ささくれ、さよなら

棚霧書生

ささくれ、さよなら

 健人さんのセーターに糸くずがついてると思って、手を伸ばしただけだった。ピリッと指先に痛みが走る。

「痛いッ……」

 ささくれがセーターの毛糸に引っかかったらしい。皮膚が少しむけてしまって赤い色が見えている。

「なに?」

 健人さんは珍妙な動物でも見たように眉を寄せる。

「いや、ゴミがついてたから……」

「ゴミ? はぁ、ちょっとさぁ、セーターの糸出てきちゃってんじゃん。お前が引っ張ったからだろ」

「え、それはささくれが引っかかって」

「はいはい、言い訳する前にまずごめんなさいでしょう。美咲はそういうとこもっとちゃんとしたほうがいいよ」

 編み込まれたセーターの糸をわざわざ引っ張り出すわけないのに。この人は私がそんなに悪意のある人間だと思っているのだろうか。

 糸くずを見せてこれを取るためにセーターには触ったが結果的に私の指のささくれが引っかかってしまってセーターの糸が出てきてしまったと言えばいいのだろうが、とっさに言葉が出てこない。それに糸くずもどこかに落としてしまった。証拠となるものがない。

「謝れないの、人間としてどうかと思うよ」

「……ごめん」

「軽いんだよな。こういうときはごめんじゃなくて、ごめんなさい。わかる? なさいまでつけるの」

「ごめんなさい……」

 セーターについた糸くずなんて無視すればよかった。余計なことをした。むけたばかりのささくれを爪でえぐる。

「なんでお前のほうが被害者みたいな顔してんの? ないわ。俺が恋人でよかったね。美咲と付き合えるのなんて俺くらいなんだから」

 その日は帰ってからお風呂場で泣いた。指先のケアをちゃんとしていれば、ささくれができることもなく健人さんに怒られることもなかったのかな。私がだらしないからダメだったのかも。

 お風呂からあがって、爪切りでささくれを根本から切る。パチンッ。その音がなにかのスイッチみたいだった。

「あぁ、別れよう……」

 私は自分自身の手にハンドクリームを丁寧に塗った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ささくれ、さよなら 棚霧書生 @katagiri_8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ