第47話 茜にハグされて……

「とまあ、これが俺の話。あんまり面白くなかったでしょ」


 大樹は少し冷めたココアを喉に流し込む。冷え込む十一月の夜には少しばかり心許ない。


「俺はさ、ヒーローに憧れてたんだよ。弱い人を助けて守ってあげられるようなさ。でも、人を傷つけそうになった。あの時楓哉に止められなかったらさっきのあいつは骨折してたかもしれない」

「水無月君がなんで出てくるんですか?」


 そういえば伝えていなかったなと気付いて大樹は補足する。


「あの試合に楓哉もいてさ、騒ぎを聞きつけたらしい楓哉が俺を強引に止めたんだよ」

「なるほど。じゃあその時から二人は知り合いだったんですね?」

「いや、まともに話したのは高校上がってから。俺はアイツに会いたくなくて空手の試合に出るのをやめたけど楓哉は俺と友達になってくれた」


 何にも変え難い親友だと大樹は伝える。


「……それで、今はどうなんですか?」

「何のこと?」

「辛くないんですか?」

「辛くない、と思ってた。実際俺の場合楓哉のおかげで殴ることにはならなかったから」


 でも、と繋げる。


「怖かったんだよ。明確に他人を傷つけたいって思ったのは俺の人生で今のところあの時が最初で最後だったから。俺の信念みたいなものが壊されたから」


 だからもう大樹は自分の矜持が壊されないように大人しい生活を送っていたのだ。


「だから、辛いよ」


 人によっては弱いというかもしれない。卑劣だと思うかもしれない。


 ただそんなことを言う人たちは分からないのだろう。自分の守ってきた信念が自分の手で壊されることが。




 茜は黙って目を閉じていた。そして小さく頷いた後


「少し、目を瞑っててください」


 大樹は言われたように目を閉じる。


「閉じましたか?」

「ああ、閉じたよ」

「本当に閉じましたよね?」

「閉じたって」

「では、失礼します」

「何をっ……」


 顔を中心に温かさを感じる。柔らかさも、そして深いところから聞こえる鼓動も。少し息を吸うと柔らかな匂いが大樹の鼻腔をくすぐる。


 抱きしめられた。そう気づくと心拍が跳ね上がり、顔に熱が集まる。


「辛かったんですよね。私にはそんな信念なんてものは持っていないのでその辛さを理解することはできません。でも、草宮大樹という人間を理解したいとは思うんです。いつも支えられているから今だけは恩返しをしたいと思うんです」


 そうして後頭部に力を込められ、顔をさらに押し付けられる。

 茜の特に柔らかい部分が大樹の頬に押し付けられ、鼓動がさらによく聞こえる。


「抱きしめられるとエンドルフィンという物質が出るらしいですよ。エンドルフィンっていうのは苦痛を和らげて幸福感を得ることができる物質なのです。あと、心音もなんか落ち着くらしいですよ」


「だからしばらくはこうです」と茜は言い張った。

 大樹としてはハグ自体の効能に好きな人補正も追加されてドーパミンドバドバ状態なのでもうじきオーバーヒートしそうである。


 それから大樹は五分ほど茜に抱きしめられていた。




「ちょっと恥ずかしいですね」

「じゃあなんでしたの?」


 お互いベンチの反対側を向いて声だけで会話をする。

 向く方向は変わった。それともう一つ変わったことがある。

 単純な距離が近い。お互い手をベンチに置いているのだが、それが時々触れ合うのだ。手を繋いだこともあるし、先ほどハグもされたのだが、言ってしまえば前者ははぐれないようにするための手段であり、後者は茜曰く不可抗力だったらしい。


 茜の指が大樹の手の甲をトントンと叩く。


「ん?」

「そ、その……」


 何か困ったような茜の声色に大樹は体の向きを変えて彼女に向き直る。


「……この状態で話して良いのか微妙ですが、大樹君って明日誕生日でしたよね?」

「そうだね」

「申し訳ないのですが、その……何も用意してません」

「あれ、用意してくれるつもりだったの?」


 本当に意外に思った大樹が訊ねると茜は目を大きく開けて心外だと言うような表情を浮かべた。


「だって、さっきも言ったように大樹君は私の貴重で大切な友達ですから」


 なんと嬉しいことよ。


「もし茜が誕生日プレゼントを俺に渡したかったんだったら大丈夫」

「なんでですか?」


 大樹は微笑みを浮かべて


「今日一緒にライブに付き合ってくれたことで充分だから。楽しい時間をくれてありがとう」

「私も楽しかったですよ」

「そりゃよかった」


 十一月の夜は暗く、冷たい。しかしこの公園のベンチ、特にそこに座る二人にとってそんなことを感じることはなかったのであった。




 帰り道、大樹は茜の家の方向に足を向けていた。

 今まで聞いてなかったがさっきの公園での出来事で思い出し、聞き忘れていたことがあることに気がついた。


「そういえば茜の誕生日っていつ?」


 すると茜は振り返って、小さく首を傾げた。


「あれ、確かに教えた記憶がありませんね。この際教えておきましょう。三月一日です」

「オッケー」




 他愛のない話を続けて、気づけば茜の家の前に来ており、


「では、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 茜が門の横の扉の奥に消えたのを確認してから大樹は帰路をたどるのだった。











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