Pan-optikos

平山芙蓉

1

 コーヒーを啜りながら、今日も監獄の様子を眺めていた。鉄柵の向こう側にいる囚人たちは、大半が去勢された犬みたいに大人しい。ここのシステムからして、脱獄は難しいと理解しているからだろう。もちろん、発狂している奴だって数人はいる。だけど、そいつらの声を聞きながら、自分は安全な所にいられるというのは、筆舌に尽くし難い愉悦を感じてしまう。


 囚人は毎日のように運ばれてくるし、牢が満員ならば、重罪人から順番に処分されていく。同じ人間を見るのは精々が一月程度の話だ。やることは少ないけど、日常的に新作映画が放映されているみたいなものなので、飽きることはほとんどない。


 そうしてくつろいでいるところに、アラームが鳴った。

「もうそんな時間か……」

 寝起きみたいな気分で壁のカレンダーを確認して、僕は落胆した。優雅な時間を過ごしていたというのに、あろうことか配膳当番だ。この職場で、唯一嫌いな業務だ。やりたくはないけれど、そうも言ってられない。遅れたら後に迷惑がかかる。身体を椅子から剥がし、重たい足取りでモニタ室を出る。


 部屋を出てすぐ正面のエレベータに乗り、一階まで降りた。扉の先には、食事係の作った料理の既に乗ったカートが並んでいる。献立は何が何なのか、よく分からない。そもそも、どれもままごと遊びの玩具のような見栄えだから、食欲のそそられる作りではない。

 

 担当のカートを確認して、囚人の数と合っているかを確認する。その間に、別のエレベータから、同僚が降りてきた。腹周りから上へかけて脂が乗っているせいで、冬場の鳩みたいな容姿だ。


「よう。今日はお前が配膳だったか」彼は野太い声で言った。


「ああ」僕はカートから目を離さずに続ける。「最高の職場だけど、こればっかりは嫌になるね」


「犯罪者とはいえ、一応は人間だ。嫌でも飯は食わせてやらなきゃならん」


「さっさと全員、処分してしまえば良いのに。そうすれば空きも新鮮味も出る」僕は大きく溜息を吐いた。


「お前は本当に、そっちの方が好きだよな」


「ガス室で喚く囚人どもを見るのは、最高だろう?」


「それは間違いない」


 二人して笑い合った後、僕たちはそれぞれの持ち場へと回った。

 ここでの職務で、監視塔から出なければならないのは、配膳と処分の時間だ。配膳はこうして担当ブロックの房へ、食事を届けるだけの仕事。正直な話、わざわざ看守が届けに行くのは面倒極まりない。ただ、調理スタッフに運ばせてもしもトラブルがあれば、そちらの方が仕事は増える。負担軽減を名目に一時期、機械が導入されたこともあったけれど、脱獄を企てた囚人がいたせいで結局、元通りになってしまった。即刻処分されたから良いものの、あんな奴さえいなければ今頃、もっと楽に過ごせていただろうに、とも考えてしまう。


 鉄柵の受け渡し口を開き、食事を置いていく。牢の中は清掃なんてされないから、黴臭い。そのせいか、大抵の囚人は無気力で、食事を前にして感情を顕わにすることはない。発狂している奴だって、この時ばかりは大人しくなる。精々が、棄てられた人形みたいに虚ろな目で、僕を眺めているだけだ。まるで、救いでも求めるかのように。でも、良い子のフリをしたって、時機が訪れれば必ず処分される。情状酌量の余地など、今の社会に存在しないのだから。


 そうやって機が熟した囚人たちを、ガス室へと連行するのが、処分という仕事。表向きは苦しまずに死ねる、人道的なガスとされているが、実際はみんな泣き喚きながら死んでいく。操作は至極簡単。毒ガス供給のスイッチを押して、全員が死ぬのを待つだけ。生命反応が完全になくなり、換気も済めば、自動的に終了する。僕はそちらの業務に就いている方が好きだ。楽というのもあるけれど、正義に仇をなした悪人どもの末路を見ていると、スッキリするからだ。


 隣のブロックではちょうど、その処分対象の囚人が牢から出されていた。誰も彼も顔は青白く、瞳は怯えを孕んでいる。逃亡防止のために、手錠が嵌められているが、逃げ出す素振りは見せない。


「今日はそいつらだけか?」僕は近くにいた後輩に、笑いながら聞いた。


「はい。収容者も珍しく少ないみたいで」


「それは残念だね」


「いやぁ、このくらいが良いですよ。連れて行くのだって面倒だし」後輩は苦笑いを浮かべた。


「だったら、変わってあげようか?」


「何言ってるんですか。先輩、サボりたいだけでしょ?」


「ばれたか」


 手を止めて談笑していると、牢の前に立たされた囚人の一人がいきなり、叫び声を上げて暴れ始めた。


「何でこんな目に合わなきゃいけないんだ! 俺はちゃんと反省した! 悪いと思っている! 罰せられて当然だ! だからって、どうして殺されなきゃならない!」


 後輩は慌ててそいつに近付くと、警棒で腹を殴った。手錠をかけられた男はその場に倒れこむと、芋虫のようにもぞもぞと苦しんだ。それでも、ぶつぶつと何か言葉を垂れ続ける囚人に対して、後輩は容赦なく警棒を振り下ろす。何度も、何度も。その殴打の音は、監獄中に響き渡り、気付けばほとんどの囚人、看守を問わず、多くの視線を集めていた。


 僕は呆れた気分で、その様子を傍観する。反省しているなんて言っているけれど、もしその気持ちが本心からのモノならば、きっとそんなことを口にしないだろう。だから、囚人たちはみんな平等に、ガス室へと送られる。今の我が国では、そのシステムが採用されているし、知らない人間はいない。心から自らの行いを理解し、悔いているのならば、黙って死を受け入れる以外に選択はないはずだ。


 そのうち、男はぐったりとして動かなくなった。生きてはいるみたいだけど、声と判別できない呻きを漏らしている。後輩は肩で息をしながら、血で汚れた手をハンカチで拭っていた。


「大丈夫かい? やっぱり変わろうか?」僕は後輩を見ながら聞いた。


「いえ、大丈夫です、本当に。これくらいやれないと、看守は勤まりませんから」


 彼はマラソンを走りきった後みたいな顔色で、床にうずくまる囚人を立たせる。男の顔は、トラックに轢かれたパンのように、原形を留めていない。自分で立つことも難しいのだろう。後輩に半ば引き摺られる形で、運ばれていく。あの様子なら、ガス室へ運ばれる前に命を落とすかもしれない。もちろん、僕には何ら関係のないことなのだけれど。


 騒動が収まり、監獄は平常運転へと切り替わる。僕はやりたくない業務をこなし、囚人たちはいつ来るか分からない死に震えながら、食事を取る。


 それだけをこなすことが、僕の生活。


 明日も明後日も、続いていく毎日。


 給料はまあ……、政治家やどこかの社長なんかに比べれば低い。


 だけど彼らのように、怯えて暮らすことはない。


 それに、自分は国のために、正しいことをしているのだと、犇々と感じられる。


 やりがいだって、充分だ。


 配膳業務が全て終了し、僕は監視塔に戻る。あとは終業時刻をのんびりと待つだけ。


 コーヒーを淹れ直して、ストックしてあるお菓子を開く。


 午後は少し退屈になるかもしれない。


 奴らがこれ以上、何かを起こす気力なんて、ほとんどないのだから。



 朝。


 家中に鳴り響くインターホンのチャイムの音で目が覚めた。遅刻でもしたのか、と焦りを覚えたけれど、時計の針はまだ出勤前の時間を指している。普段でさえまだ起きていない。窓枠から見える空には、昇りたての新鮮な朝日があって、それが尚更、訪問者に対する苛立ちを加速させた。


 ドアを叩いたり、ノブを回したりする忙しない騒音たちに手繰り寄せられるように、ベッドから抜け出し、寝間着姿のまま玄関へと向かう。


「はいはい……、どなたですか? こんな朝早くから……」


 土間でサンダルに履き替えて、ドアのあちら側へと文句を垂れた。

 そうして、開錠をした瞬間――、


「国民番号“一〇二二三六四七六”、お前を社会法第七〇二条に抵触したとして、拘束する。抵抗はするなよ」


「えっ?」


 ずかずかと入り込んできた警官たちが、僕の腕を掴む。何かの悪戯か冗談か、と疑った。それか、誘拐などの犯罪の類か。だけど、彼らの着ている制服には全て、僕が職場で着ているものと同じ、特殊仕様の区別バッジが付いている。トップシークレットの技術が使われているので、そう易々と量産できる代物ではない。仮にこれが金目当ての誘拐や強盗だとしても、我が国で実行すれば、監獄への収監を待つまでもなく、即刻死刑は免れない。つまりこれは、紛れもなく公的な意味合で、僕を拘束しようとしているということだ。


 腕を振り解こうとするも空しく、外へと連れ出される。家の周りには、早朝だというのに野次馬の姿があった。ほとんどが寝間着のままで、中には寒さを堪えるように、腕を摩っている奴までいる。視線は全て、情けなく抵抗する僕へと向けられていた。僕のよく知る感情を、多分に含ませながら……。


「待ってくれ、僕は何も罪など犯していない!」連行される最中、僕は叫んだ。警官の一人が、外気よりも冷たい目で、僕を睨んだけれど、僕は構わずに続ける。「そもそも、社会法第七○二条とは何だ? そんな法律は知らないぞ! これは不当逮捕だ!」


「本日付で交付された法だ。過去十年に遡り、社会から反感を得ると値する画像、映像及び、音声や文面などを、一定数、インタネットに流した事実がある場合に適応される」


「それでも、僕はやっていないぞ! 何かの間違いだ!」僕は無理矢理に立ち止まる。「そうだ、僕の職場に連絡してくれ。国営第七十八監獄だ。そうすれば、誰かと間違えていると分かるだろう?」


「うるさい!」


 後ろにいた別の警官に背中を蹴られ、僕はつんのめる。蹴られた箇所が、じんじんと熱を帯びて痛い。腕を拘束されたままの僕は、体勢を元に戻された。


「さっさと歩け。これ以上は公務執行妨害罪も加えるぞ!」


 そう言われてしまえば、僕はそれ以上のことを口にはできず、大人しく従う他なかった。


 道路に停まっているパトカーへ近寄るまで、僕は多くの目に晒される。


 誰もが口元を手で隠し、僕を嘲笑っていた。


 今までに味わったことのない、惨めな気分だ。


 これから僕は、どうなってしまうのか。


 考えなくても分かっている。


 僕がこれまで、幾度となく眺めてきた結末が、僕の身に降りかかるのだ。


 それでも、


 僕はまだ何か、救いがあるのではないか、と考えてしまう。


 そんな希望なんて、少しもないのに……。



 連行された先は、あろうことか自分の職場だった。よく知る部屋で囚人服に着替えさせられ、よく知る後輩の手によって収監された。僕は彼に無実を訴えてもみた。でも、彼は終始、部屋の隅に落ちた虫の死骸を処理する時のような態度で、僕に接した。マニュアル通りに罪状を読み上げ、マニュアル通りに房へと入れる。何度だって自分のしてきた業務を、こうして客観的に見る日が来るなんて、思いもしなかった。


 因みに、収監理由は、数年前にSNSへアップロードされた、泥酔した僕が道路標識を殴った動画のせいらしい。それが、新法に抵触するとのことで、僕は逮捕されたというわけだ。そんな動画が上げられていたなんて、僕はもちろん認知していない。そもそも、その時に誰と一緒にいたかさえ、記憶が曖昧だ。


 冷たいコンクリートの床に座り、僕は絶望に打ち拉がれた。緩やかなはずの山から、滑落してしまったかのようで恥ずかしささえ覚えてしまう。ここへ入れられてしまえば、お終いだ。どれだけ足掻こうとしたところで、ガス室へ送られるのを待つ以外にできることはない。誰もが理解している、周知の事実。そうすることで、この国の善意でできた正しい道は守られてきたし、これからも守られていくのだ。


 鉄柵から監視塔を見上げる。昨日まで僕は、ここにいた囚人を笑っていた立場だった。正義の名の下に愚弄し、死んでいく様を見て清々しい気分になり、この監獄をエンタテインメント施設のように捉えていた。


 なのに、今はどうだろう?


 観客のつもりでいたはずが、すっかり見世物の番だ。こうして入れられたことで、牢に詰め込まれた人間たちが、どんな想いをしてきたのか、ようやく思い知った。過ちは誰にでもあり、それを悔いるための仕組みがあっても良い。脳裏に昨日、後輩に殴打された囚人の姿が浮かんだ。もしかしたら、彼だって僕と同じような境遇だったかもしれない。故意にせよ、事故にせよ、偶然にその瞬間が見付かってしまい、悪人のレッテルを貼られ、死んでしまった。救いもなく、弁解もなく。誰かに話を聞いてさえもらえずに。


 そういった単純な結論さえ、正義に心酔していた僕は見失っていた。自分の番が回ってきてから、そんな風に考えるなんて、虫の良い話だ。だからこそ、僕はもう口を噤んで死んでいくしかない。死んでしまった彼に抱いた、冷酷な感想を、自分にだけ向けないわけにはいかない。


 ……そう言い聞かせて、足掻くことを諦め、思考を止めて茫然としようとしても尚、肉体に紐付いた本能は、僕を生かそうとして、理性に働きかけてくる。あの動画をアップロードし、それを見つけた誰かのせいで僕はこうなったのだ。もしもそいつが、動画など上げていなければ。もしもそいつがそんなものを見つけていなければ。僕はきっとまだ、あの塔の上でここを見下ろせていただろう。全部が全部、僕のせいではない。そいつらだって、罰せられるべきだ。そういった無益な憎しみと、先の見えない猜疑心が、気付けば分厚くなっている雪のように、僕の心に募っていった。


 冷え切った手を擦り合わせ、指先を温める。空調なんて良いものは、囚人のために用意されてない。次にここから出られるのは、処分の日だ。どのくらいの期間がかかるかは、囚人には分からない。十年先かもしれないし、明日かもしれない。どうせなら、長くなるのだけは嫌だと思った。いつ死ぬか怯えながら過ごすなんて、きっと耐えられない。


 それさえもきっと、僕たちに科せられた罰の一つなのだろうけれど。



 何日、経っただろうか。


 食事の不味さに慣れてしまうほど、僕は監獄で過ごした。その間に、囚人は何人も処分された。元同僚たちの話を盗み聞きしたところ、どうやら新法の影響で、入れ替えが激しくなっているらしい。隣は五回以上、変わっていたはずだけど、途中からはもう数えていない。そんなことをしたところで無駄だという結論に、否が応でも到達してしまうからだ。


 少ししてから、配膳の時間が来た。看守たちが配膳用のカートを押して、巡回を始める。しかし、いつもならやってくるはずのカートが、僕のいるブロックにはやって来ない。それだけで、僕は全てを察した。


「囚人番号一九〇八九五〇三。本日付で、お前は処分だ。無駄な抵抗はせず、こちらへ来い」


 房の前で止まった看守が、静かにそう言った。隣の房からも、同じような声が聞こえてくる。このブロックのほとんどが、対象となっているみたいだ。


 僕は命令通りに、鉄柵へと近寄り、小さな扉から手を出す。手錠を嵌められた。その後、看守二人に脇を固められる形で、僕は外へ出される。処分対象の囚人が多いからか、連行のために宛がわれている看守の数が多い。ほとんどが見たことのない、職員ばかりだ。


 囚人たちは老若男女問わず、様々な顔ぶれだった。中には、僕が看守をしていた頃にいた人間もいる。それに比べれば、僕は思ったよりもかなり早い。今回の処分に投獄期間は、あまり関係ないらしい。新法の影響が大きいという噂は、どうやら本当だったみたいだ。もっとも、個人的には、明日か明後日か、と焦らされるよりも、こうしてさっさと殺してもらえる方が、ありがたいのだけれど。


「よし、連れて行け!」


 最後尾の看守が、先頭に向かって叫ぶと、縄で繋がれた僕たちは、出荷前の家畜のように歩き始めた。履物を履いていない行進の織りなす、ペタペタと幼稚な足音が、廊下に響く。いつになく長蛇の列だから、その音は監獄中の至るところから、聞こえてくるような気がした。


 やがて、剥かれた林檎の皮みたいな螺旋階段に差しかかる。ここに足を踏み入れれば、後は地下のガス室まで一直線だ。どうやっても止めることはできない。歩みを止めてしまうと、看守から暴力の嵐がやってくる。きっと、苦痛は死ぬ瞬間まで取っておきたいからだろう。かく言う僕も、気持ちは同じだ。だから、僕たちの列は口を閉ざし、静かに階段を下っていく。顔を真っ青にして震え、恐怖を紛らわせながら。


 それと比して、看守たちのほとんどが僕たちに目もくれずに笑っていた。終業後のことや、週末のこと、家族や恋人なんかの話をしている奴もいる。それが僕には、明日のない僕たちに対する、自慢や当て付けみたく映ってしまう。彼らが意識してそんな話をしているのかどうかは、分からない。でも、ここで働いていた頃の僕も、連行される囚人たちからすれば、そういう風に見えていたのだろう。逆の立場になって初めて、気持ちが理解できたけれど、それさえ僕には、取るに足らない馬鹿馬鹿しいことに思えた。


 たった一つだ。


 たった一つの躓きで、僕は全てを奪われ、


 全てを失う。


 時間も、


 命も、


 心さえも。


 誰のせいだ?


 誰のせいで、こうなったんだ?


 僕のせいだけではないはずだ。


 そう……。


 きっと、最初に蜘蛛を踏み潰した、誰かのせいだ。


 地獄へ垂れる救いの糸を断ち切った、そいつのせいだ。


 だけど、この国に住まうほとんどの人間が、それを善しとしている。


 善人だけの世界を作ろうとして、


 正しさの奴隷になることを厭わない。


 ならば、変えられるか?


 誰かがまた、蜘蛛の糸を垂らせるように、世界を変えられるのか?


 諦念で満ちた脳裏に、つまらない考えが膨らんでいく。


 どれだけ思考を回したところで、全ては無駄なことだ。


 何かを伝えられることもなく、僕は死ぬ。


 見向きもされず。


 正義に踏み躙られて。


 気付けば、ガス室の扉が見えてきた。長い階段を下りてきたせいで、足の感覚はほとんどない。それでも囚人たちは、看守に蹴られたり押されたりしながら、ガス室へと詰め込まれる。僕も例に漏れず、後ろから蹴られてガス室へと入れられた。室内は暗く、手を伸ばせば届く高さの天井には、ガスの供給口がいくつも突出している。ドアが閉められれば、生命反応がなくなるまで、ガスが噴出し続ける仕組みだ。


「あれ? 先輩じゃないですか」


 僕をガス室へと押し込んだ看守が、声をかけてきた。振り返ってみると、そこには見知った後輩がいた。


「今日だったんですね、処分の日」彼は僕が収監されてからこっち、一度も見せなかった笑顔を作った。「まさか、先輩がこんなことになるなんて、思いもしませんでしたよ」


「ああ……」声の出し方を忘れた僕は、呻くような返事をする。


「でも、良かったじゃないですか? 大好きなガス室での処分で、最期を迎えられるなんて」


 房に入ってから、必要最低限以外の口を開かなかった後輩は、饒舌に喋り続ける。その片手間に、彼は囚人をガス室へと押し込んでいた。


「ああ、あと、これから死ぬ先輩には関係ないと思いますけど」彼は続ける。「先輩がここに入るキッカケになった動画、あれ撮ったのは自分です」


「は……?」僕は呆気に取られて、目を見開いた。「何で?」


「だって先輩、前々からうざかったですもん。大して仕事ができないクセに、いきがるし、趣味は悪いし。飲みに行ったって、話はつまらないし。もちろん、そう思っていたのは自分だけじゃないですよ。みんな裏では、先輩のことをそんな風に言ってましたから」後輩は舌を出した。「そんな折にちょうど、新法が施行されるっていうんで、自分が通報したんですよ。まさに、渡りに船って感じです。生きているだけで不快感を与えるなんて、最悪そのものですもの」


 ――みんなが心地良く生きるには、必要な結果だったんです。


 彼の話を、僕は口を噤んで聞いていた。そこには、何の感情も湧いていない。怒りで気が狂いそうだとか、内心で嫌われていたことに対して悲しいだとか。それとは別に、こいつを殺してやりたいとか、最期に一矢報いてやりたいとか。自分でも呆れてしまうほど、そんな起伏らしきモノたちがなかった。


 あるのはただ、空虚な納得だけだ。


「さ、そろそろですよ」


 気付けば、ガス室は満員になっていた。外にはまだまだ囚人が並んでいる。流石に、あれだけの人数を収容するのは、不可能だ。詰め込まれた囚人たちの中には、ここまで来て命が惜しくなったのか、神や仏の名前を叫び出す奴までいた。後輩や他の看守たちは、そんな叫び声たちを、コメディでも観ているかのような態度で見つめている。


「処分を開始する。扉を閉めるぞ!」


 看守の一人が宣言すると、分厚い扉が閉まった。


 そうして、ガス噴出を報せるブザーが鳴り響き、供給口からもくもくと煙が出てくる。


 息を吸うと、妙に甘ったるくて、電気めいた刺激のある香が鼻腔を衝く。


 すると、忽ちのうちに手足が痺れてきて、瞼を開けることが難しくなっていく。


 周囲では、既にガスの効果によって、こと切れている奴らがいた。


 それでも誰も、床に転がる人間のことなんて気にしている様子なんてない。


 ああ、本当に死ぬんだ。


 途切れていく呼吸の最中、僕はそう実感する。


 人生を悔いることもなく。


 来世を望むこともなく。


 自分の身体が、死体の山の一つになる瞬間を待つ。


 その間際。


 ドアの小窓から、後輩の横顔が見えた。


 僕を貶めた張本人。


 僕を殺すためだけに、正義を振りかざした人間。


 彼はこれから先も、もっと多くの人間をここへ送り込むのだろう。


 理想とする世界ができるまで、ずっと。


 だけど、彼は気付いていない。


 その正義はいつしか、自分さえも破滅に向かわせるということに。


 例外なく、平等に。


 そして、最後の独りになった時、


 あるいは、


 真に孤独へと至った時に、


 このガス室の扉を潜ることになるだろう。


 不意に、脚から力が抜ける。


 背中側へと倒れ、支えを失った人形のように、床へと叩きつけられた。


 だけど、痛くはない。


 身体中がゴムにでもなったみたいに硬く、冷たいだけだ。


 遂に僕の身体も、終わりを迎えるらしい。


 ぐるぐると回る視界の端に、


 誰かの顔が見えた。


 誰だ?


 分からない。


 それでも、


 僕にはそいつが、


 まだ『自分は天国へ行ける』なんて、


 思い込んでいる愚か者だということだけは、


 何となく分かった。


 そんなはずないじゃないか。


 だって、


 そこへ昇るために必要な蜘蛛の糸さえ、


 もうどこにもないのだから。

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Pan-optikos 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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