知られてはならない ケンタウロスの削蹄

ronre

第1話


誇り高きケンタウロスの王が、小さき人間を見下ろしている。

壮年の、人族の男である。汗が染み込み、土汚れがこびりついた、小汚い作業着を着ている。

取り立てて特徴的な容姿はしていない。

その灰がかった髪は短く刈られてはいるが、少しばかり皮脂でぎとついている。

眉も髭も、作業の邪魔にならぬ程度に整えているだけで、見目を良くしようという頓着はないと見える。

顔づくりもでこぼことしていて、とてもうつくしいとは言えない。

体つきは痩せ気味の筋肉質、外に出て土臭い仕事をしている人間は、こんなものだろうという程度のものである。

本来であれば、王に謁見するなどありえない、農地で家畜の世話をしているような男である。


だがしかし、ケンタウロスの王、ハイポニキウスは、その男に向かってお辞儀をする。

今回も頼んだぞ、と。

うやうやしく。まるで王にとっての王であるかのように。


男はその姿を見て眉をしかめ、そんな姿をおれごときに見せるなよ、とぶっきらぼうに返す。

おれはただ――おまえの爪を切りに来ただけなのだからと。

男は、王専属の削蹄師であった。

ケンタウロスの王の蹄を、彼だけが整えることができる。



✂✂✂✂✂✂✂✂



王宮の一画に造られた専用の削蹄室には、王と削蹄師のみが立ち入ることを許される。

削蹄の際には、王宮で働く衛兵や使用人たちは、部屋の近くに立ち入ることさえ禁じられている。

それはいかなる邪魔も入れてはならぬ、神聖な儀式なのである。


男は、鎌のような爪切りに、ざらついたやすり、ハンマーやペンチなどを懐から取り出し、床に並べ始める。使う道具の確認から入ることで、精神を深く統一する。

これから王の体に刃を入れ、やすりをかけ、時にはハンマーで打ったりペンチで裂いたりするのだから、一切の失敗は許されない。

優しき王は多少の失敗で処罰などしないだろうが、男は常に、失敗しようものなら自害する覚悟でこの儀式に臨んでいた。


ケンタウロスの王、ハイポニキウスを見上げる。

もう何回目になるだろうか、最初にこの王宮に招聘されて顔を合わせたときから、印象は一切変わっていない。王の御尊顔は、芸術品のように整っている。


丁寧に湯浴みと石鹸で磨かれた長髪は、金色の王冠に負けじと光を放っているかのよう。

筋の通った高い鼻に、硝子細工にも思える透き通った瞳。艶やかなくちびるから紡がれる言葉は、民を心酔させている。

――だが男が削蹄をするこの時のみは、わずかに眉尻を下げ、不安そうな表情を覗かせる。

当然である、誰よりも上に立つはずの王が、他人に自らの身体の一部を預けることなど、この時くらいなのだろうから、不安にもなろう。

男はこの表情を独占していることが、ひそかに光栄であった。


下半身は、その美しき上半身を引き立たせるかのようにがっしりとしていて、強靭な筋肉の盛り上がりが、王座に至るまでに歩んできた戦歴を何よりも物語っている。

その力強さと、光り輝くかのような毛並みの印象が混ざり合い、神々しささえ感じる。何度見ても壮観である。

そして、脚へと目を移す。やはり丸太めいてふくらむ筋肉の稜線が、彫刻のように深い影を作るその最下部には、ケンタウロスの王の蹄がある。

その場所だけは他とは違った。おお、なんたることか。その蹄は土、泥に汚れ、野放図にのびのびと伸びきっていた。ボロボロになり、ささくれ立ったその蹄だけが、男と同じ地位まで堕ちていた。


王は忙しい。魔獣や魔物が満ち溢れるこの世を、その身一つで平定した王であるが、まだまだ世には王の力が必要な場面がたくさん残っている。

優しき王は東に呼ばれれば直ぐに向かい、西に呼ばれれば寝ずに荒野を書け、北も南も構わずに走り回っている。

それゆえに民からも愛され続ける王であるが、地と触れ続ける自らの足先にだけは、どうしても目が届かなくなるという。

民の穢れを吸い上げたかのようなそれは、見方を変えれば王が玉座に座り込んで怠惰を貪ってなどいない証であり、誇り高きものでもであるが……王の御姿には似合わない。

男はこれを削り落とさねばならぬ。


さあ、始めよう。



✂✂✂✂✂✂✂✂



ハイポニキウスはごくりと唾を呑んだ。いよいよ儀式の始まりである。

まずは、鉈。伸び切って折れ曲がり、道家の靴めいて地から浮いている爪部分を切り落とし、本来必要な部分と切り分け、形を整えていく。

男がハイポニキウスの左前足、爪先に鉈で当たりをつけて、ハンマーを――振り下ろす。

ざくり。



「……はふっ♡」



――ざくり。



「ひゃう♡」



どこか喘ぎにも似た声が王の口から漏れ出る。

男は、ハイポニキウスが漏らす声が聞こえていないかのように作業を続ける。

実際聞こえていないのであった。王に選ばれるほどの削蹄師の集中力は随一で、いま男の世界には爪を整えること以外の情報が喪失していた。

しばらく見かけの形を整える段が続き、その度に王はあらぬ声を出した。


続いて、足を抱きかかえるようにして持ち上げると、

鎌のような道具を用いて、蹄を高さ方向に削っていく。

鎌の刃が滑るたびに、しゃくり、しゃくり。

ぺりりと綺麗に、規則正しいリズムで、爪が薄くスライスされては床にこぼれていく。

まるでかさぶたが剥がれ続けるかのような光景である。



しゃくり。



「んっ♡」



しゃくりしゃくり。



「んんんっ♡ おうっ♡」



しゃくりしゃくりしゃくり。



「おっ、ほっ、ほ♡ やっ♡ はぁーっ♡♡♡」



ぞわぞわっ。ぞわわわわ。と、王の下半身の毛が逆立っている。

この削蹄、見ているだけで気持ちのよい光景だが――実のところ、実際されている王にとっては、天井の快楽なのである。

皮膚の部分に傷を入れぬよう、ささくれの一つも作らぬよう、精巧な手さばきで、身を削られるのだ。

冷たく鋭利な刃で、固く変質した蹄を削られ、時にペンチでほぐされ、ばりりと剝がされるのだ。

まるで心の奥に凝り固まって張り付いてしまった汚れのウロコを、一つ一つマッサージされながら落とされているような、まったくえもいわれぬ快感であった。


なにより王である自らが、全てを預けてとろけてもよいということの安心感!


最初の削蹄で自分が発してしまっている声をすっかり自覚した王は、この儀式をとにかく神聖なものと位置づけて削蹄師の男と自ら以外削蹄室に近寄れないことにした。

部屋に入れないだけだと声が漏れてしまうかもしれないので厳密にけっこうな距離を決めて他者を遠ざけている徹底ぶりであった。

当たり前だ。

知られてはならない。

王たる自分が涎を垂らして喘いでいるなど、知られてしまった瞬間黒歴史である……!

だが、気持ち良さには抗えぬ。



「――――♡♡♡」



やすり掛けが終わって蹄がすっかり王の身体と同様に輝きを放つようになったころにはもう、涙さえ浮かべるほどに蕩け切っていた。

左前脚が下ろされる。男がふうと一息を着く。一仕事、終わった雰囲気。

だが、まだ終わりではない。淡々と次は、右前足に狙いが定められる。

ケンタウロスの脚は4本。

ということは、まだあと3回も同等の快楽が続くのである。

恐ろしい。

どうなってしまうのか自分が恐ろしい……。


今回は本当に忙しかったので、いつもより蹄が伸びてしまった自覚があった。

いや、忙しさを理由に、だんだんと蹄を伸ばす間隔が長くなっているような気さえしていた。

伸びすぎた蹄が健康に悪いことなど重々承知。

悪いことをしてしまっているという自覚が心にささくれを作っても、

それでもより長い時間この快感を味わっていたいという気持ちが優先されてしまうのは、

民から崇め奉られている王が、この男にのみ開け晒してしまっている、人間臭いところであった。

とはいえ、あくまで職人である男は気づいてすらいないのだが。



✂✂✂✂✂✂✂✂



誇り高きケンタウロスの王が、小さき人間を見下ろしている。

削蹄師の男は完璧な仕事を終え、床に広がる蹄の残骸を掃除し、道具を懐へと仕舞った。

これから褒美として、男に王宮の御馳走と極上の湯浴みを提供することになっている。

少しだけこの男も、王と同じような上品な香りを身に纏うことになる。

だがそれも一時、すぐに男は野へ帰り、また会う日には土臭い姿へと戻っているだろう。


だがしかし、ケンタウロスの王、ハイポニキウスは、やはりその男に向かってお辞儀をする。

今回もよい仕事だったぞ、と。

うやうやしく。まるで王にとっての王であるかのように。


男はその姿を見て眉をしかめ、だからそんな姿をおれごときに見せるなよ、とぶっきらぼうに返す。

おれはただ――おまえの爪を切りに来ただけなのだからと。

おまえはおれより、ずっと人々のために尽くしているのだから、と。

いいや違うのだ、このお辞儀は――と。

王がそう返すことは、今回もできなかった。



男は、王専属の削蹄師であった。

ケンタウロスの王の蹄を、彼だけが整えることができる。


王は、すべての民の王であった。

そんなケンタウロスの王が隠している爪を、男だけが知ることができる。

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