第120話 やっぱりキス魔な茜さん

 ドアの鍵をおぼつかない手つきで開けると茜が勢いよく飛び込んできた。


「大樹君!? 大丈夫ですか!?」


 よろめいた大樹の背中を心配するような手つきで支える彼女は大樹の額に手をそっと当てた。


「うーん、確かに熱いですね。冷感シートを持ってきたので貼らせてもらいます」

「ああ、どうも……」


 茜に髪の毛をかきあげられ、数秒後、額にふれる冷感に眉を顰める。


「貼り終わりました。ところで大樹君、お腹は空いていませんか?」


 時刻はほぼ正午、朝から縁は塾の夏期特訓に出席しており、流美さんも三日前から友達とヨーロッパに旅行に出ている。

 朝食としてちょっとしたゼリー飲料は飲んだが、それだけで熱で消耗した体力を回復できるはずがない。


「めっちゃお腹空いてる……」

「わかりました! おかゆ、作りますので大樹君は部屋でゆっくりしていてください」


 大樹はこくりと頷くと廊下に出てきつい階段を一歩一歩登り始めるのだった。

 大樹の部屋が二階にあることを思い出したらしい茜が慌てた様子でやってきたがすでに大樹は部屋のベッドに倒れ込んでいた。




「いい匂い」


 大樹は鼻腔をくすぐるその匂いに目を覚ました。


「大樹君、起きましたか?」

「ああうん」


 ドアの向こう側から聞こえる茜の呼び声に答える。


「わかりました。じゃあ体温測っていてください。おかゆ取りに行くので」


 その言葉を残して茜が階段を下っていった。

 大樹は枕元から体温計を取り出してそれを脇に挟む。数十秒ほど放置すると電子音が鳴って液晶に表示された数字を読む。


「38.7か……」


 朝より悪化している。心なしか朝よりもクラクラするような感じがする。遠くから足音が近づいてくる。


「大樹君、具合はどんな感じですか?」

「38.7だった……」

「そうですか……じゃあ、入りますね」


 大樹は思い出したように窓を開ける。それと同時に茜が入ってきた。茜はしばらくマスク越しに匂いを嗅ぐような動作をしたあと目を強く瞑った。その行動の意味を考えていると茜がトレーを持って歩いてくる。

 湯気を立てる小さめの鍋からは食欲をそそる匂いが漂っている。


「はい。こちら、おかゆになります。卵と醤油のシンプルなものになりますね」

「おう。ありがとな。ここまでしてくれるなんて……」

「どういたしまして。ですが当たり前のことですよ? 大樹君には私にもっと依存してもらいたいので」


 少し重い部分を見せた茜であるが、弱っている大樹としては『好きなだけ寄りかかってもいい』というような意味に取れた。


 茜はベッドの端にトレーを置き、鍋からしゃもじを使ってお茶碗におかゆを盛り付ける。そしてスプーンに持ち変え、それを掬った後その先端をこちらに向けてきた。


「あーん、してあげます」

「良いのか?」

「はい。どうぞ」


 大樹はそのスプーンの先端、湯気を立てるおかゆを食べようとしたところ、すっ、とスプーンを逸らされた。

 

「あ、すみません。一個、忘れていましたね」


 茜はマスクを下にずらし、口をすぼめておかゆに息を吹きかける。


「ふぅー。ふぅー……。はい、どうぞ」


 今度こそ突き出されたスプーンの先端を大樹は咥えておかゆを口に含んだのだった。




「なんかすごい安心する……」


 大樹は大体お茶碗1.5杯分程のおかゆを食べて軽く歯磨きをした後再びベッドに潜っていた。ベッドの脇には茜がもたれかかっている。


「よかったです。ところで大樹君。私に気にせず寝てくださいね? 早くよくなってください」

「そうだな」


 互いに声だけで会話する。時々電話はするので新鮮な経験というわけではないのだが、機械によって作られた電話という合成音声ではない生の茜の声だけが聞こえる。

 そんなわけで、大樹の意識は少しずつ微睡みに落ちていった。




 大樹君が寝たであろうタイミングで私はそっと音を立てないように立ち上がります。


「熱が出て弱っているとはいえ、やっぱり大樹君の寝顔素敵です」


 いつもは強くて逞しく、私のことを支えてくれる彼ですが、急に年端もいかない少年のようなものになる彼の寝顔に庇護欲を掻き立てられて、彼の頭をそっと撫でました。きす、したいですが、きっとうつってしまうでしょうから、我慢します。

 その代わり、でしょうか、私は大樹君が抱きしめている抱き枕に小さくきすを落としたのでした。


「にしても、色気が……」


 ほんのりと赤く染まった首筋は少し汗で湿っています.

 そんなところに目をやってまったせいでしょうか。大樹君の耳元、髪の毛、少しはだけたパジャマから覗く筋肉……


「ほんとに……よくないですね……」


 頭がクラクラします。大樹君の風邪が早速うつったのでしょうか。そっと彼に触れてみます。

 指先から伝わる熱をもっと味わうために私は手のひらを押し当てます。

 吐息が零れます。

 やっぱりきすがしたい。そんな欲求が溢れ出ます。


「でも大樹くんは私にうつしたくないですよね」


 彼は今マスクをしながら寝ています。そんな彼の配慮を無視してまで唇同士のきすはできません。


 だから、彼の頬にそっと吸い付くことにしました。



次回投稿

11月4日予定





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る