔の話だ。

 昔は、宇宙飛行士になりたかった。それこそ宇宙を何度だって夢見たし、その為に机に齧り付いて勉強をした。今、家に溜め込む雑誌類だって当時、集めていたものだ。

 あの頃は無我夢中で頑張れば夢が叶うと思っていた。若葉が共にいてくれたから。

 でも俺らは離れ離れになった。


「…どうしてだっけ」

 ぽつりと、思い出に浸る中で声が溢れた。

 満点の星空が輝く下で、俺たちは海に足を運んでいた。漣が立つ。穏やかな水の音が響いていた。

 結果として、今日は悠長にしていて良い休日だった。思い返せば倒れてしまうほど疲労が溜まるほどの連勤があったのだ。そろそろ休暇を与えられていてもおかしくない。

 友人が少ないことも踏まえ、当然休日の用事など白紙の俺は昼間は身体の休息を徹底した後、若葉に誘われるがまま夜の浜辺へと足を運んでいた。

「すごーい!見て、めっちゃ綺麗に月が出てるから反射してるよ!」

 若葉はざぷざぷと揺れる海面を指さして楽しそうに笑った。物珍しそうに目を輝かせる彼を見て詰まっていた空気の循環が穏やかに回り出すのを感じる。

「ね、天気が良くて良かった」

 まるで視界一面に宇宙が広がっているようだった。あの中に飛び込めば、きっと勘違いさせられるだろう。

 深海を泳ぐ海洋生物を宇宙人だとかUMAだと思い込むことだろう。呼吸ができないのを宇宙では酸素を見つけるのが難しいからだと錯覚するだろう。

 海というものは地球で一番宇宙に近しいところだと思う。だからこそ、彼は海を望んだのだ。海月になりたいと願って、一人、幻想の宇宙へと飛び立ったのだ。

「…あれ」

 其処まで誰かに想いを馳せて、霧がかった思考に郷愁が断ち切られる。

「…二藍?」

 心配そうな若葉の瞳がこちらを覗き込んで、ふるふると頭を横に振った。まだ疲労が落ち切ったとは思えない。あまり考えすぎてしまっても仕方ないだろう。

「いや、昔も来たなと思って」

「むかし…、ああ、朽葉と?」

 ぽん、と若葉は思い出したことを示すように手を叩いた。その仕草に少し擽ったく笑いながら頷く。

 あの頃はまだ小学生だったか。遠足で近くの水族館まで来ていて、同じ班で行動していた若葉と俺はいつのまにかクラスメイト達と逸れていた。時間が押していたのもあり、全員がもうバスに乗り込んでしまったのだと思い二人で水族館を飛び出した。

 しかし、其処にはクラスメイト達の姿はなく、自分達は困り果てながら一先ずはバス停を探すことにした。そうして少し歩いた先で見つけたのがこの浜辺だったのだ。

「確か、此処で初めて朽葉と出会ったんだよね」

 こうして、まるで宇宙のような盛大に見える景色を見て俺たちの不安はいっそう駆り立てられてしまったのだ。静かな世界で波の音だけが響いて、世界に二人きりのようで。幻想的な空気の中で俺たちは互いの存在を確かめ合うように硬く手を結んで波間を眺めていた。

 自分達の知らない場所、知らない世界に突如投げ出されてしまった恐怖。それと同時に不思議な自信が湧いていた。二人なら大丈夫だと。

 其処で、自分達とはまた別の砂を蹴る音が聞こえた。現れたのは今と変わらない、背丈が長くてヒョロリとした体躯の男だった。その人物─朽葉は手に持っていた機械から視線を外して、俺たちを見て困ったような表情で辿々しくも話をしてくれたのだ。そうして、彼がタクシーを呼んでくれたおかげで俺たちは無事家まで送り届けられた。

 そう、そのタクシーが到着するまでの待ち時間の間に彼が宇宙のことを教えてくれたのだ。偶然にも当時の彼は宇宙飛行士だったか何かで小学生の好奇心に気圧されながら星の名前だとかを答えてくれていた気がする。随分と疲れていたからか答えてもらった名称も記憶の中では曖昧で、帰ってから図鑑やらインターネットやらを駆使して調べても教えられた星は出てこなかったのだが。

「あの時に、約束したんだっけ」

 いつか二人で宇宙飛行士になって会いに行くと。

「…そっかあ」

 若葉もまた思い出に浸っていたのか、腕を組んでふむふむと頷いていた。

 そんな彼を見て若葉は今はどうしているのだろう。と疑問が湧く。彼の態度から察するに、未だに宇宙を夢見ているように思うし、彼は別れるまで宇宙飛行士の夢を諦めていなかったはずだ。最後まで海を眺めながら互いに将来を語った気がする。

 自分の夢は潰えてしまったが、彼がもしまだ宇宙を志しているのであれば俺は応援するべきだろう。もう、二人で並べるような強さは無くなってしまったのだが。

「若葉は…」

 確認を取ろうと若葉に顔を向けたところで、不意に若葉の鞄の中から、けたたましい警音が鳴り響いた。

「わっ!ちょっ、ちょっと待って!」

「え、あ、うん」

 彼は慌ただしく俺の傍から離れると、肩からかけていた大きな鞄を弄って何か機械を取り出した。耳に添える仕草を見て、先ほどのアラートが電話を告げていたのだと悟る。それにしても、心臓の弱い人には向いていないもののような気がするが。

 普段より大きく跳ねる心臓を宥めるように胸を撫で、再度海へと顔を向ける。

 広がる世界の果てを見て、改めて自分の矮小さを知らしめられたような心地になる。もう立ち上がることは難しい。二人共にいれば無敵だと思っていたあの頃よりも自分は大人になってしまった。一人を知ってしまった。

「え?うん、そうそう。二藍と!」

 感傷に浸っていれば、遠くから若葉の楽しげに弾んだ声が飛んでくる。静かすぎるこの空間では意識して声を潜めなければ響いてしまうものだ。とはいえ盗聴してしまっているような形に少し罪悪感が芽生えてしまう。

 自分の名前が出るということは電話の相手は恐らく朽葉であることから、其処まで気を使う必要もないと思うが。

 ぽり、と手持ち無沙汰に頬を掻いて若葉の方を見遣れば、彼は酷く穏やかな顔で笑っていた。今日一日、見せることもなかった想像すらさせなかった、落ち着いていて温かい眼差しを向けて海を眺めている。

「来れてよかったな、海」

 その静かで優しい声が、ちくりと俺の胸を刺した。






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まわり舞わりし運命星。 @mayk42

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